月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

坂口安吾『堕落論』

こんなブログをやっておいてなんだが、私は昔から読書感想文というものが苦手だった。実は今でも苦手である。というわけで基本的にこのブログのレビューは本文から気になった箇所を引用してそれについて自分なりの見解を書くみたいなスタイルである。なのでネタバレは当たり前のようにある。あと話が脱線するし、時系列が前後する。許していただきたいですが(アリョーシャ風)。

で、今回は坂口安吾の有名な『堕落論』なのだが、これは生前安吾が書いた評論の一つである。『堕落論』自体は短いので(新潮文庫版だと13ページぐらいである。)底の部分だけ読んでみるのもありかとは思う。『堕落論』の続きである『続堕落論』も併せて語っていきたい。この『堕落論』や『続堕落論』が書かれたのは、巻末の年表によれば昭和21年、戦争終ってまだ間もない頃である。そういった時代背景があるものの、今の21世紀を生きる私たちにも通じるものがあると思う。

例えば冒頭のこの部分。

半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそしなめかえりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ我等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがわじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。(『堕落論』)

坂口安吾は人間に対しては『性悪説』からものを見ているように思える。作家は主に人間を書くので、人間がどういうものなのか、つまり『ありのままの人間』知っていなければならない。ということで彼のこの見方はまさに作家ならではの視点と言えるだろう。たとえば、こんな風に。

 この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた。戦争未亡人を堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で彼女達に使徒の余生を送らせようと欲していたのだろう。軍人達の悪徳に対する理解力は敏感であって、彼等は女心の変り易さを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出に及んだまでであった。
 いったい日本の武人は古来婦女子の心情を知らないと言われているが、之は皮相の見解で、彼らの案出した武士道という武骨千万な法則は人間の弱点に対する防壁が最大の意味であった。(同)

『武士道』というものを↑のように考えたことが無かったので、目からうろこだった。なるほど確かに、世の中における『禁止事項』というのは『人間の弱点』を封じる目的がある。違う主君に仕えるのはライバル企業に転職するようなものだ。『二君に仕えず』は一度入社したら最後まで会社に勤めるべしといわれているようなもので、現代に『武士道』が義務付けられたら阿鼻叫喚になりそうな予感もする。夫婦だって簡単に離婚ができないなら、家庭内がもっと殺伐する可能性もある。『昔はよかった』とよく言うが、今なんか昔と比べたらうんと『自由』になった思う。『ありのままでいい』『そのままのあなたでいい』とコンプレックスまみれの自分を肯定してくれるような言葉が氾濫しており『好きなことだけやって嫌いなことはやらない』ということがかなり肯定されている。現在は本当になんでもできるし、何をしても、やらなくてもいい。まさに『神がいなければすべては許されている』の世界だ……あれ、何の話だっけ?

ちなみに天皇制についてはこう書いている。

 すくなくとも日本の政治家達(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼らは永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要を嗅ぎつけていた平安時代藤原氏天皇の擁立を自分勝手にやりながら、自分が天皇の下位であるのを疑りもしなかったし、迷惑にも思っていなかった。天皇の存在によって御家騒動の処理をやり、弟は兄をやりこめ、兄は父をやっつける。彼等は本能的な実質主義者であり、自分の一生が愉しければ良かったし、そのくせ朝儀盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、威厳を感じる手段でもあったのである。(同)

何故天皇制なのか?著者によればそれはこういった理由である。

彼等は日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。それは天皇家に限るものではない。代わり得るものならば、孔子家でも釈迦家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代わり得なかっただけである。(同)

前述の藤原氏のくだりは率直に「何この『大審問官』」と思ったのは内緒である。何故かというと、これだ。

我々にとっては実際馬鹿げたことだ。我々は靖国神社の下を電車が曲がるたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさに閉口したが、或種の人々にとっては、そうすることでしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社に就ってはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄に就て、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気づかないだけのことだ。(同)

 これを踏まえて『カラマーゾフの兄弟』の『大審問官』から引用してみたい。

その悩みとは《だれの前にひれ伏すべきか?》ということにほかならない。自由の身であり続けることになった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探し出すことくらい、絶え間ない厄介な苦労はないからな。しかも人間は、もはや議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。なぜなら、人間と言う哀れな生き物の苦労は、わしなり他のだれかなりがひれ伏すべき対象を探し出すことだけでなく、すべての人間が心からひれ伏すことができるような、それも必ずみんながいっしょにひれ伏せるような対象を探し出すことでもあるからだ。まさにこの跪拝の統一性という欲求こそ、有史以来、個人たると人類全体たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみにほかならない。統一的な跪拝のために人間は剣で互いに滅ぼし合ってきたのだ。(『カラマーゾフの兄弟』第5編)

すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような』相手、我々日本人にとってはそれが天皇制だった、ということなのだろう。『だれの前にひれ伏すべきか』という『悩み』は古今東西、万国共通のようである。それは坂口安吾の言葉を借りれば『そうすることでしか自分を感じることできないから』なのだろう。

で、もうひとつ『大審問官』を思い出した記述がある。

 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。何故なら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏み出した人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。(『堕落論』)

『昔と比べたら今はかなり自由』と私は上で書いたものの、それでもSNSやネットで、世の中や自分を取り巻く現実に対する不平不満の声は止まらない。寧ろ誰もが声を上げやすくなったことでかなり増えたような感じもする。それは安吾の言う通り人間が『永遠に自由では有り得ない』からであり『人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるから』なのだろう。

《お前は世の中に出て行こうと望んで、自由の約束とやらを土産に、手ぶらでいこうとしている。ところが人間たちはもともと単純で、生れつき不作法なため、その約束の意味を理解することもできず、もっぱら恐れ、こわがっている始末だ。なぜなら、人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつで何一つなかったからなのだ!》 (『カラマーゾフの兄弟』第5編)

と、長々と引用したり語ったりしてきたが、この『堕落論』で書かれていることは要するに『人間は誰だって堕落する』ということである。私は著者が『性悪説』から人間を見ていると思ったが、『性善説』でも『性悪説』でもなくいわば『ありのままの人間』、彼の言葉を借りれば『赤裸々な姿』を見ているに過ぎないのではないかと思えてきた。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ち抜くためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎ出さずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。(『堕落論』)

『堕ちないように』ではなく『人間は堕ちるもの』と考え、『堕ちきる』ことが自分自身に対する救いになる、と。『堕ちないようにする』のと『堕ちきってしまう』こと、どちらが正しいのかは論じれないが、『正しく堕ちる道を堕ちきる』とは、『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフにもある『一粒の麦』にも通じるものがあるのかな、とも思ったりする。

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒の麦のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネによる福音書。第十二章二十四節) 

長々となりすぎてしまったので『続堕落論』については次回の記事で触れたいと思う。(また放置する気か)

コロナ時代における現代が舞台の創作物

今はコロナ禍の時代である。
新たなウイルスが新たな時代を作ってしまっている。こうなるとなんかもう元の生活には二度と戻れないような気がしてきた。ウイルスはいなくならないからだ(人類が根絶できたウイルスは天然痘だけである)。もうこれからずっとマスク着用生活が続くのかもしれない、というか下手をしたらこれから生まれてくる子供たちはマスク着用が当たり前になるのかな。「マスクをしなかった時代があったなんて信じられない!」とか言われるかもしれない。

そうなってくると、今後現代を舞台にした創作物がどうなるかが気になってくる。登場人物たちがマスクやフェイスシールドをつけないと違和感が生じてしまうかもしれない。マスクをしないことに理由付けが必要になる可能性もある。敢えて時代を2020年以前にするならばマスクやフェイスシールドをつけないことも可能だろうが、2020年以降はそうはいかないと思う。フィクションとはいえ、あの75年前の戦争や2011年の震災と同じように、コロナ禍という一つの時代を生んでしまった、歴史的な大事件を無視するわけにはいかなくないだろうからだ。これは時代考証を一切無視して大河ドラマを書くようなものである。

……そうなると、マスクだと口元見えないから、目だけで表情を伝える描写が問われるのかな。フェイスシールドをつけている場合でも光が反射するし。キスシーンとかどうするのだろう?

どうなるんですかね、これ。

迷走

何の話かというとこのブログの話である。

なんというか、ここ一か月ぐらいのブログ記事を改めて読み返してみると、なんというか変な自己啓発本とか世の中に物申すみたいな要するに「意識高い系」な「イタタタタ」な記事ばっかり書いているなあと感じる。
しかも自分の言葉よりも本から引いた言葉を引用して語っているので何というか……やっぱり「イタタタタ」になっている。
わたし自身が出来た人間とはお世辞にも言い難いので猶更「イタタタタ」である。

元々は『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフとアリョーシャの関係考察とか読んだ本の感想とかあと手帳やノートについてのんびり語るブログ……だったはずなのに、どうしてこうなったし。

……多分次からは平常運転に戻ります、ハイ。

岡本太郎と『一粒の麦』

最近、岡本太郎の『自分の中に毒を持て』を読み終えた。岡本太郎と言えば『芸術は爆発だ』という名言と、大阪万博の『太陽の塔』の人というイメージしかなかったのだが、読んでいくと今の時代にも通じることがいろいろと書かれており、自分自身のこれまで歩んて来た人生や今の自分を振り返る良い機会になった。

著書の中にはこんな記述がある。

 自分に忠実と称して狭い枠のなかに自分を守って、カッコよく生きようとするのは自分自身に甘えているにすぎない。
 それは人生に甘えることでもある。もし、そんなふうにカッコウにとらわれそうになったら、自分を叩きつぶしてやる。そうすれば逆に自分が猛烈に開け、モリモリ生きていける。
 つまり自分自身の最大の敵は他人ではなく自分自身というわけだ。自分をとりまく状況に甘えて自分をごまかしてしまう。そういう誘惑はしょっちゅうある。だから自分をつっぱなして自分と闘えば、逆に本当の意味での生き方ができる。(『自分の中に毒を持て』より)

更に臨済禅師の有名な言葉「道で仏に逢えば仏を殺せ」についてはこう語る。

「出逢うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら、己を殺せ」(同)

最近は『自己肯定感を高めよう』『自分自身を大切にしよう』と言われているが、それとはある意味真逆なことを言っていると言っても過言ではないだろう。現代と岡本太郎の時代は違うと言われればそれまでだが。

で、私がこの岡本太郎の言葉を読んで思い出したのが『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフとして使われている『一粒の麦』である。

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒の麦のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネによる福音書。第十二章二十四節)

この『一粒の麦』のエピグラフに関しても解釈は様々だ。エピローグのイリューシャの死と少年たち、あるいは『第二の小説』で処刑される(?)アリョーシャのこととも言われている。
まず『死』と聞いて連想するのは、肉体的な、生命が終わる意味での『死』だ。だがイリューシャの場合、彼の死によって少年たちが一体となったわけではない、彼が生きている時に、アリョーシャによって少年たちとの和解は既に進んでいたのだ。
他の『死』についてはどうだろう。作中で明確に『死』を迎えたキャラは、殺害されたフョードル、ソジマ長老、自殺したスメルジャコフ、更にアリョーシャの手記に登場するゾシマ長老の兄マルケル、若きゾシマ長老が出会った『神秘的な客』ミハイルだ。(直接的にも間接的にもアリョーシャが彼らの『死』と対面しているところが興味深い)
フョードルの場合直接手を下したのはスメルジャコフだが、カラマーゾフ家の長兄ミーチャは父親への殺意を抱いていた。ミーチャは殺人を犯さなかったが、この事件のあとに彼は『童』の夢を見、『童』たちのために十字架を背負うことを決意する。
スメルジャコフは自身の『自殺』によってミーチャを『有罪』へと追い込み、更に『師』でもあった異母兄弟のイワンを発狂へと導いた。どちらも『死』によって『実を結んだ』と見えないこともない。
ゾシマ長老の場合はアリョーシャの回心体験へと繋がっていくのだが、直接的にはそれをもたらしたのはグルーシェニカから与えられた『一本の葱』である。
マルケルもミハイルも、その後のゾシマ長老に影響を与えた人物である。だがそれらは彼らの『死』そのものによってもたらされたものとは言い難い。

そういうわけで、ここでいう『一粒の麦』の『死』とは『生命が終わりを迎える』という意味での『死』ではなく、『今までの自分』『過去の自分』が『死』ぬことと解釈した方がいいのではないかと思う。よく漫画とかでみる『これまでの○○はこれで死んだ。ここにいるのは、生れ変わった○○だ』みたいな感じである。これまでの自分に固執していれば『一粒の麦』のままであり、それが精神的に『死』ねば『実を結ぶ』ということだ。
たとえばダイエットをしたい場合、それまでの暴飲暴食をしていた自分が『死』ななければ痩せない――つまり『豊かに実を結ぶ』ことにはならない。暴飲暴食を重ねた自分のままダイエットなどできないので、そうなれば『豊かに実を結ぶ』ことなく『一粒の麦』のままでいることになるのだ。

だが『これまでの自分』が死ぬのは簡単なことではない。よく『他人を変えるより自分を変えるほうが簡単』とかいうが、私はむしろ逆だと思う。自分を変えるのは難しいのだ。なぜなら自分というのは『最大の味方』でもある。『最大の味方』を『敵』とするわけだから。これほど困難なことはない。
また、人というのは『一粒の麦』のまま『豊かに実を結ぶ』ことを考える。『死ぬ』ぐらいなら『一粒の麦』のままでいたい、それでいて『豊かに実を結』びたいとかなり虫のいいことを考える。怪しげなナントカセミナーが儲かったりナントカダイエットが流行るのはそのためだろう。要は『楽して、或いは安全圏から出ないまま結果を出したい』のだ。これは一概に悪いこととは言えない。『楽』をするために、人が文明を発達させてきたという面があるからだ。私だって文章を書くときは手書きよりもPCを使ったほうが楽だと思っているし、こうした文明の恩恵を余すことなく受けている。

だが決定的な出来事が自分の身に降りかかるとき、『これまでの自分』が死なざるを得ないことがある。
例えばゾシマの兄、マルケルの場合。

兄はわたしより八つほど上で、癇の強い、苛立ちやすい気性だったが、善良で、嘲笑的なところはなく、ふしぎなくらい無口で、特にわが家でわたしや、母や、召使に対するときはそうだった。中学での成績はよかったが、友人たちとは、喧嘩こそせぬものの、付き合わなかった。少なくとも、母の記憶ではそうだ。(『カラマーゾフの兄弟』第6編2A)

そのマルケルは、モスクワから追放された政治犯のところへ出入りするようになる。彼はその政治犯に影響を受けたらしく、こんなことを言い放つようになった。

「そんなことは、ばかげた話さ。神なんぞ、全然ありゃしないんだよ」(同)

そんなマルケルだったが、決定的な出来事が起こる。母親が召使の一人を売り飛ばしてから、元々病弱だった彼の身体は病に侵される。結核で『この春は越せまい』と医者に言われた母親は、マルケルに『精進を行って聖餐を受けるよう、頼みはじめた』

これを聞くと兄はすっかり腹を立て、教会を罵ったが、それでも考えこんでしまった。自分が危険な容態であり、だからこそ気力のあるうちに、母が精進を行わせたり、聖餐を受けに教会へやろうとしているのだと、いっぺんに悟ったのである。(同)

ここから自分の死期を悟ったマルケルの精神に、変化が訪れ始める。自分から精進を始めたマルケルは、その理由についてこう語る。

「実を言うとね、お母さん、これはお母さんを喜ばせて安心するためにやってるんですよ」(同)

病をきっかけにおとずれたマルケルの精神的変化が、ここから始まったのだ。そうして、

兄は精神的にすっかり変わった――実に驚くべき変化が突然、兄の内部に起ったのだ! 年とった乳母が兄の部屋に入ってきて、「ごめんくださいまし、坊ちゃま。こちらのお部屋にも聖像の前にお燈明をともしましょう」と言っても、以前なら許さずに吹き消したほどだったが、それが今では「ああ、ともしておくれ、婆や。前には禁じたりして、僕は悪い人間だったね。燈明をともしながら、婆やは神さまにお祈りするのだし、僕はそんな婆やを見て喜びながらお祈りするよ。つまり、僕たちの祈りをあげる神さまは同じってわけさ」と言うのだった。(同)

  1. マルケルの『これまでの自分』――『一粒の麦』のままであった自分が、『燈明をともす』ことを許さずに吹き消していた自分が『死んだ』瞬間であったといえる。マルケルは17歳で亡くなるが、彼のこうした姿は幼いゾシマ長老に影響を与えることになる。

……そしてそのとき、兄マルケルを、そして死ぬ前に召使たちに言った兄の言葉を思い出したのだった。「おまえたちは優しくて親切だね。どうして僕に仕えてくれるんだい? 仕えてもらえるような値打ちが、僕にあるだろうか?――「そうだ、俺にそんな値打ちがあるだろうか?」突然わたしの頭にひらめいた。実際、何の値打ちがあってわたしは、ほかの人間に、わたしと同じように神がおのれに似せて創った人に、仕えてもらっているのだろう? 生れてはじめてこのとき、こんな疑問がわたしの頭に突き刺さった。「お母さん、僕の血潮である大事なお母さん、本当に人間はだれでも、あらゆる人あらゆるものに対して、すべての人の前に罪があるんです。人はそれを知らないだけですよ、知りさえすれば、すぐにでも楽園が生れるにちがいないんです!」ああ、果たしてこれが誤りであろうか、わたしは泣きながら思った。ことによると本当に、わたしはすべての人に対して、世界じゅうのだれよりも罪深く、いちばん罪深い人間かもしれない! こう思うと突然、いっさいの真実が、理性の光に照らされて目の前に現れた。(第6編2C)

これまでの『回心する前』の『一粒の麦』のままだったマルケルが『死んだ』ことによって、放蕩に走っていた若き日のゾシマ長老の回心――つまり『豊かに実を結ぶ』ことへと繋がっていったのである。ゾシマ青年は軍をやめて僧籍に身を置き、かつて殺人を犯した『神秘的な客』ミハイルと『対決』し、更に年月を経て弟子となったアリョーシャへと『教え』が受け継がれていった。マルケルが『一粒の麦』のままであったならば『聖人』ゾシマ長老が生れなかっただろうし、ミハイルも自身の殺人を『告白』しなかっただろうし、アリョーシャも修道院に入らなかったかもしれないのだ。

だが、やはりというか人間というには『自分の力』だけで『回心』ができないというのが実情だ。マルケルにしても、そのきっかけを与えたのは病であり、死期が近いという自分の運命だった。青年ゾシマの場合も従卒アファーナシイを殴って血まみれにさせたという決定的な出来事があって、マルケルの記憶が呼び起こされた。『神秘的な客』ミハイルは自身が『生ける神の手』の聖句を見せられ、自身が『生ける神の手』の中にいることへの恐怖から『罪』を告白するに至った。絶望の淵にいたアリョーシャはグルーシェニカらか一本の葱を貰うことによって『復活』した。ミーチャにしてもグリゴーリイを殺した(実は生きていた)ことや、誤認逮捕されたことで『新しい人間』が生れた。要するに『これまでの自分が死ぬ』には『決定的な事件や出来事』が自分の身に降りかかることしかないのだ。『自分を変えるのは難しい』のはそこなのである。あとは自分自身と長きにわたって闘い続けるほかはない。

わたしはさる《思想のための闘士》を知っているが、その闘士がみずから話してくれたところによると、刑務所で煙草が吸えなくなったとき、あまりの苦しさに、わずかばかりの煙草をもらいたい一心から、もう少しで自分の《思想》を裏切りそうになったのだという。こんな人物が「人類のために戦うぞ」などと言っているのだ。こんな人物がどこへおもむき、何をやれるというのだろう? おざなりの行為ならともかく、永く堪え抜くことはできまい。(第6編3E)

自分を大切にすることは大事だが、大切にしすぎると『一粒の麦』のままで終わる。それに甘んじることも悪くはないかもしれないが、『豊かに実を結』べないとなると他人や社会を非難するようになる。「自分が成功しないのは親が悪い、上司が悪い、社会が悪い」といった具合にだ。

と、考察なのか何なのかよくわからない記事になってしまったので、今回はここまでで終わる。

「バレットジャーナル用ノート」に思うこと

最近カラマーゾフ考察も全然進んでないし読書もカタツムリペースなのでもう手帳文具ブログにしようかなと思い始めた今日この頃。

そういうわけで今日も手帳ネタである。というかノートネタ。
最近はバレットジャーナル用とうたったノートがちょくちょく出てくるようになった。それが以下のようなものである

・表紙はハードカバー(ソフトカバーもあり)
・A5サイズ
・ゴムバンド付き
・後ろにポケットが付いている
・200ページ以上
・INDEXページあり
・ページ番号があらかじめふってある
・ドット方眼

大型の文具店(例:ロフト)とかで見かけるバレットジャーナル用とうたわれているノートはだいたいこのような仕様を持っている。代表的な者はロイヒトトゥルムである。このロイヒトトゥルムはバレットジャーナルの公式ノートされている。そのためかバレットジャーナル用とうたわれるノートの大半が、上記のような仕様なのだ。あとは紙や表紙、ゴムバンドの色が違うか否かぐらいである。

しかし本来バレットジャーナルは「どんなノートでもできる」はずである。INDEXページやノンブルは「あったほうが便利」だしドット方眼にしたって別に必ずそうでないといけないというわけではない。自分が使いやすければ罫線ノートでも無地でも構わないだろう。ページ数が多いのも1年使うのならばページはたっぷりあったほうがいいというだけの話であるし、サイズにしたって持ち歩かなければ別にA4サイズの大きなノートを使っても構わないはずだ(そっちの方が使いやすければ)。また持ち歩きに難儀するのであればコンパクトなノートを使っても構わないはずである。

あくまで個人的な考えだが「バレットジャーナル用」とうたうノートは逆に、バレットジャーナルへの敷居を高くしているのではないかという気持ちがある。いきなり高いノートを買うよりは、まず60ページぐらいの――つまりどんなに遅くても2、3か月で使いきれるぐらいの薄いノートから始めたほうが続けやすいのではないか?と思う。そもそもノートを日ごろから使っている人ならばともかく、一冊使いきれたことがない人間やバレットジャーナル初心者が、いきなり200ページ近くあるノートを使い切れるだろうか? 私も以前はノートを使い切れない人間だった(にもかかわらず厚手のノートをよく買っていた記憶が)ので、まずは薄いノートから始めたほうが無難だとは思う。見た目がおしゃれで機能的に見えてても自分が使いにくくなってしまえば意味がないのだ。

またバレットジャーナル用ノートはおしなべて値段が高い。2000~3000円ぐらいする。私はロイヒトトゥルムのノートを3冊ほど使ったが、3~4か月ぐらいで使い切ってしまった。1年に一冊で済ませる人ならともかく、ノートをたくさん書く人や余裕をもって使いたい人にとってはこれらのノートは決してコスパがいいとは言えないだろう。
更に入手のしづらさも難点である。ロイヒトトゥルムだって東急ハンズやロフトといった大型の文具店じゃないとまず手に入らない。ネットでポチればOKといえばそうなのだが、現物を見てから買いたい派の人はここでも難儀する。また画像で見た時は好さげに見えても、実際使ってみると自分には合わない、使いにくいと感じるということもある。そうなるとノートを使わなくなり、2000円3000円払ったのは何だったのかということになってしまう。システム手帳に比べたら安いが、ノートに2000円や3000円というのは安い買い物とは言い難い。

というわけで、バレットジャーナルをはじめてみたいという方は、まずはバレットジャーナル用ノートへいきなり行こうとせずに、手元にあるノートやで初めて見るのがいいだろう。私も(今はバレットジャーナル要素は手帳に移してしまったが)『なんでもノート』の途中から始めて、だいたい1年ぐらいは続けることができた。「いつからでも始められる」のがバレットジャーナルの利点である。

最後に、上記で上げた「バレットジャーナル用ノート」の仕様で、INDEXとノンブル以外はすべてそろえてあるノートがある。それはモレスキンだ。モレスキンも高いノートなのだが、「バレットジャーナル用ノート」と比べると比較手に入手がしやすいという利点がある。
そう考えるとモレスキンはノートとしてかなり完成されている部類になるのかもしれない。と謎のモレスキンageで今回の記事を終える。裏ぬけするけどね。

 

 

2020年の手帳事情(2020.9現在)或いは現在の手帳の使い方についいて

今日は手帳の話をつらつらと。

以前(7月)の記事で、私は以下のように手帳を使っていると書いた。

・MDノートA5サイズ→バレットジャーナル兼なんでもノート
・Edit方眼ノートA5サイズ→仕事用バレットジャーナル
・ロルバーンダイアリー→日記
・マンスリーの手帳→長期的な予定管理

で、9月現在はこうなった。

・MDノートA5サイズ→ライフログノート兼ネタ帳
・Edit方眼ノートA5サイズ→仕事用バレットジャーナル
・ロルバーンダイアリー→日記
・週間レフトの手帳→予定管理(マンスリー)とタスク管理(ウィークリー)

冊数は変わってないが、私用で使っているMDノートの使い方と、手帳がマンスリー→ウィークリーに変更になった。その理由についてこれからつらつらと書いていきたい。

 

①バレットジャーナルをやめた

ライフログノートやなんでもノートも正直広義には同じじゃないかという気がしないでもないのだが、ノートでバレットジャーナルをつけるのをやめてしまったのだ。
これには理由がある。バレットジャーナルの主な使い方として、今やるべきタスクをキーで箇条書きにしていくというものなのだが、私的にはこれには問題があった。
それはやるべきタスクややりたいタスクを書きだすだけで満足してしまい、行動に移せなかった(タスクを消化できなかった)点である。
ノートというのは思考の掃き出しや整理にはとても最適な場所である。頭の中のごちゃごちゃがノートに書くことですっきりする。だが私の場合、そうして頭の中にある『やるべきこと』『やりたいこと』を『書き出すだけ』で満足してしまう傾向があった。つまり『先延ばしを防ぐ』ためのバレットジャーナルが、いつの間にか『先延ばし』の温床になってしまっていたのである。これを解決する方法としてタスクを手帳で管理することにしたのだが、これについては後述する。
ということでわたしはバレットジャーナルを実質やめてしまったのだ。(仕事用のバレットジャーナルも実はあまり機能していない)
ではノートに関してはどのような使い方に落ち着いたのかというと、ライフログノートである。
思考整理やアイデアの掃き出しのためのなんでもノートとしての役割に加え、その日の起床時間就寝時間、食べたもの、支出の内容など、生活を見直すためにノートにつけ始めた。会社の健康診断であまり良くない数値が出たため、少しでも生活習慣の改善を目指したいという思いから始めたものである。
ライフログはこれまでもほぼ日手帳などでつけていたがいずれも長続きしなかった。その原因は『一日の行動を何でも記録しようとした』から、そして『一日一ページなので毎日其れを埋めようとした』からである。だが記録をつける項目を絞り、更に手帳ではなくノートに書くことで『毎日書く』というプレッシャーから解放された。まだ始めて間もないが、上手くいったらまた年末ぐらいに経過報告したいと思う。

 

②手帳でタスク管理

手帳を使う目的は人によってさまざまだが、私にとって手帳とは『行動するためのもの』という側面が強いことに気が付く。
そのため、バレットジャーナルで行っていた日々のタスク管理を手帳で行うことにした。
使う手帳は週間レフトの手帳である。左ページにその日にやるタスクを前日の夜か当日の朝にバレットジャーナルの要領で判っている分だけ書いていくのだ。これは仕事もプライベートも敢えて分けず、仕事→黒 プライベート→ブルーブラック 需要なタスクは赤で『*』のキーを書き足しておく。やる日が決まっていないが週の間にやっておきたいタスクに関しては、右のフリーページに書いておく。そして完了したら『×』マークを付ける。ノートで行っていたバレットジャーナルを市販の手帳で行う感じである。
このやり方にしてから1か月たつが、ノートでやっていたころよりも先延ばしが減った。『めんどくさいから』『気分が載らないから』『今日は忙しかったから』といってタスク一切手を付けないということもやめて、気分が載らないときや忙しいは少し手を付けただけでOKとした。以前は手帳に書くことで『やらなきゃ』という義務感が生れてそれがプレッシャーになっていたが、逆に『やらなくていい』となったらとことんまでだらけてしまうタチなので『これに手を付ければ『×』をつけられる」というささやかな報酬のためにタスクを先延ばしせず、ちょっとだけでも手を付けるという習慣が生れた。
というわけでマンスリーだけでなくウィークリーも必要になった。寧ろ『行動を後押しする』ということに重点を置いたことにより、予定管理のマンスリーよりもタスク管理のウィークリーのほうがメインになった。マンスリーは簡単な予定や締め切りを書く分で空白が多いのだが、持ち歩きカレンダーとしての役割もあるので、あまり書き込まなくても正直問題ない。かといってマンスリーページがないと一か月を俯瞰して見られないので、たとえ大して書くことがなくてもあったほうが便利なのだ。

 

③ハビットトラッカー

ハビット(習慣)をトラッキング(追跡)するという手帳界隈でおなじみの言葉であるが、要は習慣化したい項目を表にして、出来た日は塗りつぶす、丸をつける、チェックを入れる、といったことをやるのである。ハビットトラッカー自体はバレットジャーナルを使っていた時もやっていたが、これが全然うまくいかなかった。ネットで見てみると、ハビットトラッカーは一か月単位で作っている人が多い。だが私は『一か月何で無理だからとりあえず半月単位で表を作ろう』とした。ところがこれが上手くいかなかった。習慣化したい項目を絞っても、丸が付かない日が何日も続いたのである。習慣化、大失敗である。

というわけで、私はハビットトラッカーを週間レフトの右ページに、一週間単位で作ることにした。毎週表を書くのがめんどくさいが、項目を5つぐらいに絞っているので、さほど表を書くのは苦にならない。また今使っている手帳のメモページが方眼なのも表を作るのに一役買っている。これならいちいちマスを書く必要がないからだ。
一週間単位でトラッキングする利点としては。その項目ができているかできていないのかが、週単位で振り返ることができる点である。よく化粧品や健康食品なんかで『一週間分のお試しセット』なんというものがあるが『一週間』というのは何かを『試す』のにちょうどいい期間である。一週間は7日なので、3日できていなくても4日丸があればできているとみなすことがができるだろう。できなかったとしても『何故うまくいかなかったのか』『続けられないのか』という原因を探り『うまくいくにはどうすればいいのか』『どうすれば続けられるか』という改善策を建てることができる。項目のハードルが高い(例えば腹筋苦手なのに毎日腹筋五十回やるとか無理)という項目のであれば低く設定し、新たに追加したい項目があれば追加する、といった具合にだ。そうして『〇』をつけることがちょっとしたご褒美となり『これができないと〇が付けられないぞ』と習慣化に結び付けられるのである。そうして『一週間』を何度も繰り返しているうちに『気が付いたらこんなに続いていた』となり、自己肯定感も上がっていくのである。
ここで気を付けておきたいのは『得意なことや好きなことを項目に入れない』という点である。ハビットトラッカーの項目に入れるのは、自分が不得意なこと、苦手なことに絞る。例えば私なら『読書』や『ブログの更新』はハビットトラッカーの項目に入れず、手帳にデイリータスクとして、或いはウィークリータスクとして書き込む。逆に『SNSを見ない』『カフェに行かない』『スクワットをやる』といった『やめたいけどなかなかやめられない行動』や『やるのが億劫だけと今の自分には必要な行動』に関してはたとえ長く続いていても細々と続ける必要があるため、項目に入れる。これを逆にしてしまうと『小さなご褒美』よりも『義務感』が勝ってかえって辛くなる。

 

ということで長々と手帳ネタについて書いてみた。画像を入れたほうが良いのだが、いかんせん見せられるページが少ないのでいつも文字ばかりになってしまう。今更ですが読みづらくてすみません。

『未成年』② マカール老人の『自殺者論』

ドストエフスキーの五大長編『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』を一応一通り読み終えることができたわけだが、この5つの小説には必ずと言っていいほど自殺者ないし自殺未遂者が登場する。他のドストエフスキー作品は読んだことがないので判らないが、作者が『自殺者』を各作品に必ず一人は出しているのにはやはり何かしらの意図があるのだろう。

『自殺者』というものを語る人物としては『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老が思い浮かぶ。彼を師として仰いだアリョーシャの手記に、長老の言葉が載せられている。

だが、地上でわれとわが身を滅ぼしたものは嘆かわしい。自殺者は嘆かわしい! これ以上に不幸な者はもはやありえないと思う。彼らのことを神に祈るのは罪悪であると人は言うし、教会も表向きには彼らをしりぞけているかのうようであるが、わたしは心ひそかに、彼らのために祈ることも差支えあるまいと思っている。愛に対してキリストもまさか怒りはせぬだろう。このような人々のことを、わたしは一生を通じて心ひそかに祈ってきた。神父諸氏よ、わたしはそれを告白する、そして今も毎日祈っているのだ。(『カラマーゾフの兄弟』第6編3I)

 自殺者を哀れみ、彼らのために祈りを捧げるゾシマ長老。そのゾシマ長老の『原型』とされている(本当かどうかは知らないが)のが『未成年』に登場する主人公、アルカージイの戸籍上の父、マカール・ドルゴルーキー老人である。マカール老人は、アルカージイの「自殺の罪をどう思うか」という質問に対してこう答える。

「自殺は人間のいちばん大きい罪だよ」と老人はほっと溜息をついて答えた、「でもそれを裁くことができるのは――ひとり主あるのみだよ、だって、いっさいの限度やら、節度やら、なにもかも見とおしていられるのは主のほかにいないのだからな。わしはこのような罪人のことをたえず祈ってやらねばならんのだよ。このような罪のことを耳にしたら、そのたびに、寝るまえに、その罪人のために熱心に祈ってやることだ。その罪人のことを心の中で神にむかって泣いてやるだけでもいい。お前がその罪人をぜんぜん知らなくたっていいんだよ、——そのほうがかえっておまえの祈りが神にとどきやすいのだよ」(『未成年』第三部三章2)

マカール老人はヴェルシーロフとは対照的ないわゆる『神がかり』な人物として書かれており『巡礼者』と作中(アルカージイの手記)では呼ばれている。『ゾシマ長老の原型』といわれるとなるほどなとも思う。この『自殺者』についての自身の考えも、双方全く同じなのだ。(ヴェルシーロフについては以前の記事で触れたが、彼はフョードルの性格とイワンの思想を足したような存在である)。

「でも、その罪人がもう裁きを受けてしまったとしたら、ぼくの祈りが何かの助けになるでしょうか?」
「どうしておまえにそんなことがわかるかね? 多くの者が、おお、ほんとに多くのものが神を信じないで、ばかなことを言って無知な人々を迷わせている。おまえはそんな者たちの言うことを聞いちゃいかんよ、だって当の本人たちがどこへ迷い込んでゆくかわかっちゃいないのだからな。まだ生きている人間からの、裁かれた罪人への祈りはきっととどくものだよ。でなかったら、誰も祈ってくれるもののない罪人の魂はどうなるのだ? だから、寝るまえに、お祈りをするときに、最後にこうつけたすことだよ、『主よ、誰も祈ってくれるもののない罪人たちの魂に哀れみを垂れたまえ』とな。こうした祈りは必ずとどいて、聞きとどけてもらえるものだ。まだ生きている罪人たちのためにも同じように祈ってやるがよい、『主よ、まだ悔い改めぬすべての罪人たちの運命を哀れみ、救いを垂れたまえ』――これもよい祈りだよ」(『未成年』第三部三章2)

引用していて、これも思い出した。こちらもアリョーシャの手記に収められたゾシマ長老の言葉である。

恐れおののきながら主の前に立ったその人の魂にとって、その瞬間、自分のためにも祈ってくれる人がいる、地上にまだ自分を愛してくれる人間がいると感ずることが、どんなに感動的であろうか。そして神もまたお前たち二人を、いっそう慈悲深く眺められることだろう。なぜなら、お前でさえそんなに彼を憐れんでやった以上、お前よりも限りなく慈悲深く愛情豊かな神は、なおさらのことだからだ。そしてお前に免じてその者を赦してくださるにちがいない。(『カラマーゾフの兄弟』第6編G)

ところでアルカージイはマカール老人と対面後、この戸籍上の父についてこう記している。

なによりもわたしの心を惹きつけたのは、すでに前にも述べたように、彼の異常なまでの純粋な心と、すこしの自惚れもないことであった。心がほとんど汚れというものを知らないのではないかと思われた。心の『陽気さ』があった、だから『善美』もあった。彼は『陽気さ』という言葉をひどく好んで、ひんぱんにつかった。もっとも時には病的な歓喜というか、感動の病的にすぎるようなあらわれも見られたが、——(『未成年』第三部三章2)

 こうしてみるとマカール老人はゾシマ長老というか人物像的には『第一の小説』のまま年を取ったアリョーシャっぽいなとも思える(アリョーシャとマカール老人の『共通点』についてはまだ考察の余地があるが、何となくそう感じた、ということで……)。ヴェルシーロフがフョードル+イワンならマカール老人はゾシマ長老+アリョーシャといえるかもしれない。となると『未成年』という作品の中にも『プロ(肯定)とコントラ(否定)』という対になる軸が存在していることになる。そしてその中で、アルカージイは『未成年』らしく足掻いていくのである。