月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

私的手帳の年間ページの使い方

今回も手帳の話である。

双亡亭考察もあるのだけれどいかんせん私の妄想や推測の域を出ないものばかりなのでこのブログで書いていいものか悩む。というか作者はもう新しい作品の連載を始めているので、連載が終わった作品のことを言い続けていいものか迷う。

という話はさておき。

大体の手帳には初めの部分に年間ページがある。手帳にもよるがだいたい1年分の予定とかスケジュールを書く欄があり、多くの場合は見開き1ページ、多くとも2。3ページ程度で1年間を俯瞰してみることができる。しかし手帳は何も予定を書くだけのものではない。例えば人によっては毎日の体重や支出記録に使っている人もいるだろう。

で、私は何を書いているかというと、主に以下の3つとなる。

①日用品や普段使用している者の交換・買い替え
②高い買い物をした日
③私生活での(個人的に)大きなイベントや事件
④重大ニュース、事件

①は例えば部屋の蛍光灯、食器を洗うスポンジ、タオル、財布、靴といったものを買い替えないし新しいものと交換した時に交換した日の欄にそれを書いている。何故わざわざこれを書くかというと買い替えないし交換の周期がわかる。そうすると例えば(前回この日に交換したからそろそろ切れそうだなあ)と突然蛍光灯が切れた時に備えて新しいものを準備しておく、ということも可能だ。或いは(このバッグいつ買い替えたっけ?)と調べた時(まだ買ってから一年経ってないのか。新しいバッグが欲しくなってきたけどもう少し使おう)と物欲の抑制にもなる。

②も①と同様の理由で年間ページに書きこんでいる。ただパソコンとかスマホは保証書とかを見たほうが早いと言えばそうなのだけども(汗)例えば私が大好きな万年筆、やはり金ペンだと安いものでも1万円をこす。そんなにポンポン買っていいものでもない(と言いつつ買いたくなる)ので例えば「2か月前に1本買ったばかりだから今はやめようかな」と物欲抑制につながる…繋がる、よね?

③は例えばどこかに旅行に行った(今はコロナ禍なのでなかなか難しいが)イベントに参加した、或いは親知らずを抜いた、手術をした…といった私生活での大きめなイベントを書いておく。マンスリーページでもいいのだが、年間ページに書いておく方がより1年間を俯瞰して見える。こうすることで、今年はどんな一年だったか、と振り替えがしやすくなったり、またイベントに行ったり旅行に行ったりという計画を立てる時に役だったりするのである。(お金使いすぎたからやめとくか…とか)

④は例えば今年なら北京オリンピックウクライナ侵攻…と日本や世界での大きな事件やニュースを書く。これも③と同じで、一年がどんな年だったかを振り返りやすくするためだ。

と、今回はこんな感じで年間ページを使ってますよというテーマで書いてみた。年間ページを使ったことが無い!という人の参考になればいいなあと思いつつ記事を〆る。

字幅にこだわる

突然だが私はこれまでノートや手帳について語ってきたのだが、同じぐらい好きなのがペンである。シャーペンも万年筆も好きだし、ゲルインクや水性ボールペンも好きである。ただし油性ボールペンはそんなに好きではない。

そして断然細字派である。太字はインクが濃く書けるし書き心地もヌルヌルして気持ちいのだが、字幅が太いと字がつぶれてしまいやすいという難点がある。それに細字の方が自分的には字のバランスが整って見える(※あまりうまい字ではないのでお見せは出来ない)

だがかといって細ければいいというものでもない。

例えば万年筆は国産であればF(細)~MF(中細)ぐらいが好みである。Mだと太い(kakunoの場合は中字も細いが)しEFだと細すぎる。それに以前EFの万年筆を使ったことがあるのだが、字を書いているというよりも紙を針金でひっかいている感触がして好きになれなかった。Fでもカリカリ感はあるのだが、針金レベルの引っかかりはない。慣れてくるといい感じにヌルヌル書けてくる。(ちなみに海外産の万年筆は国産のものよりも太めなのでEFでもMFレベルの太さである。なので例えばラミーのサファリなんかはEFをいつも買っている。Fはちょっと太かった…)

ゲルインクボールペンの場合は太くて0.5,細くて0.4ぐらいが好みである。昔は0.3ミリを愛用していたのだが今は使ってない。0.7だと個人的にはボールペンじゃなくて細めのサインペン感覚になる。ちなみに0.4ミリは主に手帳やメモ帳なんかに使う。ノートに書くときはだいたい0.5である。これ以上細いとやはり紙を引っかいているような感覚が気になって来る。

油性ボールペンの場合は0.5~0.7が好みである。昔は0.7派だったが今は0.5も気に入っている。しかし0.5はいわゆる低粘度ボールペンに限る。普通のボールペンであれば0.7ぐらいでないと書きにくい。
ちなみに油性ボールペンの中ではPILOTのアクロボールというボールペンが好きである。アクロボールのいいところは油性ボールペンでありながらゲルインクボールペンのようなインクの濃さと書き味の柔らかさである。多機能ペンだとクリップがしっかりしているのも個人的には気に入っている。

…とまあやっぱり「書くっていいなあ」ということを再認識しつつ今回の記事を終える。

変えるのは手帳に非ず…かも

もうすぐ4月である。今は4月はじまりの手帳が売り場に並んでいる。私もつい買いたくなってしまうがここは我慢している。

さて、1月から使い始めた(或いは早い人は昨年の10月から使っているかもしれない)手帳は今のところは順調に進んでいる。日記とかはさぼる日もあるのだけれど、そういう場合は翌日に内容を思い出したりとりあえず天気とその日にあった出来事だけ書いとけみたいな適当さで続いている。昨年初めて1冊使い切ったほぼ日手帳についても今のところ毎日書けている。

しかし、冒頭でも少し触れたが、この季節になると例年だと手帳を買い替えくなってしまう。何故ならせっかく買った手帳を書かなくなったり、こっちの方が合ってるんじゃないかと迷走してきてしまうからだ。特に3月は年度末ということもあり仕事が立て込んで忙しい人も多いのではないだろうか。そうして手帳を書かなくなっていったり、忙しい毎日に振りまわされて思うように計画を立てられなかったり自己成長のために手帳を活用しようとしてもうまくいかなかったりするのだ。こうして手帳ジプシーになっていき使いかけの手帳がどんどん増えていくはめになるのである(汗)

確かに手帳が合わないとあれば買い替えるのも一つの手だろう。だが手帳を買い替えるよりももっと手ごろに、しかもお金を使わずにすむ方法がある。

それは途中であっても手帳に書く内容や使い方を変えてしまうことだ。

例えば私が使っているほぼ日手帳は、昨年は「とりあえず何でも書く」というスタンスで、月単位、或いは週単位で書く内容がころころ変わっていた。実を言うと今年のほぼ日手帳も最初は食べたものを記録するようにしようと思ったのだが一か月超えたあたりから面倒くさくなり、現在はその日のタスクややりたいこと、やったことなどを書きだすバレットジャーナルのような使い方となっている。しかし現状の使い方がこうであるというだけであり、また書く内容が変わるかもしれない。

と、このように手帳にしろノートにしろ「○○用」と決めたら最後までその内容を書かなければいけないというわけではない。スケジュール管理に使っていたけど思ったより管理するほどじゃないのでじゃあ三行日記にしてしまうとか、家計簿に挑戦したけど挫折したのでインク見本やマステ帳にしてしまうとか、或いは日記に挑戦したけど続かないのでなんでも帳にしてしまうとかあってもいいのである。手帳は何を書いてもいいし、書く内容や書き方、使い方を途中から変更しても構わないのだ。手帳が続かない、いつも空白ばかりになってしまうと悩んでいる方は尚更である(私だ…)。空白ばかりの手帳、最初の数か月だけ埋めたのに結局挫折して自己嫌悪に陥るぐらいであれば、書く内容や使い方が二転三転四転五転しても一冊使い切ったほうが手帳代も無駄にならなくていいのでないか。いろんな手帳を試して自分に合った手帳を探すのもいいが、せっかく買った手帳であるならば、1冊の手帳に対し書く内容や使い方を試行錯誤していくことで、自分に合った手帳の使い方、これなら長く続けられるという手帳の書き方がおのずと見えてくるだろう。

って私も偉そうなことを言えるような手帳の使い方をしていないがどうか許していただきたい(汗)

手帳が書けなくなってしまうとき

わりと手帳を書かなくなる理由の一つとして「忙しく手帳を書いている時間がない」というのがある。
例えば仕事に追われている時はまず目の前の仕事を片づけることに精一杯になる。そうなるとペンを持って手帳を開いて何かを書き込む時間がもったいなく感じるし、一息ついたときに書こうとしてもそんな時間はまず取れない。またコンプライアンスの関係で仕事のことを書いた手帳やノートを家に持ち帰れないため、家やカフェで仕事の手帳やノートを広げることができない。
そうなると手帳がどんどん空白だらけになってくる。使わなくなり、いつしか引き出しの肥やしになっていく。

またひどく疲れた時、気分が落ち込んでいる時などは手帳を開く気力すらわかなくなってくる。手帳を書くよりもスマホをいじったりYouTubeを見たい、或いはお菓子を食べながらだらだらしたい、早くお布団に入りたい…という欲求の方が強くなってくる。休日は布団から出たくないしやっぱりスマホを見ながらだらだらしたい。手帳を書くよりもスマホを見ることの方が大事だと疲れた脳みそには優先されてしまう。こうして手帳を書かなくなったり使わなくなったりしていくのだ。

そもそも手帳を書かなくても死にはしない。逆に手帳を書く時間をとったことで目の前の仕事がおろそかになったり仕事の進捗が遅れてしまうことの方が問題だ。そうすると周りに迷惑がかかるし自分を苦しめる。手帳を書くのに手間はかからないとはいうがその数分ないし数秒が惜しいと考えてしまうのだ。例えば「メールを送信する」というタスクを書いてもメールが勝手に送信されるわけではい。寧ろそんなものを書くぐらいなら手を動かせ!仕事を片づけろ!ということになる。

ぶっちゃけ巷で言われている手帳術やノート術は自分である程度仕事の裁量が決められる人だったりフリーランスだったり周りに自分の仕事の量や期限が左右されない職業の人向けではないかとつくづく思うことがある。あるいは時間とお金に余裕がある趣味人の道楽かもしれない。そう考えたら自分が手帳を使う理由も単に「手書きで何か書くのが好きだから」「ノートや手帳が好きだから」「文房具が好きだから」以外の理由が出てこなくなった。手帳やノートを使って生活改善とか自己成長とか生産性向上とかは幻想だ、不可能なのだ、自分にはできないことなのだと割り切ることも大事かもしれない。巷の手帳術本なんて進研ゼミの漫画と一緒なのだと。その人にとってはうまくいったかもしれないがそれが自分に合うとは限らないのだから。

うーん、なんだか投げやりな記事になってしまった。

2022年の手帳事情

しばらく双亡亭というか特定キャラの関係性について考察してきたのだが、もう3月になってしまったので手帳とノートについて書いてみたいと思う。

私が2022年に使う手帳やノートは以下の布陣になった

仕事用
・ロルバーンダイアリーMサイズ→バレットジャーナル

プライベート用
ほぼ日手帳ライフログ、タスク管理、予定管理
・MDノートA5サイズ→なんでもノート、ハビットトラッカー
・ペイジェムメモリー(日記)→日記

(仕事で使うノートは○○ノートとかそういう種類はあるのだがここでは割愛)

とメインはこんなかんじである。


・ロルバーンダイアリー
実はMサイズに関しては2冊買ってあって、主に使うのはノートページである。カレンダーページは仕事の予定管理に使っている。何故二冊なのかというとまずもってノートページが1年持たないからだ。だったら普通のMサイズでいいだろと突っ込まれそうだが厚みがダイアリータイプに劣ることもあってリングが小さく、リングにさせるペンが限定的になってしまう。あと個人的にだがダイアリータイプの厚みが何となく好きだ(ん?)
ではなぜLサイズではないかというと、Lサイズだと折り返してもその分場所を取るからである。個人的にロルバーンダイアリーは折り返して机の上において置き、常に目に入るようにしておきたい。しかしノートを広げると他の作業をするときに邪魔になってしまうのだ。

ほぼ日手帳オリジナル
昨年1年使い切ったので今年も継続する…のだがここでその使い方が少し迷走気味になってきてしまった。というのも今年に入ってから業務量が複雑になったり忙しくなったりでなかなか手帳を書く時間はあっても気力がわかないことが多くなってきた。後で書くがほぼ日手帳とは別に日記を導入したことも要因の一つになっていると思う。とはいえどちらかをやめるという選択肢は今のところは無い。ただ今の使い方だと後述するMDノートの使い方とさほど変わらないので何とか友好的な使い方を模索してみたいところである。

・MDノートA5サイズ
頭の中のことを書きだしたりするなんでもノートとして使用。MDノートに変えてからは現在は8冊目になる。私がブログで書いていることもここで一度ネタとして吐き出している。
MDノートを使う理由としては「フラットに180度ページが開く」「万年筆で裏ぬけしない」「他の高級ノートと比べると手を出しやすい」である。フォーマットは方眼、無地、横罫とあるが個人的にいちばん使いやすいのは方眼だと思う。
ちなみにどうしてA5サイズかといえば「鞄に入れて持ち運びができる最大サイズ」であり「広げるとA4サイズになる為、紙面が広く、のびのびと書ける」からである。

・ペイジェムメモリー(日記)
昨年の9月ぐらいから小さめのノートに日記を書いてきたが、今年からは実験的に1日1ページタイプの日記帳で書いてみることにした。なぜこうしたのかというとこのタイプの日記の利点としては日付が最初から入っている為、1ページ埋まらずに数行書いただけでも「書きました」感が出ることである。日によって各分量が違うことも明白になるので「ああこの時は気力なかったんだな」「この日はストレスフルだったんだな」というのがよくわかる(笑)。あと日付が入っていることの利点としては書き忘れても「この日何があったっけな」と思い出しやすくなる。とはいえその日に描かなくて翌日の朝に書くと言ったこともザラなのでこれからあと10か月埋まるのかは不透明だ(もしかしたら挫折するかもしれないし…)
あとこれまでノートを日記として使う利点として「分量を気にせずに書ける」というのがあったのだが、正直今は数ページにわたって書くということがそうそう無いため多くて1ページ以内で充分収まる。このペイジェムの日記は文庫本サイズ(ほぼ日手帳オリジナルと同サイズ)なのでコンパクトかつたっぷりかける、そして何かしら書いてあれば「書きました」感が出る(これはほぼ日手帳も一緒)。1日1ページなので読み返しがしやすいのも利点かもしれない(とはいえそこまで読み返さないかもしれない)

ということで今回は久しぶりの手帳ネタであったが、また半年ぐらいたったら何冊か手帳使わなくなったりしれっと追加されていたりといろいろ変わっているかもしれない(汗)

八巻表紙のあれこれ

双亡亭壊すべし』の単行本には毎回坂巻泥努が書いた「壊すべきはなんぞ」の詩が書かれている。詩の内容は表紙を飾った登場人物のことだったり各巻の内容だったりといろいろと意味を考察してみたくなる。
今回取り上げる八巻の表紙に描かれている人物は残花少尉であり、当巻では気持ち悪い笑顔で絵に引き込まれた後の残花少尉の過去や泥努がいかにして「侵略者」を支配し「双亡亭」の主となったのかが描かれている。しのちゃんマジカワイソス
その八巻の詩はこうだ。

壊すべきはなんぞ 壊すべきはなんぞ
いつかこうして居たっけな
ちょうど其処に腰かけて 一緒にはなしをしただろう
忘れた 月夜の長い影 蓮華の花のむらさきも
ひかった丘の景色すら
思い出すとてなんになる
それよりこの手のはむまあが 砕きて潰すこれからを
語り出すのを聞いてくれ(第八巻)

残花少尉と泥努、二人は子供のころ、よく蓮華畑で遊んていた。縁側で絵を描く由太郎とそれを見ている残花。幸せだった少年時代はもう過去のものになってしまった。そんな切なさを詠ったものと思われる。割と泥努さん直球である。
姉の件や昭和7年の再会を経てすれ違うこととなってしまった二人。双亡亭の主として超人的に振舞いながら「オレとよっちゃんとで二人で龍宮城に行ったらええんじゃ」(第二十三巻)という約束を心の支えに友を待ち続けた泥努。自分を陥れ部下を奪った友に対する憎しみを抱きつつも「嗤った」理由を問い質したい残花少尉。敵同士となっても心の底では互いを友人だと思っていた。残花少尉は言わずもがな、泥努も残花のことを「良い仲良し」(第十二巻)と言っていた。紅から「お前に友達は?」と訊ねられた時に残花の名前を真っ先に出していたほどだ。

ちなみに表紙の残花少尉は第七巻(帰黒が表紙)で落下した双亡亭の看板を踏みつけているのだが、のちに言われるように双亡亭=龍宮城だとすると「残花は龍宮城へは行かない」という伏線なんだろうか。
あと表紙が七巻→帰黒、九巻→泥努なので並べてみると何気に嫁(予定)と幼馴染に残花少尉が挟まれている格好となっているのがちょっと面白い。二人とも矢印が重いし。

泥努の執着と束縛

当ブログで昨年の暮れぐらいから「双亡亭壊すべし」というか坂巻泥努と黄ノ下残花の関係に対する考察をしてきたのだが、正直この考察の8割ぐらいは私の妄想なので、ちゃんとしたした作品考察…ではない。正直妄想もかなり入っているので公式側から出された答えが違っていたら今迄の記事どうしようかな…と内心恐々としています、ハイ。

さて、坂巻泥努という男は、姉であるしのぶを筆頭に、同じ絵描きである凧葉や絵のモデルとして攫ってきた紅に強い執着を向けている。凧葉は「絵の話をするのだ」と約束し、彼が外へ出ようとしたとたんに無数の腕を使って自身のもとへ連れて帰り、彼の屋敷での一挙手一投足を見守り続けていたほどだった。ストーカーか。紅に関してもモデルとして連れてきた彼女を気に入り、彼女の話を聞きながら絵を描く時間を「楽しくなくは、ないな」(第二十巻)と言うほどだった。泥努に仕える103歳のすね毛メイド応尽が彼に反逆し、紅を自分のものにしようとしたときはいたく激昂した。「てめえは何の欲求もねえお絵描き機械じゃねえ!」(同)と応尽が看破したとおり、泥努は気に入った人間、心を赦した人間に対してはいたく執着してくるのだ。

その執着は泥努の幼馴染である残花少尉にも向けられていた。かつて昭和7年に双亡亭で再会した残花少尉は、泥努によって笑いながら絵に引き込まれた。その後の描写を見てもしのぶや凧葉、紅に向けられるベクトルと比べると、幼馴染に対してあまりにも関心が無いように思われた。しかし実際は泥努の「笑顔」は喜びのそれであり、幼い頃「おれと由ちゃんと二人で龍宮城に行ったらええんじゃ」という残花の「約束」を果たしてもらおうとしたのであった。だからこそ「うらしまたろう」の歌を歌っても何も察さずただ「己を莫迦にするな」と激昂した残花少尉に対してはげしい怒りを向けたのだった。つくづくめんどくさいな此奴。

しかし執着心だけならまだかわいいものだが、泥努の場合は執着した相手を永遠に束縛しようとするのだ。先にも述べたが凧葉は絵の話をするために自身のもとに再度連れ戻し、紅に関しても彼は最終決戦の時「侵略者」が人間を滅ぼした後で彼女をモデルとして絵を描くつもりでいたと言っていた。残花少尉も「絵」に引きずり込んだこともだが、彼が泥努を庇って死んだあと「〈双亡亭〉で私と共に生きると約束した残花が死ぬなど、私は許さん」(第二十四巻)「侵略者」の力を使ってでも彼を生き返らせようとした。残花少尉との約束があったとはいえ、泥努は「死」という「別れ」を許さず、彼を永遠に自分のところに「束縛」しようとしたのである。

泥努が相手を「束縛」する理由はおそらく最愛の姉であるしのぶが売れっ子画家月橋詠座と恋仲になったことに起因するのだろう。しのぶは父親に連れ戻されたのだが、その際彼女は病に侵されていた。13歳の泥努=由太郎の視点では「最愛の姉は詠座に奪われた挙句ボロボロにされた」のだ。詠座には妻子がいたがしのぶとは相思相愛だった。(ちなみに詠座はしのぶと恋仲になった理由について「絵が好きだったから」と言っていたが。もしかしたら彼は自分の絵に対する理解者、好きなものを共有できる存在を求めていたのかもしれない。そういう点はある意味詠座と泥努は似ている。また詠座は家が貧しく働きながら独学で絵を学び、ようやく小さな絵が認められて31歳で大出世(第十二巻)だという。このあたりは凧葉の生い立ちと似ている)自身の死期を悟っていたしのぶは「詠座先生ともう…会えんのなら…もう…ええんじゃもん」(第十二巻)と由太郎に衝撃的なことを頼んでしまう「姉ちゃんを殺してね」と。彼女はクリスチャンであり、自殺は出来なかったのだ。
なんでよりによってそれを弟に頼むか…と思ったのだがかつて娘メアリーを火事で亡くしたマーグ夫妻も、ツンデレアウグスト博士に自分たちが侵略者に取り込まれた場合「私達は弱いの。ダカラね…殺してねトラヴィス」(第十八巻)と頼んでいた。マーグ夫妻とアウグスト博士はこの時点ではもう友人と言っても差し支えない信頼関係になっていた。とすれば「信頼している相手に自分の生殺与奪をゆだねた」ということだろう。しのぶにとって詠座を除けば「信頼できる相手は」弟の由太郎をおいてほかにいなかったのではないか。
ちょっと話が横道にそれるが、由太郎は色で物事が判る能力があり、それがもとで座敷牢に入れられかけたところで姉に救われた。では同じ能力を持つしのぶはどうだったのか。彼女に理解者となる相手はいたのだろうか。由太郎が生まれるまで、彼女もまた自分の能力を理解されずに孤独だったのでは?そのために由太郎以上に普通に振舞うことを余儀なくされたとしたらどうだろう。「由太郎もすぐにきっと普通になるから!」(第十二巻)と泣き叫ぶ幼いしのぶの言葉が重い。もしかしたらしのぶにとって弟・由太郎以外で初めて自分を理解してもらえる相手が詠座だったのかもしれない。

とにかく由太郎は姉の言葉通り、しのぶを絞め殺してしまった。その直前に彼がしのぶの中に見たのは東京で詠座と過ごした記憶であり、二人に手を伸ばしても遠ざかっていく由太郎のイメージが描写された。おそらくこれが最後の引き金となった。最愛の姉は自分ではなく恋仲となった詠座のもとへ行ってしまう。由太郎は姉を自分のもとへ連れ戻すために、絞め殺したのだ。
泥努がこの時の記憶を「私の最も美しい記憶」(第八巻)と言っていたのは「最愛の姉を詠座のもとから連れ戻すことができた」からだろう。この時に由太郎は「のうざんちゃん、幸せそうじゃろう」と笑った。それは「姉を連れ戻せた」という「喜び」の笑顔であり、十数年後に泥努が残花少尉を絵に引き込んだときも同じように「嗤った」のだった。(残花少尉を笑った理由に関しては最初唐突感があったが、姉を「連れ戻した」時と同じ種類の「笑顔」だとすれば合点がいく)

泥努の他者への束縛は、凧葉との最終決戦を経てようやく解かれることになった。双亡亭を消滅させることを決めた泥努は、生き返った残花少尉を帰黒と共に元の時代に帰るように促したのだ。(ちなみに1話前にかつて泥努が残花少尉を龍宮城へ連れて行くために描いた「絵」が壁から落ちる描写がある。壁の「絵」が落下したのはあの巨大な「絵」だけでなく全ての「絵」を閉じたからなのだが、龍宮城を否定したあの瞬間残花少尉への束縛も解かれたのだろう)大切な人への執着を手放し、束縛を解き、その人が愛している人と添い遂げさせる。それはかつて姉にしてやれなかったことであった。姉は死んでしまったが、残花少尉は生き返った。泥努はかつて身勝手に残花少尉の部下を奪い、彼自身にも重傷を負わせた。だからこそ姉にしてやれなかったことを幼馴染にしてやりたかったのかもしれない。「もうお前は私に縛られる必要は無いのだ」と。