月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

『あなたじゃない』についての考察(noteより転載・一部修正)

今回のテーマは「あなたじゃない」についてである。
何のことかというと「カラマーゾフの兄弟」に出てくるアリョーシャの台詞だ。
このセリフが出てくるのは時系列だとスメルジャコフの三度目の対面の直前である。ミーチャとの面会を終え、カテリーナのもとを訪れたアリョーシャは、そこでイワンとも会う。この時イワンは「ひどく病人らしい顔」をしていた。イワンはカテリーナの住まいから出ていくのだが、彼女はアリョーシャにイワンを追いかけることを頼む。イワンに追いついたアリョーシャは、先ほどリーズから託された手紙をイワンに渡すのだが、イワンは読むことなくそれを破り、放り投げてしまう。
そして話は翌日に控えたミーチャの裁判の話になる。イワンによれば、カテリーナはミーチャが父フョードルを殺害したことを「数字のようにはっきりと証明する、自筆の文章」を持っているという(酔いに任せてミーチャが書いたもの)。アリョーシャは「そんなもの、あるはすがないでしょう!」と食い下がるがイワンはその文章を読んでいた。しかしアリョーシャは「だって兄さんは犯人じゃないんですから!」とミーチャが犯人であることを否定した。そんなアリョーシャに対してイワンは「じゃあだれが犯人だ」と「傲慢な響き」さえある口調で尋ねる。「だれだ?例の、気のふれた白痴癲癇病みとやらいう、たわごとか?スメルジャコフ説かい?」(第11編5)アリョーシャは「不意に全身が震えているのを感じ」ながら「犯人は誰か。兄さんは知っているでしょうに」という言葉を繰り返す、そして犯人が誰なのかを狂暴になって問い続けるイワンに、こういうのだ。

「僕が知っているのは一つだけです」なおもほとんどささやくように、アリョーシャは言った。「お父さんを殺したのは、あなたじゃありません」(同)(※太字の部分は原卓也氏の訳だと傍点がふってある)

この言葉を聞いたイワンは「愕然と」し「あなたじゃないとは、どういうことだ?」と問いを重ねる。アリョーシャは「しっかりとした口調で」繰り返した。「あなたがお父さんを殺したんじゃない、あなたじゃありません!」(同)
イワンは「俺じゃないことぐらい、自分でも知っているさ。うわごとでも言っているのか?」(同)と「ゆがんだ笑いを浮かべて言い放」つ。
その続きはこう書かれている。

「いいえ、兄さん、あなたは何度か自分自身に、犯人は俺だと言ったはずです」
「いつ言った……? 俺はモスクワに行ってたんだぞ……いつ俺がそんなことを言った?」すっかり度を失って、イワンがつぶやいた。
この恐ろしい二か月の間、一人きりになると、兄さんは何度も自分にそう言ったはずです」とアリョーシャは相変わらずはっきりとした口調でつづけた。だが彼はもはや、さながら自分の意志ではなく、何か逆らうことができぬ命令に従うように、われを忘れて話していた。「兄さんは自分を責めて、犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきたんです。でも殺したのは兄さんじゃない。兄さんは思い違いをしています。犯人はあなたじゃない。いいですね、あなたじゃありません! 僕は兄さんにこのことを言うために、神さまから遣わされてきたんです!」(同)

このアリョーシャの「あなたじゃない」は、実は最初読んだとき意味がよくわからなかったし、同時にインパクトもあった。というのもイワンは犯人は誰なんだと繰り返し問いかけているのに、アリョーシャが「あなたじゃない」と答えたのはなぜなのか。なぜイワンに対して「あなたじゃない」という必要性があったのか。そしてこの言葉がイワンにいかなる衝撃を与えたのか。様々な考察が出ているのだが、どれも自分の中ではしっくりこず、また自分の中でも謎の一つだった。
更に私を混乱させるのは、アリョーシャの「あなたじゃない」の後、イワンとスメルジャコフの三度目の対面時に、そのスメルジャコフがイワンに言い放った台詞である。

「家へお帰りなさいまし。殺したのはあなたじゃないんですから」
 イワンはびくりとふるえた。アリョーシャの言葉が思い出された。(第11編8)

このスメルジャコフの台詞にも実は傍点がふってある(太字で強調した部分)。問題は「アリョーシャの言葉が思い出された」である。アリョーシャとスメルジャコフ、同じ日に言われた二人の「あなたじゃない」が意味するものは何なのか。

そもそもイワンはアリョーシャに「犯人は誰なのか」を訊ねているのだし、「スメルジャコフです」と答えればいいではないかという疑問もあった。しかしこれでは回答になっていない。
この場面の後に(時系列的には「あなたじゃない」以前、イワンとスメルジャコフの一度目と二度目の対面の前ぐらい)アリョーシャが犯人はスメルジャコフであると確信していることが明かされる。その理由はミーチャの「顔」を信じたからであった。そもそも「あなたじゃない」の時点で、イワンはアリョーシャがフョードル殺しの犯人を「スメルジャコフだ」と信じているという事実を既に知っているのだ。ならば今更「犯人はスメルジャコフです」などという必要性はなかったわけだ。

いや、そもそもこの時のイワンは「病人のような顔」をしており、アリョーシャも言うように「この恐ろしい二か月の間」「犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきた」のである。腐臭事件からグルーシェニカからの一本の葱、更に「ガリラヤのカナ」の夢や大地への接吻という経験を経たアリョーシャは以前よりも成長し、兄の「病人のような顔」からゾシマ長老並みの「明敏な洞察力」(第一編5)を以ってこのことを見抜いたと思われる。
このイワンの苦しみ、発狂に至る「恐ろしい二か月間」については「あなたじゃない」の後、時間を二か月前にさかのぼってから、スメルジャコフとの三度の対面を軸にして語られていく(スメルジャコフにはイワンとは別の「恐ろしい二か月間」があったと思われる)。こうして「犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきた」結果アリョーシャがカテリーナのもとを訪れた時は発狂一歩手前まで来ていたと考えられる。
更に言うとイワンはアリョーシャから「犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきた」と言われたことを否定していない。アリョーシャの言葉に誤りがあるのならば、もっと言うと「俺じゃないことぐらい自分でも知っているさ」というのならば「俺はそんなことを言っていない」と否定すればいいだけの話なのだ。つまりこの時点でイワンは「犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきた」という事実を認めたと考えていいだろう。

だが同時にイワンは「真実」と向き合うことも避けていた。これはカテリーナからミーチャの手紙を見せられた時「スメルジャコフでないからには、彼イワンでもない」と「すっかり安心した」(第11編7)ことや、スメルジャコフのことを「軽蔑し去って忘れようと決心した」ことにも表れているだろう。だがそれは表面上の事実でしかなかった。表面上では「俺じゃないことぐらいわかっている」と言いつつも心の底では「犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきた」のだ。言うなれば「犯人は俺だ」と「いや俺じゃないんだ」の堂々巡りである。イワンはこの堂々巡りで苦しんだといってもいいだろう。これもイワン自身が真実と、あるいはスメルジャコフと向き合うことを避けたからとも言える。これはスメルジャコフにも見抜かれていることだった。

「……なぜって、もし本当にあなたが、お見受けしたとおり、いまだに何一つわかっていらっしゃらずに、ご自分の明白な罪をわたしにかぶせようと演技してらっしゃるわけではないにしても、やはりあなたはすべてに対して罪があるんですからね。だってあなたは殺人のことも知っていらしたし、私に殺人を託して、ご自分はすべてを承知のうえでお立ちになったんですからね。(略)あなたは法律上も殺人犯人にほかならないんですよ!」(第11編8)

このスメルジャコフの言葉を聞いて、イワンは「なぜ、なぜ俺が殺人犯なんだ? ああ!」と堪えきれなくなってしまう。イワンの「すべては赦されている」というのは言うなれば自らを神とする「人神思想」なのだが、彼の考えるところによれば、「神にとって、法律は存在しない」(第11編9)とのことで、神を否定した「新しい人間」はこの「神の席」に座ることができる。スメルジャコフはこの思想に本気で取り組んでおり「法律上も」と言葉をつけることで、イワンが「神でも新しい人間でもない」ことを突き付けたのではないかと考えられる。
そしてこのスメルジャコフの「あなたはすべてに対して罪がある」という言葉は、かつてゾシマ長老やその兄マルケル、回心したミーチャも口にし、そしてアリョーシャにも受け継がれている姿勢と実は同じなのだ。

「お母さん、僕の血潮である大事なお母さん、本当はだれでも、あらゆる人あらゆるものに対して、すべての人の前に罪があるんです」(第6編2C)
ことによると、本当に、私はすべての人に対して、世界じゅうのだれよりも罪深く、一番悪い人間かもしれない!(同)
彼はすべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、みずからも赦しを乞いたかった、ああ、だがそれは自分のためにでなく、あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことにたいして赦しを乞うのだ。(第7編4)
「みなさん、わたしたちはみんな薄情です、みんな冷血漢ばかりだ、ほかの人たちや乳飲み子を泣かしているんです。しかしその中でも、中でも僕が一番卑劣な悪党なんだ」(第8編9)

で、イワン自身はどうかというと……。

「ことによると、俺にも罪があるかもしれないし、ことによると、俺は本当に、親父が……死んでくれることを、ひそかに望んでいたかもしれない。しかし、誓っていうが、俺にはお前が考えているほどの罪はないし、ことによると、全然お前をそそのかしたことにならぬかもしれないんだぞ! そう、そうだとも! 俺はそそのかしたりしなかった!」(第11編8)

イワンの言う「俺にも罪があるかもしれないし」というのは「法に触れるか否か」という罪でしかなく、この「すべてに対して罪がある」という自覚、あるいは「自己を抑えて、人々のいっさいの罪の責任者とみなすこと」(第6編3G)はイワンには到底できないものであることが露呈してしまった。スメルジャコフはイワンのこういった面を既に見抜いており、ゾシマ長老やマルケルたちが「回心」に至ったこの自覚を「否定」の側からイワンに投げつけたと考えられる。
(そうなると彼と面識がないはずのゾシマ長老やマルケルとスメルジャコフをつなぐものは何なのかということになるのだが、やはりアリョーシャが何らかの形で二か月の間にスメルジャコフと関わっていた可能性がある)

ところで「自己を抑えていっさいの罪の責任者とみなすこと」ができないイワンとは、「俺は親父を殺しやしないけど、それでも俺は行かねばならないんだ。引き受けるとも!」(第11編4)と自ら「十字架」を背負うことを高らかに宣言しながらそれから逃げ出すミーチャと似ているともいえる。イワン自身は裁判の前日「明日は十字架であって絞首台じゃないんだ。いや、俺は首を吊ったりしないぞ。知っているかい?俺は決して自殺できない人間なんだよ」(第11編10)と言っている。つまり「死の床」から復活したあと、この先「重すぎる」十字架を背負って生きていくのだと取れる。
イワンが持てなかった「いっさいの罪の責任者」という自覚をミーチャが持ち、ミーチャが背負えなかった「重すぎる」十字架をイワンが背負う。こう考えると「つらい重荷を背負えない」兄と弟はもしかしたら二人で十全なのかもしれない。そして彼らの傍らに、彼らの苦しみに寄り添い続け「実行的な愛」をもって闇から光へと導こうとする弟アリョーシャがいるのだ。

さて、話がそれてしまったので「あなたじゃない」に戻ることにする。
イワンは「あいつ」つまり悪魔の幻覚のことを口にしだす。「夜中に、あいつが来ていたとき、お前もいたんだな……白状しろ……あいつを見たんだろ、見たな」(第11編5)おそらくイワンは、自分が見た「悪魔」がアリョーシャにも見えていると期待したのだろう。だがアリョーシャはそれが何のことなのかわからない(アリョーシャはこの時悪魔の幻覚については知らなかったと思われる)。そしてアリョーシャは兄に言う。

「僕があんなことを言ったのは、兄さんが僕の言葉を機っと信じてくれるからです。僕にはそれがわかるんです。あなたじゃない、という今の言葉を、僕は一生をかけて言ったんですよ、いいですか、一生をかけて。兄さんにああ言えと、神さまが僕の心に課したんです、たとえ今の瞬間から、兄さんが僕を永久に憎むようになったとしても……」(同)

イワンが「一生憎むようになったとしても」アリョーシャは「神さまに遣わされて」自身の「一生をかけて」「あなたじゃない」と言ったのだ。
アリョーシャはイワンの「罪」がわかっていただろう。彼はイワンが父フョードルが殺されることを望んでいたことを見抜いており、それでも「あなたじゃない」と言ったと考えられる。彼は「あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことにたいして赦しを乞う」のと同じように「いっさいの罪の責任者」としてイワンのために「赦しを乞う」つもりだったのではないかと思う。そういうわけでいろいろと遠回りしてしまったが、「あなたじゃない」は「俺が犯人だ」「いや俺じゃない」と堂々巡りをし続けるイワンを、「真実」を直視できず、また「いっさいの罪の責任者」になることができないイワンを「恐ろしい二か月間」から救いだすための言葉だったのだ。それも気休めや安易な慰めでもなく「一生をかけ」た重みのある言葉であり、イワンがアリョーシャのことを「一生憎むようになったとしても」勇気を振り絞って言わなければならない言葉だったのだ。

だが「俺が犯人だ」「いや俺じゃない」と堂々巡りをし続けるイワンは、このアリョーシャから「一生をかけて」差し伸べられた「救いの手」を拒絶してしまう。神に対して「謹んで切符をお返しする」(第5編4)と「反逆」し「どんなことにも耐え抜ける力」「カラマーゾフ的な低俗の力」を以って「カラマーゾフ流に」「避ける」ことを選択した彼にとっては「予言者だの、癲癇病みだのは堪えられ」ないのだ。イワンはアリョーシャに対して「今この瞬間から俺は君と絶交する。それも、おそらく永遠にな」(第11編5)と言い放った。

ではスメルジャコフの「あなたじゃない」は何かというと、アリョーシャとは逆の意味だと考えていいだろう。アリョーシャの「あなたじゃない」が「肯定」側イワンを救うためだとしたら、スメルジャコフのそれは「否定」側から、イワンを追い詰めるために発せられたものだ。アリョーシャの「赦し」「救い」の対極にある、スメルジャコフのイワンに対する「裁き」ともいえるだろう。しかしこの二つの「あなたじゃない」は同じ「神さま」の前で発せられた可能性もある。アリョーシャの心に課したのが「救い」「赦し」の面を持つ「神さま」ならば、スメルジャコフの部屋にいた「神さま」は「裁き」の面を持っていたと考えられる(スメルジャコフは三度目の対面の時「第三の存在とは神ですよ。神さまです」(第11編8)と言っている)。そしてイワンはこの「怒りと裁き」の面を持った「神さま」にみられていたと考えられるのだ。イワンがアリョーシャの心に課した「一生をかけた」「赦し」ないし「救い」を拒否したからこそ「裁き」の面を以って「罪人」スメルジャコフを介し「殺したのはあなたじゃありません」と言わせたのかもしれない。

最後にアリョーシャ編纂の「今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯」よりから、この「あなたじゃない」を念頭に置いて編纂されたのではないかと思う個所を抜き出して終わりにしたい。

かりに罪人がお前の接吻にまったく冷淡で、せせら笑いながら立ち去ったとしても、それに心をまどわされてはいけない。これは取りも直さず、まだその罪人の時が訪れないからであり、やがていずれ訪れるだろう。たとえ訪れなくても、しょせん同じことだ。彼でなければ、他の者が彼の代わりにさとり、苦しみ、裁き、みずから自分を責めて、審理は充たされるだろう。このことを信じることだ。疑いなく信ずることだ。なぜなら、聖者のいっさいの期待と信頼はまさにその一事にかかっているからである。(第6編3H)