月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

『実行的な愛』と『人間の顔』②

 

先月『未成年』をようやく読み終えたのだが、その中で主人公アルカージイの実父ヴェルシーロフがこんなことを言っている。

人々をそのあるがままの姿で愛するということは、できないことだよ。しかし、しなければならないことだ。だから、自分の気持ちを殺して、鼻をつまみ、目をつぶって(これが特に必要なのだが)人々に善行してやることだ。人々から悪いことをされても、できるだけ腹をたてずに『彼も人間なのだ』ということを思い出してこらえることだよ」

コーランのどこかでアラーが予言者に『従順ならざる者たち』をねずみぐらいに考えて、善をほどこしてやり、さりげなく通りすぎるがよい、と教えている。これは少し傲慢だがしかし正しいことだ。彼らがよいことをしたときでも軽蔑できるようになることだ、というのはそのような時こそ彼らはもっとも醜さも出すからだ」

「隣人を愛して、しかも軽蔑しない――これはできないことだよ。わしに言わせれば、人間というものは隣人を愛するということが生理的にできないように創られているんだよ。ここにはそもそものはじめから言葉になにかのまちがいがあるのだ、だから『人間に対する愛』という言葉は、きみ自身が自分の心の中につくり上げた人類だけに対する愛(言葉をかえて言えば、自分自身をつくり上げたということになるから、自分自身に対する愛ということになるのだが)、したがって決して実際に存在することのない人類に対する愛と解釈すべきだよ」(『未成年』第二部第一章)

前回の記事で引用した『カラマーゾフの兄弟』のイワンの台詞をもう一度抜き出してみる。

「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなかったんだよ。俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠いものだけだ。いつか、どこかで《情け深いヨアン》という、さる聖人の話を読んだことがあるんだが、飢えて凍えきった一人の旅人やってきて暖めてくれと頼んだとき、聖者はその旅人と一つ寝床に寝て抱きしめ、何やら恐ろしい病気のために膿みただれて悪臭を放つその口へ息を吹きかけはじめたというんだ。しかし、その聖者は発作的な偽善の感情にかられてそんなことをやったのだ、義務に命じられた愛情から、みずから自己に課した宗教的懲罰から、そんなことをやったんだと、俺は確信しているよ。人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」(『カラマーゾフの兄弟』第5編4)

 ヴェルシーロフは『カラマーゾフの兄弟』におけるフョードルのような存在だが(主人公のアルカージイはヴェルシーロフの私生児)考え方はイワンに近いと言えるだろう

「たとえば相手が俺を見て、こういう思想のために苦悩している人間は当然こういう顔ををしているはすだと想像していたのとは、まるきり違い顔を俺がしていることに、ふいに気づくからなんだよ。そこで相手はすぐさま俺から恩恵を剥奪しちまうわけだが、意地わるな心からじゃ決してないんだからな。乞食、それも特におちぶれ貴族の乞食は決して人前に姿を見せたりせず、新聞を通じて施しを仰ぐべきだろうね。抽象的になら、まだ身近な者を愛することはできるし、ときには遠くからでさえも愛せるものだけれど、近くにいられたんじゃほとんど絶対にだめだと言っていい」(同)

 イワンやヴェルシーロフに言わせれば『隣人愛』言うなれば『人間を愛する』には『相手が姿を隠す』或いは『自分が目をつぶる』、つまり何らかの方法で自分の近くにいる『相手の顔を見ないようにする』ことだというのである。そして一人という個人よりも何百、何千、何万、何億という『人類全体』のほうが、個々の、一人一人の『人間の顔』は見えにくくなり、人間は隣人でなく『遠いもの』となるのだ。さらに彼らの言う『人間愛』ないし『人類愛』というのは『自分の心の中につくり上げた人類だけに対する愛(=こういう思想のために苦悩している人間は当然こういう顔ををしているはすだ)』ということらしい。よく人間を守るために悪と戦うヒーローが人間の醜さを目の当たりにして「俺はこんな奴らのために戦っていたのか!」と人間に対して憤慨し絶望するパターンがあるのだが、彼らが守っていたのも結局『自分の心の中につくり上げた人類』なのかもしれないのだ。(そう考えると腐臭事件でアリョーシャか人々に絶望したのは、彼らが『自分の心の中につくり上げた人間』ではなかったからかもしれない)

ただ『遠いもの』や『顔を隠したもの』を愛し、或いは『相手の顔を見ないようにしながら』愛するのは『空想な愛』であり『実行的な愛』とは程遠いといえるだろう。以前の記事でも引用したが『実行的な愛』とは『自分の身近な人たちを、あくことなく、行動によって愛する』(第2編4)ことである。ここでいう『身近な人たち』とは『隣人』であり、顔を隠していない、顔が見えている『近しいもの』であり、何千何万何億という『人類全体』ではなく一人一人の『個人』である。そして自身も相手の顔を見ないように目をつぶったりするのではなく、寧ろ相手の『顔』と『飽くことなく』向き合い続けること。そうして『一本の葱』を与え続けること。これが『実行的な愛』なのだ。それはイワンが『この地上では不可能な奇蹟』とよんだ『キリストの愛』に近いものである。

そしてこの『空想の愛』と『実行的な愛』の問題は、実はエピローグにも出てくる。イリューシャの石の前で、少年たち相手に行われるアリョーシャの演説である。

「僕たちはわるい人間になるかもしれないし、わるい行いの前で踏みとどまることができないかもしれないし、ことによると、さっきコーリャが叫んだみたいに『僕はすべての人々のために苦しみたい』と言う人たちを、意地悪く嘲笑うようになるかもしれない」(エピローグ3)

このコーリャの叫びと言うのは、これである。

「ああ、僕もせめていつの日か、真実のためにこの身を犠牲にできたらな」コーリャが熱狂的に言い放った。
「でもこんな事件じゃなくたって、こんな恥辱や恐怖なぞなくたって、いいでしょう!」アリョーシャは言った。
「もちろんです……全人類のために死ねればとは思いますけど、恥辱なんてことはどうだっていいんです。僕らの名前なんか、滅びるに決まっているんですから! 僕は、お兄さんを尊敬しますよ!」(同)

注目したいのは、アリョーシャがコーリャの台詞を言い換えている点である。『全人類のために死ねればと思いますけど』が『僕はすべての人々のために苦しみたい』に代わっているのだ。

「空想の愛は、すぐに叶えられる手軽な功績や、みなにそれを見てもらうことを渇望する。また事実、一命さえ捧げるという境地にすら達することもあります、ただ。あまり永つづきせず、舞台でやるようになるべく早く成就して、みなに見てもらい、誉めそやしてもらいさえすればいい、というわけですな。ところが実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです」(第二編4)

コーリャが『全人類のために死ねたら』というのは『空想の愛』からだと言っていいだろう。『全人類』は個々の人間の顔が見えず『遠いもの』だからだ。コーリャが無実の罪で滅びたミーチャに英雄的な『憧憬』を抱く。コーリャはまだ13歳の少年であり『愛の経験が少ない』ゆえの未熟さと危うさも内包している。そんなコーリャに対してアリョーシャは『僕はすべての人々のために苦しみたい』と少年の言葉を言いかえている。『すべての人々のために苦しむ』ことは『実行的な愛』を生きることに他ならない。言うなればアリョーシャはコーリャに人間の顔を見ないようにする『空想の愛』ではなく人間の顔と向き合う『実行的な愛』を生きることをこの『言い換え』で説いているのだ。あくまでもコーリャの言葉を否定せずに言い換えているのがアリョーシャらしいと言えるだろう。
(※私が引用しているのは原卓也訳である。光文社の亀山訳だとアリョーシャの言いかえ部分が『全人類のために死ねたら』になっているので訳によって違っているのかもしれないしロシア語の原文はもしかしたら『全人類のために死ねたら』になっているかもしれない。それだと『実行的な愛』を生きるアリョーシャがコーリャの『空想の愛』をそのまま肯定するのはどうなの?とも思うけれど……或いは『第二の小説』でアリョーシャが『実行的な愛』という『仕事』を捨てて『空想の愛』をとるという伏線?ということなのだろか?いや、知らんけど)

……なんか前回書いた記事とあまり内容が変わらないような気もするが、この『実行的な愛』とそれを阻む『人間の顔』の問題、言うなれば『いかにして個々の人間の顔と向き合いながら実行的な愛を生きるか』がテーマと言えるかもしれない。

『われわれの仕事はどうだ? お前も、もの静かなおとなしいわたしの坊やも、今日、渇望している女に葱を与えることができたではないか。はじめるがよい、倅よ、自分の仕事をはじめるのだ、おとなしい少年よ! われわれの太陽が見えるか、お前にはあの人が見えるか?』(第7編4)

『身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠いものだけだ』と言い、実際自分の身近にいるスメルジャコフが『計り知れない自尊心』『傷ついた自尊心』を見せたとたんに嫌悪感を抱き、最後まで彼と向き合わなかったイワン。
《童》の夢を見て自身の罪深さに目覚め、無実の罪を背負うことを決心しつつも結局それから逃げ出そうとし、自身が傷つけたスネギリョフやイリューシャに対して関心を寄せた形跡のないミーチャ。
そんな彼らの代りに『個々の人間の顔』と向き合いながら『実行的な愛』を俗世にて生きようとしているのがアリョーシャなのである。