月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

『未成年』② マカール老人の『自殺者論』

ドストエフスキーの五大長編『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』を一応一通り読み終えることができたわけだが、この5つの小説には必ずと言っていいほど自殺者ないし自殺未遂者が登場する。他のドストエフスキー作品は読んだことがないので判らないが、作者が『自殺者』を各作品に必ず一人は出しているのにはやはり何かしらの意図があるのだろう。

『自殺者』というものを語る人物としては『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老が思い浮かぶ。彼を師として仰いだアリョーシャの手記に、長老の言葉が載せられている。

だが、地上でわれとわが身を滅ぼしたものは嘆かわしい。自殺者は嘆かわしい! これ以上に不幸な者はもはやありえないと思う。彼らのことを神に祈るのは罪悪であると人は言うし、教会も表向きには彼らをしりぞけているかのうようであるが、わたしは心ひそかに、彼らのために祈ることも差支えあるまいと思っている。愛に対してキリストもまさか怒りはせぬだろう。このような人々のことを、わたしは一生を通じて心ひそかに祈ってきた。神父諸氏よ、わたしはそれを告白する、そして今も毎日祈っているのだ。(『カラマーゾフの兄弟』第6編3I)

 自殺者を哀れみ、彼らのために祈りを捧げるゾシマ長老。そのゾシマ長老の『原型』とされている(本当かどうかは知らないが)のが『未成年』に登場する主人公、アルカージイの戸籍上の父、マカール・ドルゴルーキー老人である。マカール老人は、アルカージイの「自殺の罪をどう思うか」という質問に対してこう答える。

「自殺は人間のいちばん大きい罪だよ」と老人はほっと溜息をついて答えた、「でもそれを裁くことができるのは――ひとり主あるのみだよ、だって、いっさいの限度やら、節度やら、なにもかも見とおしていられるのは主のほかにいないのだからな。わしはこのような罪人のことをたえず祈ってやらねばならんのだよ。このような罪のことを耳にしたら、そのたびに、寝るまえに、その罪人のために熱心に祈ってやることだ。その罪人のことを心の中で神にむかって泣いてやるだけでもいい。お前がその罪人をぜんぜん知らなくたっていいんだよ、——そのほうがかえっておまえの祈りが神にとどきやすいのだよ」(『未成年』第三部三章2)

マカール老人はヴェルシーロフとは対照的ないわゆる『神がかり』な人物として書かれており『巡礼者』と作中(アルカージイの手記)では呼ばれている。『ゾシマ長老の原型』といわれるとなるほどなとも思う。この『自殺者』についての自身の考えも、双方全く同じなのだ。(ヴェルシーロフについては以前の記事で触れたが、彼はフョードルの性格とイワンの思想を足したような存在である)。

「でも、その罪人がもう裁きを受けてしまったとしたら、ぼくの祈りが何かの助けになるでしょうか?」
「どうしておまえにそんなことがわかるかね? 多くの者が、おお、ほんとに多くのものが神を信じないで、ばかなことを言って無知な人々を迷わせている。おまえはそんな者たちの言うことを聞いちゃいかんよ、だって当の本人たちがどこへ迷い込んでゆくかわかっちゃいないのだからな。まだ生きている人間からの、裁かれた罪人への祈りはきっととどくものだよ。でなかったら、誰も祈ってくれるもののない罪人の魂はどうなるのだ? だから、寝るまえに、お祈りをするときに、最後にこうつけたすことだよ、『主よ、誰も祈ってくれるもののない罪人たちの魂に哀れみを垂れたまえ』とな。こうした祈りは必ずとどいて、聞きとどけてもらえるものだ。まだ生きている罪人たちのためにも同じように祈ってやるがよい、『主よ、まだ悔い改めぬすべての罪人たちの運命を哀れみ、救いを垂れたまえ』――これもよい祈りだよ」(『未成年』第三部三章2)

引用していて、これも思い出した。こちらもアリョーシャの手記に収められたゾシマ長老の言葉である。

恐れおののきながら主の前に立ったその人の魂にとって、その瞬間、自分のためにも祈ってくれる人がいる、地上にまだ自分を愛してくれる人間がいると感ずることが、どんなに感動的であろうか。そして神もまたお前たち二人を、いっそう慈悲深く眺められることだろう。なぜなら、お前でさえそんなに彼を憐れんでやった以上、お前よりも限りなく慈悲深く愛情豊かな神は、なおさらのことだからだ。そしてお前に免じてその者を赦してくださるにちがいない。(『カラマーゾフの兄弟』第6編G)

ところでアルカージイはマカール老人と対面後、この戸籍上の父についてこう記している。

なによりもわたしの心を惹きつけたのは、すでに前にも述べたように、彼の異常なまでの純粋な心と、すこしの自惚れもないことであった。心がほとんど汚れというものを知らないのではないかと思われた。心の『陽気さ』があった、だから『善美』もあった。彼は『陽気さ』という言葉をひどく好んで、ひんぱんにつかった。もっとも時には病的な歓喜というか、感動の病的にすぎるようなあらわれも見られたが、——(『未成年』第三部三章2)

 こうしてみるとマカール老人はゾシマ長老というか人物像的には『第一の小説』のまま年を取ったアリョーシャっぽいなとも思える(アリョーシャとマカール老人の『共通点』についてはまだ考察の余地があるが、何となくそう感じた、ということで……)。ヴェルシーロフがフョードル+イワンならマカール老人はゾシマ長老+アリョーシャといえるかもしれない。となると『未成年』という作品の中にも『プロ(肯定)とコントラ(否定)』という対になる軸が存在していることになる。そしてその中で、アルカージイは『未成年』らしく足掻いていくのである。