月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

岡本太郎と『一粒の麦』

最近、岡本太郎の『自分の中に毒を持て』を読み終えた。岡本太郎と言えば『芸術は爆発だ』という名言と、大阪万博の『太陽の塔』の人というイメージしかなかったのだが、読んでいくと今の時代にも通じることがいろいろと書かれており、自分自身のこれまで歩んて来た人生や今の自分を振り返る良い機会になった。

著書の中にはこんな記述がある。

 自分に忠実と称して狭い枠のなかに自分を守って、カッコよく生きようとするのは自分自身に甘えているにすぎない。
 それは人生に甘えることでもある。もし、そんなふうにカッコウにとらわれそうになったら、自分を叩きつぶしてやる。そうすれば逆に自分が猛烈に開け、モリモリ生きていける。
 つまり自分自身の最大の敵は他人ではなく自分自身というわけだ。自分をとりまく状況に甘えて自分をごまかしてしまう。そういう誘惑はしょっちゅうある。だから自分をつっぱなして自分と闘えば、逆に本当の意味での生き方ができる。(『自分の中に毒を持て』より)

更に臨済禅師の有名な言葉「道で仏に逢えば仏を殺せ」についてはこう語る。

「出逢うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら、己を殺せ」(同)

最近は『自己肯定感を高めよう』『自分自身を大切にしよう』と言われているが、それとはある意味真逆なことを言っていると言っても過言ではないだろう。現代と岡本太郎の時代は違うと言われればそれまでだが。

で、私がこの岡本太郎の言葉を読んで思い出したのが『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフとして使われている『一粒の麦』である。

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒の麦のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネによる福音書。第十二章二十四節)

この『一粒の麦』のエピグラフに関しても解釈は様々だ。エピローグのイリューシャの死と少年たち、あるいは『第二の小説』で処刑される(?)アリョーシャのこととも言われている。
まず『死』と聞いて連想するのは、肉体的な、生命が終わる意味での『死』だ。だがイリューシャの場合、彼の死によって少年たちが一体となったわけではない、彼が生きている時に、アリョーシャによって少年たちとの和解は既に進んでいたのだ。
他の『死』についてはどうだろう。作中で明確に『死』を迎えたキャラは、殺害されたフョードル、ソジマ長老、自殺したスメルジャコフ、更にアリョーシャの手記に登場するゾシマ長老の兄マルケル、若きゾシマ長老が出会った『神秘的な客』ミハイルだ。(直接的にも間接的にもアリョーシャが彼らの『死』と対面しているところが興味深い)
フョードルの場合直接手を下したのはスメルジャコフだが、カラマーゾフ家の長兄ミーチャは父親への殺意を抱いていた。ミーチャは殺人を犯さなかったが、この事件のあとに彼は『童』の夢を見、『童』たちのために十字架を背負うことを決意する。
スメルジャコフは自身の『自殺』によってミーチャを『有罪』へと追い込み、更に『師』でもあった異母兄弟のイワンを発狂へと導いた。どちらも『死』によって『実を結んだ』と見えないこともない。
ゾシマ長老の場合はアリョーシャの回心体験へと繋がっていくのだが、直接的にはそれをもたらしたのはグルーシェニカから与えられた『一本の葱』である。
マルケルもミハイルも、その後のゾシマ長老に影響を与えた人物である。だがそれらは彼らの『死』そのものによってもたらされたものとは言い難い。

そういうわけで、ここでいう『一粒の麦』の『死』とは『生命が終わりを迎える』という意味での『死』ではなく、『今までの自分』『過去の自分』が『死』ぬことと解釈した方がいいのではないかと思う。よく漫画とかでみる『これまでの○○はこれで死んだ。ここにいるのは、生れ変わった○○だ』みたいな感じである。これまでの自分に固執していれば『一粒の麦』のままであり、それが精神的に『死』ねば『実を結ぶ』ということだ。
たとえばダイエットをしたい場合、それまでの暴飲暴食をしていた自分が『死』ななければ痩せない――つまり『豊かに実を結ぶ』ことにはならない。暴飲暴食を重ねた自分のままダイエットなどできないので、そうなれば『豊かに実を結ぶ』ことなく『一粒の麦』のままでいることになるのだ。

だが『これまでの自分』が死ぬのは簡単なことではない。よく『他人を変えるより自分を変えるほうが簡単』とかいうが、私はむしろ逆だと思う。自分を変えるのは難しいのだ。なぜなら自分というのは『最大の味方』でもある。『最大の味方』を『敵』とするわけだから。これほど困難なことはない。
また、人というのは『一粒の麦』のまま『豊かに実を結ぶ』ことを考える。『死ぬ』ぐらいなら『一粒の麦』のままでいたい、それでいて『豊かに実を結』びたいとかなり虫のいいことを考える。怪しげなナントカセミナーが儲かったりナントカダイエットが流行るのはそのためだろう。要は『楽して、或いは安全圏から出ないまま結果を出したい』のだ。これは一概に悪いこととは言えない。『楽』をするために、人が文明を発達させてきたという面があるからだ。私だって文章を書くときは手書きよりもPCを使ったほうが楽だと思っているし、こうした文明の恩恵を余すことなく受けている。

だが決定的な出来事が自分の身に降りかかるとき、『これまでの自分』が死なざるを得ないことがある。
例えばゾシマの兄、マルケルの場合。

兄はわたしより八つほど上で、癇の強い、苛立ちやすい気性だったが、善良で、嘲笑的なところはなく、ふしぎなくらい無口で、特にわが家でわたしや、母や、召使に対するときはそうだった。中学での成績はよかったが、友人たちとは、喧嘩こそせぬものの、付き合わなかった。少なくとも、母の記憶ではそうだ。(『カラマーゾフの兄弟』第6編2A)

そのマルケルは、モスクワから追放された政治犯のところへ出入りするようになる。彼はその政治犯に影響を受けたらしく、こんなことを言い放つようになった。

「そんなことは、ばかげた話さ。神なんぞ、全然ありゃしないんだよ」(同)

そんなマルケルだったが、決定的な出来事が起こる。母親が召使の一人を売り飛ばしてから、元々病弱だった彼の身体は病に侵される。結核で『この春は越せまい』と医者に言われた母親は、マルケルに『精進を行って聖餐を受けるよう、頼みはじめた』

これを聞くと兄はすっかり腹を立て、教会を罵ったが、それでも考えこんでしまった。自分が危険な容態であり、だからこそ気力のあるうちに、母が精進を行わせたり、聖餐を受けに教会へやろうとしているのだと、いっぺんに悟ったのである。(同)

ここから自分の死期を悟ったマルケルの精神に、変化が訪れ始める。自分から精進を始めたマルケルは、その理由についてこう語る。

「実を言うとね、お母さん、これはお母さんを喜ばせて安心するためにやってるんですよ」(同)

病をきっかけにおとずれたマルケルの精神的変化が、ここから始まったのだ。そうして、

兄は精神的にすっかり変わった――実に驚くべき変化が突然、兄の内部に起ったのだ! 年とった乳母が兄の部屋に入ってきて、「ごめんくださいまし、坊ちゃま。こちらのお部屋にも聖像の前にお燈明をともしましょう」と言っても、以前なら許さずに吹き消したほどだったが、それが今では「ああ、ともしておくれ、婆や。前には禁じたりして、僕は悪い人間だったね。燈明をともしながら、婆やは神さまにお祈りするのだし、僕はそんな婆やを見て喜びながらお祈りするよ。つまり、僕たちの祈りをあげる神さまは同じってわけさ」と言うのだった。(同)

  1. マルケルの『これまでの自分』――『一粒の麦』のままであった自分が、『燈明をともす』ことを許さずに吹き消していた自分が『死んだ』瞬間であったといえる。マルケルは17歳で亡くなるが、彼のこうした姿は幼いゾシマ長老に影響を与えることになる。

……そしてそのとき、兄マルケルを、そして死ぬ前に召使たちに言った兄の言葉を思い出したのだった。「おまえたちは優しくて親切だね。どうして僕に仕えてくれるんだい? 仕えてもらえるような値打ちが、僕にあるだろうか?――「そうだ、俺にそんな値打ちがあるだろうか?」突然わたしの頭にひらめいた。実際、何の値打ちがあってわたしは、ほかの人間に、わたしと同じように神がおのれに似せて創った人に、仕えてもらっているのだろう? 生れてはじめてこのとき、こんな疑問がわたしの頭に突き刺さった。「お母さん、僕の血潮である大事なお母さん、本当に人間はだれでも、あらゆる人あらゆるものに対して、すべての人の前に罪があるんです。人はそれを知らないだけですよ、知りさえすれば、すぐにでも楽園が生れるにちがいないんです!」ああ、果たしてこれが誤りであろうか、わたしは泣きながら思った。ことによると本当に、わたしはすべての人に対して、世界じゅうのだれよりも罪深く、いちばん罪深い人間かもしれない! こう思うと突然、いっさいの真実が、理性の光に照らされて目の前に現れた。(第6編2C)

これまでの『回心する前』の『一粒の麦』のままだったマルケルが『死んだ』ことによって、放蕩に走っていた若き日のゾシマ長老の回心――つまり『豊かに実を結ぶ』ことへと繋がっていったのである。ゾシマ青年は軍をやめて僧籍に身を置き、かつて殺人を犯した『神秘的な客』ミハイルと『対決』し、更に年月を経て弟子となったアリョーシャへと『教え』が受け継がれていった。マルケルが『一粒の麦』のままであったならば『聖人』ゾシマ長老が生れなかっただろうし、ミハイルも自身の殺人を『告白』しなかっただろうし、アリョーシャも修道院に入らなかったかもしれないのだ。

だが、やはりというか人間というには『自分の力』だけで『回心』ができないというのが実情だ。マルケルにしても、そのきっかけを与えたのは病であり、死期が近いという自分の運命だった。青年ゾシマの場合も従卒アファーナシイを殴って血まみれにさせたという決定的な出来事があって、マルケルの記憶が呼び起こされた。『神秘的な客』ミハイルは自身が『生ける神の手』の聖句を見せられ、自身が『生ける神の手』の中にいることへの恐怖から『罪』を告白するに至った。絶望の淵にいたアリョーシャはグルーシェニカらか一本の葱を貰うことによって『復活』した。ミーチャにしてもグリゴーリイを殺した(実は生きていた)ことや、誤認逮捕されたことで『新しい人間』が生れた。要するに『これまでの自分が死ぬ』には『決定的な事件や出来事』が自分の身に降りかかることしかないのだ。『自分を変えるのは難しい』のはそこなのである。あとは自分自身と長きにわたって闘い続けるほかはない。

わたしはさる《思想のための闘士》を知っているが、その闘士がみずから話してくれたところによると、刑務所で煙草が吸えなくなったとき、あまりの苦しさに、わずかばかりの煙草をもらいたい一心から、もう少しで自分の《思想》を裏切りそうになったのだという。こんな人物が「人類のために戦うぞ」などと言っているのだ。こんな人物がどこへおもむき、何をやれるというのだろう? おざなりの行為ならともかく、永く堪え抜くことはできまい。(第6編3E)

自分を大切にすることは大事だが、大切にしすぎると『一粒の麦』のままで終わる。それに甘んじることも悪くはないかもしれないが、『豊かに実を結』べないとなると他人や社会を非難するようになる。「自分が成功しないのは親が悪い、上司が悪い、社会が悪い」といった具合にだ。

と、考察なのか何なのかよくわからない記事になってしまったので、今回はここまでで終わる。