月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

坂口安吾『堕落論』

こんなブログをやっておいてなんだが、私は昔から読書感想文というものが苦手だった。実は今でも苦手である。というわけで基本的にこのブログのレビューは本文から気になった箇所を引用してそれについて自分なりの見解を書くみたいなスタイルである。なのでネタバレは当たり前のようにある。あと話が脱線するし、時系列が前後する。許していただきたいですが(アリョーシャ風)。

で、今回は坂口安吾の有名な『堕落論』なのだが、これは生前安吾が書いた評論の一つである。『堕落論』自体は短いので(新潮文庫版だと13ページぐらいである。)底の部分だけ読んでみるのもありかとは思う。『堕落論』の続きである『続堕落論』も併せて語っていきたい。この『堕落論』や『続堕落論』が書かれたのは、巻末の年表によれば昭和21年、戦争終ってまだ間もない頃である。そういった時代背景があるものの、今の21世紀を生きる私たちにも通じるものがあると思う。

例えば冒頭のこの部分。

半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそしなめかえりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ我等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがわじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。(『堕落論』)

坂口安吾は人間に対しては『性悪説』からものを見ているように思える。作家は主に人間を書くので、人間がどういうものなのか、つまり『ありのままの人間』知っていなければならない。ということで彼のこの見方はまさに作家ならではの視点と言えるだろう。たとえば、こんな風に。

 この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた。戦争未亡人を堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で彼女達に使徒の余生を送らせようと欲していたのだろう。軍人達の悪徳に対する理解力は敏感であって、彼等は女心の変り易さを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出に及んだまでであった。
 いったい日本の武人は古来婦女子の心情を知らないと言われているが、之は皮相の見解で、彼らの案出した武士道という武骨千万な法則は人間の弱点に対する防壁が最大の意味であった。(同)

『武士道』というものを↑のように考えたことが無かったので、目からうろこだった。なるほど確かに、世の中における『禁止事項』というのは『人間の弱点』を封じる目的がある。違う主君に仕えるのはライバル企業に転職するようなものだ。『二君に仕えず』は一度入社したら最後まで会社に勤めるべしといわれているようなもので、現代に『武士道』が義務付けられたら阿鼻叫喚になりそうな予感もする。夫婦だって簡単に離婚ができないなら、家庭内がもっと殺伐する可能性もある。『昔はよかった』とよく言うが、今なんか昔と比べたらうんと『自由』になった思う。『ありのままでいい』『そのままのあなたでいい』とコンプレックスまみれの自分を肯定してくれるような言葉が氾濫しており『好きなことだけやって嫌いなことはやらない』ということがかなり肯定されている。現在は本当になんでもできるし、何をしても、やらなくてもいい。まさに『神がいなければすべては許されている』の世界だ……あれ、何の話だっけ?

ちなみに天皇制についてはこう書いている。

 すくなくとも日本の政治家達(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼らは永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要を嗅ぎつけていた平安時代藤原氏天皇の擁立を自分勝手にやりながら、自分が天皇の下位であるのを疑りもしなかったし、迷惑にも思っていなかった。天皇の存在によって御家騒動の処理をやり、弟は兄をやりこめ、兄は父をやっつける。彼等は本能的な実質主義者であり、自分の一生が愉しければ良かったし、そのくせ朝儀盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、威厳を感じる手段でもあったのである。(同)

何故天皇制なのか?著者によればそれはこういった理由である。

彼等は日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。それは天皇家に限るものではない。代わり得るものならば、孔子家でも釈迦家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代わり得なかっただけである。(同)

前述の藤原氏のくだりは率直に「何この『大審問官』」と思ったのは内緒である。何故かというと、これだ。

我々にとっては実際馬鹿げたことだ。我々は靖国神社の下を電車が曲がるたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさに閉口したが、或種の人々にとっては、そうすることでしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社に就ってはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄に就て、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気づかないだけのことだ。(同)

 これを踏まえて『カラマーゾフの兄弟』の『大審問官』から引用してみたい。

その悩みとは《だれの前にひれ伏すべきか?》ということにほかならない。自由の身であり続けることになった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探し出すことくらい、絶え間ない厄介な苦労はないからな。しかも人間は、もはや議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。なぜなら、人間と言う哀れな生き物の苦労は、わしなり他のだれかなりがひれ伏すべき対象を探し出すことだけでなく、すべての人間が心からひれ伏すことができるような、それも必ずみんながいっしょにひれ伏せるような対象を探し出すことでもあるからだ。まさにこの跪拝の統一性という欲求こそ、有史以来、個人たると人類全体たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみにほかならない。統一的な跪拝のために人間は剣で互いに滅ぼし合ってきたのだ。(『カラマーゾフの兄弟』第5編)

すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような』相手、我々日本人にとってはそれが天皇制だった、ということなのだろう。『だれの前にひれ伏すべきか』という『悩み』は古今東西、万国共通のようである。それは坂口安吾の言葉を借りれば『そうすることでしか自分を感じることできないから』なのだろう。

で、もうひとつ『大審問官』を思い出した記述がある。

 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。何故なら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏み出した人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。(『堕落論』)

『昔と比べたら今はかなり自由』と私は上で書いたものの、それでもSNSやネットで、世の中や自分を取り巻く現実に対する不平不満の声は止まらない。寧ろ誰もが声を上げやすくなったことでかなり増えたような感じもする。それは安吾の言う通り人間が『永遠に自由では有り得ない』からであり『人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるから』なのだろう。

《お前は世の中に出て行こうと望んで、自由の約束とやらを土産に、手ぶらでいこうとしている。ところが人間たちはもともと単純で、生れつき不作法なため、その約束の意味を理解することもできず、もっぱら恐れ、こわがっている始末だ。なぜなら、人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつで何一つなかったからなのだ!》 (『カラマーゾフの兄弟』第5編)

と、長々と引用したり語ったりしてきたが、この『堕落論』で書かれていることは要するに『人間は誰だって堕落する』ということである。私は著者が『性悪説』から人間を見ていると思ったが、『性善説』でも『性悪説』でもなくいわば『ありのままの人間』、彼の言葉を借りれば『赤裸々な姿』を見ているに過ぎないのではないかと思えてきた。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ち抜くためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎ出さずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。(『堕落論』)

『堕ちないように』ではなく『人間は堕ちるもの』と考え、『堕ちきる』ことが自分自身に対する救いになる、と。『堕ちないようにする』のと『堕ちきってしまう』こと、どちらが正しいのかは論じれないが、『正しく堕ちる道を堕ちきる』とは、『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフにもある『一粒の麦』にも通じるものがあるのかな、とも思ったりする。

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒の麦のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネによる福音書。第十二章二十四節) 

長々となりすぎてしまったので『続堕落論』については次回の記事で触れたいと思う。(また放置する気か)