月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

坂口安吾『続堕落論』

今回は『堕落論』の続編的なものになる『続堕落論』について書いていきたい。
個人的には著者の文章を全部引用したいぐらいなのだが流石にそれやめる。ということで、前回同様に個人的に気になった箇所を紹介していきたい。

最初は著者が生れた新潟のこと『農村文化』のことについて語られている。

 一口に農村文化というけれども、そもそも農村に分化があるか。盆踊りだのお祭礼風俗だの、耐乏精神だの本当的な貯蓄精神はあるかも知れぬが、文化の本質は進歩ということで、農村には進歩に関する毛一筋の影だにない。あるものは排他的精神と、他へ対する不信、勘ぐり深い魂だけで、損得の執拗な計算が発達しているだけである。農村は純朴という奇妙な言葉が無反省に使用されてきたものだが、元来農村はその成立の始めから淳朴などという性格はなかった。
 大化改新以来、農村精神とは脱税を案出する不撓不屈の精神で、浮浪人となって脱税し、戸籍をごまかして脱税し、そして彼等農民達小さな個々の悪戦苦闘の脱税行為が実は日本経済の結び目であり、それによって荘園が起り、荘園が栄え、荘園が衰え、貴族が滅びて武士が興った。(中略)彼等は常に受身である。自分の方からこうしたいとは言わず、また、言い得ない。その代り押し付けられた事柄を彼等独特のずるさによって処理しておるので、そしてその受身のずるさが孜々として、日本の歴史を動かしてきたのだった。(『続堕落論』)

これだけ見るとこの人は田舎が嫌いなのかと思ってしまうのだが、

損得という利害の打算が生活の根柢で、より高い精神への渇望、自我の内省と他の発見は農村の精神に見出すことができない。他の発見のないところに真実の文化が有りうるべき筈はない。自我の省察がないところに文化の有りうべき筈はない。(同)

著者はただ農村の悪口を言っているわけではない(はず)。『利害の打算』『受身のずるさ』のくだりは現代を生きる我々にも当てはまる部分があると思う。例えば会社や家庭、或いは現在の自分の境遇についての愚痴や不満をSNSで吐き出しながら、それを改善しようと動いたりしているかと思えば何もしないで周囲の人間の悪口を言ったり……とか。……何だかものすごく身につまされる。

農村の精神は耐乏、忍苦の精神だという。乏しきに耐える精神がなんで美徳であるものか。必要は発明の母と言う。乏しきに耐えず、不便に耐え得ず、必要を求めるところに発明が起り、文化が起り、進歩と言うものが行われてくるのである

これは一見するといわゆる便利さを求める文明の話かと思えばそうでもない。例えば会社に対して愚痴や不満があるのならば、上司に配属替えを訴えたり、転職のためにスキルを磨いたり、或いは職場の同僚と仕事について話し合ったりと現状を変える(=発明する)ためにできることはある。不満を抱えつつ何も行動しないのは『こんな苦しいことに耐えている俺私はすごいんだ!』と単に行動しないのを『耐えている自分』=『美徳』と誤魔化しているに過ぎない、ということなのだろう。『求めよさらば与えられん』とは真逆である。

ああ、われわれがいなかったら、人間どもは決して食にありつくことはできないだろう! 彼らが自由でありつづけるかぎり、いかなる科学もパンを与えることはできないだろう。だが、最後には彼らがわれわれの足元に自由をさしだしていっそ奴隷にしてください、でも食べるものは与えてください》と言うことだろう。ついに彼ら自身が、どんな人間にとっても自由と地上のパンとは両立して考えられぬことをさとるのだ。それというのも、彼等は決してお互い同士の間で分かち合うことができないからなのだ!(『カラマーゾフの兄弟』第5編)

 『堕落論』を読んでいると『カラマーゾフの兄弟』の『大審問官』の件を思い出さずにはいられなくなる。90歳の老審問官が突然現れたイエス・キリストに語るのは《だれの前にひれ伏すべきか》という永遠の悩みを抱え続ける人間の愚かさや弱さであり、同時に大審問官自身の欺瞞であり、苦しみだからだ。

日本人は天皇によって終戦の混乱から救われたというが常識であるが、之は嘘だ。日本人は内心厭なことでも大義名分らしきものがないと厭だと言えないところがあり、いわば大義名分というのはそういう意味で利用されてきたのであるが、今度の戦争でも天皇の名によって矛をすてたというのは狡猾な表面にすぎず、なんとかうまく戦争をやめたいと内々誰しも考えており、政治家がそれを利用し、人民が又それを利用したにすぎない。(『天皇小論』)

 自分自らを神と称し尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼等は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことにうよって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた
 それは遠い歴史の藤原氏武家のみの物語ではないのだ。見給え、この戦争がそうではないか。実際天皇は知らないのだ。命令してはいないのだ。ただ軍人の意志である。(中略)しかもその軍人たるや、かくの如くに天皇をないがしろにし、根柢的に天皇を冒涜しながら、盲目的に天皇を崇拝していたのである。ナンセンス! ああナンセンス極まれり。しかもこれが日本歴史を一貫する天皇制の真実の相であり、日本史の偽らざる実態なのである。(『続堕落論

 著者は天皇制の『欺瞞』について『堕落論』に引き続き記している。それを踏まえて、『カラマーゾフの兄弟』の『大審問官』から引用してみたい。

彼らは罪深いし、反逆者でもあるけれど、最後には彼等とて従順になるのだからな。かれらはわれわれに驚嘆するだろうし、また、われわれが彼らの先頭に立って、自由の重荷に堪え、彼らを支配することを承諾したという理由から、われわれを神と見なすようになることだろう、——それほど最後には自由の身であることが彼等には恐ろしくなるのだ! しかしわれわれはあくまでもキリストに従順であり、キリストのために支配しているのだ、と言うつもりだ。彼らを再び欺くわけだ。なぜなら、お前を二度と傍へ寄せ付けはしないからな。この欺瞞の中にこそ、われわれの苦悩も存在する。なぜなら、われわれは嘘をつきつづけなければならぬからだ。(『カラマーゾフの兄弟』第5編)

どうだろう。『キリスト』を『天皇』に言い換えてみると、安吾の言っていることとまるで同じではないだろうか。

我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分と言うずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、又、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人生の正しい姿を失ったのである。(『続堕落論』)

 『大義名分』というのは『もっともらしい理由』と言い換えることができるだろう。それは戦争に限った話ではなく、例えば日本人の有給消化率が低いという話が以前あったのだけれど、これも『大義名分』或いは『もっともらしい理由』が無ければ取りずらい、取らせてほしいと言いづらいからではないかとも思う。今は有給義務化という『大義名分』が生れたから年間最低5日は取れるようになった。しかし今度はどこでとるか、どこならば取ってもいいかという悩みが生まれることになる。上司なり誰かなりが自分の休みもスケジュールもすべて決めてしまい、それに沿って行動した方がはるかに楽ちんなのである。たとえ人から決められたものに対して不満たらたらであってもSNSで発散させればヨシヨシされたり『美徳』として堪えればほめてもらえる。一見真面目に見えて狡猾なやり方と言えるだろう。自分自身に嘘をつきつづけ、自分をごまかし、また他人をごまかしているからだ……えっと、何の話していたっけ?

では著者の言う『人生の正しい姿』とは何か。

 人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲することを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎ去り、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。
 日本国民諸君、私は諸君に、日本人及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ

 これだけ見ると今はやりのエッセイ本やビジネス書、自己啓発本なんかに見える『好きなことだけで生きよう』とか『嫌なことは全部やめてしまおう』とかそんな感じに見えるのだが、著者の言う『堕落』とはそれよりももっと困難と言えるだろう。

堕落自体は悪いことに決まっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義撤廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足のニ十本の爪を血ににじませ、はぎ落して、じりじりと天国へ近づく以外に道はあろうか。(同)

よく「ありのままの自分」というが『ニセの着物をぬぎ去った』『赤裸々な姿』となった自分であろう。『変わりたい』と言いつつ変らない人が多いのは、自分の『本当の声』に耳を傾けていない『赤裸々な姿』となった自分から目を背けているからと言える。つまり『変わりたい』と思っているのは。『変われば他の人から称賛される』し『嫌なことが無くなる』。『称賛されるのは気持ちいい』『でもめんどくさい』『辛いのは嫌』『楽して変りたい』『別にこのままでいいじゃん』『私は悪くない』『こんな風に育てた親が悪い』『ていうか今までこうだったんだし』『今が愉しければそれでいいじゃないか』というこれらの自分の『声』から耳をふさぎ、目を背けている。偽りの服を脱ぎ捨てた裸の自分は醜く、見るのも嫌だろうが、それでも見つめようとしなければ何も変わらないのだ。

悪徳はつまらぬものであるけども、孤独という通路は神に通じる道であり、前任なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りない。
 悲しい哉、人間の実相はここにある。然り、実に悲しい哉、人間の実相はここにある。(同)

堕落。それ自体は実は簡単なものであり。人間である以上は堕落は免れないものである。問題はそこから『復活』しえるかどうかだろう。堕ちきってしまえばあとは這い上がるだけとは言うが、その『這い上がる』こと自体楽なことではない。コスパだの効率だの脳の癖を利用するだの、そんなものに頼って人間は変われないのかもしれない。変れたとしても本当の意味では何も変わってないというオチがつきかけない。私は前回の記事で『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフで使われた『一粒の麦』を思い出すと言ったが、地に落ちても(=堕落しても)『一粒の麦』のままでいるか『死んで』豊かに実を結ぶことができるか、なのだろう。

他にもいろいろと読んで気になった記述はあるのだが(というか最初も書いたが個人的には全文引用したいぐらいである)、きりがなくなりそうなので『堕落論』から有名な言葉を引用して終えたい。

生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りえるだろうか。(『堕落論』)