月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

アリョーシャの『仕事』

カラマーゾフの兄弟』の中で、主人公アリョーシャは様々な人のところを訪れる。ミーチャの婚約者カテリーナ、父であるフョードル、待ち伏せしていたミーチャ、幼馴染の少女リーズ、次兄のイワン、二等大尉のスネギリョフとその子供イリューシャ、毒蛇同士の食い合いの渦中にいるグルーシェニカ、アリョーシャを呼び出した少年コーリャ、更には自殺したスメルジャコフ……

これらを以って、この『第一の小説』におけるアリョーシャを『使い走り』と揶揄されることもある。実際アリョーシャは、いろいろな人に呼び出されたり、使いに出されたりしている。その様子は一見すると『主人公』とは言い難いかもしれない。

だがよくよく考えてみると、アリョーシャから相手のもとへやって来るパターンは多いが、その逆はあまりない。スメルジャコフの自殺を知らせに駆けつけて来たマリアぐらいだ。イリューシャのところへ来ない少年コーリャに対してスムーロフを使いによこしたことはあるが、これは失敗に終わった。

何故アリョーシャが『訪れる』側なのか。

「行きなさい、さあ、行くがよい。わたしならポルフィーリイでも間に合うから、急いで行きなさい。お前は向うで必要な人間だ。院長さまのところへ行って、食事の給仕をしてきなさい」
「どうか、このままここにいさせてください」アリョーシャは哀願するような声で言った。
お前は向うでいっそう必要な人間なのだ。向うには和がないからの。おまえが給仕をしていれば、役に立つこともあろう。諍いが起ったら、お祈りするといい。そして、いいかね、息子や(長老は彼をこう呼ぶのが好きだった)、将来お前のいるべき場所はここではないのだよ。これを肝に銘じておきなさい。わたしが神さまに召されたら、すぐに修道院を出るのだ。すっかり出てしまうのだよ」(第2編7)

 もはや余命幾ばくもないゾシマ長老。敬愛する師の傍にいたいと願うアリョーシャ。しかし長老は敢えて自分の傍ではなく『向う』へ行くようにアリョーシャを諭す。

「どうした? お前のいるべき場所は、当分ここにはないのだ。俗世で大きな修業のために、わたしが祝福してあげよう。お前はまだこれからまだ、たくさんの遍歴を重ねねばならぬ。結婚もせねばならぬだろう、当然。ふたたび戻ってくるまでに、あらゆることに堪えぬかねばなるまい。やることは数多く出てくるだろうしの。しかし、わたしはお前を信頼しておる。だからこそ、送りだすのだ。お前には、キリストがついておる。キリストをお守りするのだ、そうすればおまえも守ってもらえるのだからの。お前は大きな悲しみを見ることだろうが、その悲しみの中で幸せになれるだろう。悲しみのうちに幸せを求めよ――これがお前への遺言だ。働きなさい、倦むことなく働くのだよ。今日以後、私のこの言葉を肝に銘じておくといい。なぜなら、これからもお前と話をすることはあるだろうが、私の余命はもはや日数ではなく、時間まで限られているのだからの」(同)

 アリョーシャを俗世へと送り出そうとするゾシマ長老。それはアリョーシャの『修業』のためでもあるのだろう。しかし本当のところは『俗世』にてアリョーシャに『仕事』をさせるためでもあると考える。

『なぜ、わたしを見ておどろいている? わたしは葱を与えたのだ、それでここにいるのだよ。ここにいる大部分の者は、たった一本の葱を与えたにすぎない、たった一本ずつ、小さな葱をな……われわれの仕事はどうだ? お前も、もの静かなおとなしいわたしの坊やも、今日、渇望している女に葱を与えることができたではないか。はじめるがよい、倅よ、自分の仕事をはじめるのだ、おとなしい少年よ! われわれの太陽が見えるか、お前にはあの人が見えるか?』(第7編4)

 腐臭事件が起きた日、グルーシェニカから『一本の葱』を与えられ、また与えることによって絶望から復活したアリョーシャ。パイーシイ神父の朗読に導かれるように『ガリラヤのカナ』の夢を見たアリョーシャ。貧しい人たちの婚礼の場。そこにはゾシマ長老もいたのだ。この『われらの太陽』とは水をぶどう酒に変えるイエス・キリストのことである。

『こわいのです……見る勇気がないのです……』アリョーシャはささやいた。
『こわがることない。われわれにくらべれば、あのお方はその偉大さゆえに恐ろしく、その高さゆえに不気味に思えもするが、しかし限りなく慈悲深いお方なのだ。愛ゆえにわれわれと同じ姿になられ、われわれとともに楽しんでおられる。客人たちの喜びを打ち切らせぬよう、水をぶどう酒に変え、新しい客を待っておられるのだ。たえず新しい客をよび招かれ、それはもはや永遠になのだ。ほら、新しいぶどう酒が運ばれてくる、見えるか、新しい器が運ばれてくるではないか……』(同)

ところで『カラマーゾフの兄弟』にてイエス・キリストが出てくる場面は、このガリラヤのカナの夢の他に、もう一つある、イワンが創った叙事詩『大審問官』だ。ここでイエス・キリストは16世紀のスペインの町に姿を現し、苦しむ人たちに様々な『奇蹟』を行っていく。その結果、囚人として老審問官に捕らえられる。共通点は人々の前に自ら姿を現し、彼らを苦しみから救い、或いは彼らの喜びを絶やさないようにするためにその力を使っているという点だろう。決して石をパンに変える奇蹟を以って、人々をひれ伏させるためではない。(こうしてみるとイワンとアリョーシャのイエス・キリストに対する解釈は似通っているというかほぼ同じと見ていいだろう)

とにかく、アリョーシャが俗世へと送られる理由は、このイエス・キリストと同じ『役割』ないし『仕事』をさせるためとみていいのではないか。それは『その偉大さゆえに恐ろしく、その高さゆえに不気味』なイエス・キリストではなく『愛ゆえにわれわれと同じ姿になられ、われわれとともに楽しんでおられる』というイエス・キリストだ。アリョーシャはよく『ドストエフスキーが創造した『現代のキリスト』』と言われる。だとしたら隠遁者として修道院に籠り続けるのではなく。俗世にて『一本の葱』を与え、また与えられるという『実行的な愛』を行い続ける、アリョーシャならばそれができる、とゾシマ長老が判断したからだと考えられるのだ。

「空想の愛は、すぐに叶えられる手軽な功績や、みなにそれを見てもらうことを渇望する。また事実、一命さえ捧げるという境地にすら達することもあります、ただ。あまり永つづきせず、舞台でやるようになるべく早く成就して、みなに見てもらい、誉めそやしてもらいさえすればいい、というわけですな。ところが実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです」(第2編4)

 『場違いな会合』にて、ゾシマ長老のもとを訪れたホフラコワ夫人に語った長老の言葉である。何故この『実行的な愛』は『仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえある』のかといえば、『人間の顔』がそれを邪魔するからだ。

「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなかったんだよ。俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠いものだけだ。いつか、どこかで《情け深いヨアン》という、さる聖人の話を読んだことがあるんだが、飢えて凍えきった一人の旅人やってきて暖めてくれと頼んだとき、聖者はその旅人と一つ寝床に寝て抱きしめ、何やら恐ろしい病気のために膿みただれて悪臭を放つその口へ息を吹きかけはじめたというんだ。しかし、その聖者は発作的な偽善の感情にかられてそんなことをやったのだ、義務に命じられた愛情から、みずから自己に課した宗教的懲罰から、そんなことをやったんだと、俺は確信しているよ。人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」「そのことはゾシマ長老も一度ならず話しておられました」アリョーシャが口をはさんだ。「長老もやはり、人間の顔はまだ愛の経験の少ない多くの人にとって、しばしば愛の妨げになる、と言っておられたものです。でも、やはり人類には多くの愛が、それもキリストの愛にほとんど近いような愛がありますよ。そのことは僕自身よく知っています、兄さん……」(第5編4) 

 『実行的な愛』を行うことの『困難さ』、『人間の顔』を直視することの難しさははアリョーシャもわかっていた。だがゾシマ長老は彼を信じて『俗世』へと送り出す。言い換えれば、アリョーシャは『人間の顔』と向き合うことができる、或いは向き合おうとすることができるのだろう。だからこそ彼は『向うではいっそう必要な人間』だったのだ。
長老の遺言通り、アリョーシャは修道院を出た。そして誤認逮捕されたミーチャモスクワから帰ってきたイワン、グルーシェニカやカテリーナ、リーズやホフラコワ夫人、スネギリョフとその子供イリューシャたち、つまり『身近な者』たちのもとを訪れ『顔』と向き合い、寄り添い続けるのだ。その中にマリアやスメルジャコフのことも入っていた可能性もある。でなければ、マリアがスメルジャコフの自殺を『だれにも知らせず』『真っ先に』アリョーシャに知らせに行く理由がない。

華々しい活躍とは言い難いかもしれない。荒野の問答で悪魔がイエス・キリスト言ったように『石をパンに変える奇蹟』を起すわけでもない。しかしアリョーシャは静かに、地道に、誰かしらのもとを訪れ、『実行的な愛』という自分の『仕事』をやり続けるのだろう。