何のことかと言うと、『未成年』にて主人公アルカージイの実父、ヴェルシーロフが聖像をタイルに叩きつけて真っ二つにしたシーンのことである。
「わしはある医師を知っていたが、彼は父親の葬式に、だしぬけに口笛を吹きだした。たしかに、わしが今日葬式に行くことを恐れたのは、きっとだしぬけに口笛を吹きだすか、あるいは大声で笑いだすにちがいないという考えが、どういうわけか急に頭に来たからだよ。あの不幸な医師みたいな、しかも彼はあまりいい死にざまはしなかった……それにしても、まったく、どうしてかわからんが、今日はどうもこの医師のことを思い出されてならんのだよ。頭にこびりついて、はなれんのだよ。そら、ソーニャ、わしはまたこの聖像をとり上げただろう(彼は聖像を手に取って、くるくるまわした)、そしてどういうものか、今、すぐに、これを暖炉に、そらそこの角に叩きつけたくてならんのだよ。そしたらきっと真っ二つに割れると思うな―—ちょうど真っ二つに」(『未成年第三部第9章』)
このセリフの前にはこんなことも言っている。彼が内縁の妻ソーフィア(アルカージイの母親であり、マカール老人の妻であった)の誕生日のために持ってきた美しい花束についてだ。
「……まあ、そんなことより花束の話でもしよう。どうしてここまで持ってこれたのか―—自分でもふしぎでならんのだよ。わしは途中で三度ほどこれを雪の上に投げすてて、踏みにじってしまおうと思った」(同)
ヴェルシーロフが花束を踏みにじりたい、聖像を割りたいという欲求に取り付かれた理由について、私は以前の記事で『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャの言葉を引用して『人間が犯罪を好む生き物 だから』と考察した。
「そうだな、何か立派なものを踏みにじりたい、でなければあなたの言ったような、火をつけてみたいという欲求でしょうね。これも往々にしてあるもんですよ」(『カラマーゾフの兄弟』第11編3)
しかし疑問が残る。何故人間は犯罪が好きなのか。なぜ悪いことをしたいという欲求があるのか。考えてみた結果、ふと思い立った。それは人間が『自分の行動によって何かしらの変化を与えることを好む』からではないかと。
よく『人間は変化を嫌う生き物』だと言われている。しかし、自分の言動によって与えらる変化に関しては、その限りではない。例えば聖像を叩きつければ真っ二つに割れる。花を踏みにじれば花が無残につぶれる。家に火をつければたちまち燃え広がる。頭に文鎮を叩きつければ頭蓋骨が割れて死ぬ。予想される変化、目に見える変化や反応、それをすぐさま与えられることに人間は喜びを感じるのではないかと思う。だから逆に、何かしらの行動をしても『短期間で』『目に見える』変化がおこらないと人間は嫌気がさす。『仕事をやってもやっても終わらない』『努力しても結果が出ない』こういったとき、森の中を延々とさまよっているような気分になり『何も変わらないじゃないか』とせっかくの行動を全部やめてしまい、社会や身の回りの者に対して不平不満を投げつけるだけになる。或いは子供の躾の場合、何度言っても言うことを聞かない子供に対してエスカレートして虐待になったりするのだ。そのエスカレートした行動に対して相手に何かしらの『変化』があると、ますますそれが癖になる。
また『カラマーゾフの兄弟』から引用するが、
「空想の愛は、すぐに叶えられる手軽な功績や、みなにそれを見てもらうことを渇望する。また事実、一命さえ捧げるという境地にすら達することもあります、ただ。あまり永つづきせず、舞台でやるようになるべく早く成就して、みなに見てもらい、誉めそやしてもらいさえすればいい、というわけですな。ところが実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです」(同第2編4)
『功績』を『結果』や『変化』と言い換えることもできるだろう。だから『手軽にできるナントカ』『〇日間で結果が出るナンチャラ』(ダイエット、英会話、術etc……)更には効率や要領を重視した『時短術』とか流行るし、飛びつきたくなる。
また、日常生活においていえば、例えばLineの返信やツイッターのリプが早ければ早いほど喜ばれ、逆に遅ければ遅いほど『嫌われたのか』『何で返してくれないんだ』と不安になる。呼びかけても何も反応がなければ苛立ちを覚える。上で書いたが、日常の所作から自己啓発、健康、ダイエット、勉強、更には犯罪行為に至るまで、人はアクションを起こす→望み通りの変化や反応がある、ということに喜びを見いだすものなのだ
しかしこれはある種の危うさもはらんでいる。それは何か自分の望み通りの出来事が起こった時、『私が〇〇したからだ!』と変な勘違いを起しやすい点だ。人間は何かしら物事が起きた場合、何かしらの理由付けをしたがる生き物だという。仮にただの偶然であったとしても『○○のせいだ!』と原因ないし元凶を求めたがる。こういった認知の歪み『勘違い』の積み重ねによって、自分を万能の『神』であり『人々を導く英雄』だと思いこむようになるし、また『ひれ伏す相手』を探す人々によって祭り上げられる。そこまで行かなくても、自分が『インフルエンサー』や『αツイッタラー』となり、自分の一挙手一投足によってフォロワーや自分の信奉者に影響を与えることに喜びを見致すようになる。逆にそれが無かったり批判を与えられれば、躾から虐待、からかいから苛めに発展するように言動が過激になったり、自分に異を唱える人間を攻撃するようになる。何故なら、相手からの『批判』は望んでいないからである。
と、ここまで書いておいてふと思い出したのが『悪霊』の主人公、ニコライ・スタヴローギンだ。彼もキリーロフやピョートルといった様々な人間に影響を与える、いわば『インフルエンサー』的な存在である。そのくせ『信奉者』であるピョートルから自分が神輿として担ぎ上げられることを嫌がるし(正直平穏に暮らしたいというよりは『承認欲求』だけを得て責任を取りたくないというように思えてならないのだけれど……)、僧侶であるチーホンとの『対決』では、自分の書いたものに対して異を唱えられたことに激昂している。(スタヴローギンのことはいずれどこかで考察してみたいがファンからいろいろ怒られそうな気がしてならなかったりする……)
……話がヴェルシーロフからだんだん脱線していったが、とにかく聖像を真っ二つにするような『空想的な愛』に似た『変化』よりも、こつこつと、忍耐強く続けてようやく表れる『実行的な愛』のような『変化』のほうが長続きすることは確かかもしれない、と言う話で記事を終えたい。