月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

泥努が待っていたのは凧葉だったのではないか?という説

※今回はあくまでも「こういう解釈もできるのではないか?」という説であり「これが正しい解釈だ」というつもりはありません。

当ブログでは去年の暮から『双亡亭壊すべし』の考察を始めてきたのだが、実を言うと私自身が残花少尉推しということもあり、また泥努と残花少尉の関係が好きだということもあって、自分「好み」の考察というなの妄想解釈を垂れ流している面がある。
私は泥努にとって残花少尉がどういう存在であるかを考察し、泥努にとって残花少尉が大切な友であること、特別な存在であることも繰り返し述べてきた。
だが私の中に浮かんだある解釈がどうしても引っかかって頭から離れずにいる。

それは泥努が『竜宮城』で待っていたのは残花少尉ではなく、主人公の凧葉務そのひとではないかという解釈である。

理由は24巻の表紙が『龍宮城』を現しているからだ。

海の底にある双亡亭、そこで絵を描く二人の絵描き。もっというと二人は泥努が時空を歪めたことによって双亡亭内で10年(!)絵の勝負をしていたのだ。これが『龍宮城』でなくて何であろう。

また、双亡亭の『双』の字は『同じものが二つ並ぶ』という意味がある。双亡亭=竜宮城であるならば泥努と残花少尉か?と最初思ったのだが、絵描きである泥努と軍人である残花少尉を『同じもの』とするのは聊か無理がある。では双亡亭の主である泥努と同じものは誰なのか?と考えると、それはもう『同じ』絵描きである凧葉以外にあり得ないだろう。つまり『双亡亭』とは『二度死んだ者(=泥努)の家』であり『二人の絵描き』の『龍宮城』だと考えられるのだ。

そして最終回、凧葉は青一とともに『時の廊下』を渡って大正6年に向かった。そこで彼は由太郎と共に二か月間絵を描き続けた。その際に彼は由太郎に『双亡亭』の話をしているのだ。(第一話冒頭のモノローグがそれにあたる)凧葉と青一によって『双亡亭がない世界』が作られたわけだが、仮に泥努となった由太郎が、この時の記憶を持っていたとしたらどうだろう?双亡亭は時代と時代がくっついており『時の廊下』も泥努自身がつないだものだ。であるならば泥努が『多元宇宙』の記憶を持っていたとしてもおかしくはないのではないか。泥努はそのうっすらとした記憶をもとに双亡亭をつくり上げた可能性もありえるのだ。そう、すべては幼い頃に出会った絵描き、凧葉務に再び会うために。

そうは言っても泥努が竜宮城に行きたいと待っていたのは残花少尉だろう?と思われるかもしれないが、これも作者によるミスリードの可能性がぬぐいきれない。何故なら二十三巻で緑朗が泥努の中で出会った老人(彼の深層心理だと思われる)は残花少尉の名前を一度も出していないからだ。彼は「(うらしまたろうのことを)友達と話した」「友達が一緒に龍宮城に行ってくれる」といっただけだ。つまり「浦島太郎のことを話した『友達』」と老泥努が一緒に龍宮城に行きたい『友達』が別である可能性もあるのだ。つまり前者は残花少尉、後者は当然凧葉である。
こう解釈できる理由はほかにもある。緑朗が泥努の中に入ったのは時系列的には狙撃されて意識がなくなり、幽霊となって姉のもとへ向かい、しのたちの秘密を知った後で応尽の怖いオトーチャマ式神是光に追いかけれれたところをかくまわれた時だ。この少し前に、泥努は応尽にあることを命令していた。それは凧葉を生かして自分のもとへ連れてくることであった。彼は「あの男とはもう一度話をしてみたい」(第十六巻)とも言ったのだ。老泥努が緑朗に「友達が来てくれるんだ」と行ったのはその少し後である。つまり老泥努は凧葉のことを待っていた。同じ絵描きである彼が来てくれれば何も怖くないと考えた。そう解釈することも可能になるのだ。
泥努は凧葉から残花少尉を笑った理由の解釈を聞かされた時「すべてはお前の妄想にすぎん」(第二十三巻)と言い放ったが、「違う、私が待っていたのはお前だ凧葉」という意味だったかもしれないのだ。

追記:では泥努がうらしまたろうの童謡を歌っても残花少尉がそれを察さなかったことに怒りをあらわにしたのはどうなのか?この後泥努は双亡亭の柱や天井に使われている『侵略者』の身体を体内に吸収して腕を生やしたのだが、壁や天井が抜けたことで屋根の上に立つ帰黒の存在が明らかになった。母屋突入後は別行動をとっていた少尉と帰黒はここで再会する。であれば単に離れ離れだった二人の男女の再会を演出というシチュエーションづくりの為だった可能性もある。また泥努は残花少尉が『浦島太郎』の歌を忘れていたことよりも『帝国軍人の名のもとに銃を向けてきた』から怒りをあらわにしただけと見ることもできるだろう。友達に銃を向けられたら嫌だし怒る。ただそれだけの話だった可能性もある。

 

(ここから少しネガティブな内容になってしまうので注意)

 

もし上記の解釈通りだったら竜宮城行を決意した残花少尉がかなりピエロになってしまう。だがそれは仕方がないことだと思う。泥努が残花少尉のことを語ることがあまりにも少ない。「良い仲良し」と言ってはいたものの、姉のしのぶはもちろん、凧葉や紅に比べると泥努から矢印が向けられている描写は少なく、全巻通してみると彼の中で幼馴染の存在が軽いという印象は否めない(それでも大多数の『どうでもいい』人間よりは情を感じているだろうが)。もっと言うと最終回で由太郎は「いろんな人に自分の絵を見てもらいたい」と言っていたのだが、そこに幼馴染である残花の名前は無い。(というか坂巻家と黄ノ下家は隣同士のはずなのに全く残花が出てこない)正直読んでいて由太郎から幼馴染の存在がすっぽり抜けてしまったかのような印象を受けてしまった。もっと言うと残花少尉が帰黒と共に生き返るまで、泥努の中で少尉の存在は忘れ去られていた。泥努は「あんたにも平和な思い出の一つや二つあるだろ」と凧葉に言われて何も答えなかった。姉のしのぶはもとより、残花少尉との思い出もあるはずなのにである。彼が覚えていた竜宮城の話も、結局は温かくも平和でもない記憶、つまり『どうでもいいこと』として処理されてしまっていたのだろうか、と思った。(もっとも少尉が竜宮城に行ってやると手を挙げた理由は凧葉が泥努に龍宮城に連れていかれるのを防ぐためとも解釈できる)

私は残花少尉と泥努の関係は好きなのだが、それはそれとして二人の幼馴染設定は削ったほうが良かったのではないか?とも思う。泥努の友人ポジションならば凧葉がいるし、以前は姉しか理解者も味方もいなかったし愛する姉がおらず絵が評価されない世界に未練など何もなかった、しかし100年近くたって初めて凧葉や紅といった姉以外の他者と関わり始めて変化が起こり始める、とした方が良かったのではないかと思う。(というか残花少尉、幼馴染のくせによっちゃんに全然いい影響与えてないじゃんかよ…)
また残花少尉に関しても、部下との関係や帰黒とのロマンス、或いは女性自衛官の宿木(彼女の祖父は残花少尉の元部下)との関係で充分キャラが立っており、無理して泥努と幼馴染設定を作らなくても良かったのではないかと思う。双亡亭に再突入する理由や絵から脱出できた理由も「部下の仇を討つため」で充分だったのではないか。『幼馴染』という設定一つ無くすことで、泥努や残花少尉周りの人間関係スッキリするし仮になくしたとしても最終的には絵描き同士の対決と友情の話になるのだから本編にさほど影響もないだろう。

ちなみになんで私が今回こんな記事を書こうとしたかというと、単に頭の中をスッキリさせたかったからである。自分が考えていること、引っかかっていることをこうして文章にいて書き出すのは思考が整理されるのだ。読んでいただく方にとっては不快になるかもしれないがどうか赦していただきたい。