月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

泥努と残花少尉の関係を考察する理由

私の考察は基本的に「狭い」。作品全体の考察とか作者が語りたいテーマとかそういう考察はあまりしていない。読書感想も「自分が気になったところ」をピックアップして書いていることが多い。何度も読み返しながらその「狭い」範囲を中心にして「あのキャラはどうしてこんな行動をとったのか」「あのシーンはこういうことだったのかな」と考察範囲を広げて作品全体の考察に行きつく。
例えば「カラマーゾフの兄弟」に関してはアリョーシャとスメルジャコフの関係からスメルジャコフ周りの人間関係(例えば彼の恋人?であるマリヤや育ての親であるグリゴーリイとマルファなど)の考察を描かれている描写からあれこれこねくりだしたり「こうなんじゃないの?」と考えたりしている(と言いつつほかの人の意見も参考にしたりはしているので自分一人で読み解いたわけではないのだが…)。作品全体のテーマ、例えば神はいるのかとかキリスト教の話とか第二の小説の話とか作者ドストエフスキーの背景とかはほかの人に任せて当ブログでは扱わない。そもそもこの手のテーマは専門家だったり他の読書レビューやドストエフスキーファンの人が散々触れているのであまり額もないし読解力がポンコツな自分が触れていいテーマでもないと思っている。

双亡亭壊すべし」に関しても作品のテーマとか作者自身の芸術論とかそういうのはほかの人たちが散々語ってくれるので当ブログでは脇に置き、語るのは主に双亡亭の主・坂巻泥努と彼の幼馴染である黄ノ下残花少尉の関係に絞っている。他キャラのことも語ることはあるが、基本的に扱うテーマはこの二人の関係を中心としている。今回は考察というよりもなぜ泥努と残花少尉の関係を軸に扱うのかをちょっと語ってみたい。

①2人の関係に興味がある
当たり前だろうと思われるかもしれないが、人間興味がないことに対してあれこれ考察したり考えようとはしないものである。何故「好きだから」ではないのかというとこの「興味」というのは「嫌いなもの」に対しても向けられることがあるからだ。この「興味」によって「嫌いだったもの」が「好き」まではいかなくともそうでもないレベルに上がることもあるのである。やはり「知る」とは大事なものだ。

で、私が何故二人の関係に興味を持ったのかというと、単に残花少尉が推しだからというのもあるのだが、二十三巻で見せた泥努の残花少尉への態度が意外過ぎたからである。それまでの泥努は亡き姉や同じ絵描きの凧葉、モデルとして連れてきた巫女の紅への執着や興味については描かれていたのだが、他方で幼馴染である残花少尉に関しては興味も関心も無いといった素振りだった。2人が昭和7年に再会したシーンを読んでも泥努と残花少尉は会話が通じず、更には絵の中に引きずり込む。凧葉と初めて出会った時、更に彼と絵の話をしている時との態度と比べてみても落差がありすぎた。22巻までの印象としては残花少尉が一方的に泥努に友情や執着を見せている、一方通行な関係性に見えた。
ところが、二十三巻でそれまで描かれていなかった泥努の残花少尉への執着、彼に向ける重い感情が剥き出しになった。唐突感があったものの正直読んでいて驚いた。それまでの泥努ならば残花少尉から「何故嗤ったのか」を聞かれても「どうでもいい」「お前の話はつまらん」「それより紅をモデルに絵を描きたい」と切り捨てただろうと思えた。紅との交流で彼の内面に変化が生じ、凧葉から会話の大切さを諭されたにしても、だ。凧葉の「交通整理」によってこじれた関係は解消されたのだが、もしも泥努が残花少尉に対して何の感情も向けていなかったとしたら、いくら凧葉といえども難しかったのではないかと思う。(凧葉は残花少尉と共に双亡亭にやってきた少女、帰黒から彼と泥努の関係を聞いていたが、その後で紅の弟である緑朗から、かつて霊体になり、泥努の体内にかくまわれ時に彼の中で見たものを凧葉にテレパシー(?)で伝えた。この緑朗からの情報があったからこそ、凧葉は泥努が笑った本当の理由を察することができたのだ。緑朗君何故それを少尉に伝えてあげなかったのか
そんなわけで泥努からも矢印が向けられていることが発覚したことで、自分は二人の関係に興味を持ったのである。(別に腐った意味ではない)

②語る人が少ない
前述した「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャとスメルジャコフの関係もそうなのだが、いかんせん残花少尉と泥努の関係を語る人がヒッジョーに少ない。泥努は主人公、凧葉との関係が主だし残花少尉は彼に恋する少女、帰黒との関係について語られることが多い。(特に前者に関しては作者というか公式が率先して推しているのもあるのだが)つまるところ泥努と残花少尉の関係についての考察とか感想とか何なら二次創作とか漁っても滅多に出てこないのである。そういうわけで自分の考察や妄想をネットの海に漂わせるほかない。自分が読みたいものがなければ書くしかない、ということになる。

③泥努からの矢印がわかりづらい
①にも書いたが、泥努は凧葉や紅、姉のしのぶに関しては判りやすい執着や好意を向けている。ところが残花少尉に関してはそれが判りにくいのだ。例えば残花少尉が誤解した泥努の気持ち悪い笑顔が実は残花少尉と再会したことや一緒に龍宮城に行けることが嬉しかったなどと「誰が判るかあんなの」と言いたくなる。繰り返すが凧葉が泥努の真意を知れたのは緑朗によって伝えられた情報が大きい。(泥努は緑朗を「唯一の鑑賞者だから」と助けたが、彼自身の内面を知られることは想定済みだったのだろうか…)確かに読み返してみれば泥努が残花少尉を引き込んだときに見せた笑顔と、由太郎が姉の首を絞めた時に見せた歪んだ笑みが一緒なのだが、初見ではまずわからない。読み返してもわかりづらい。おまけに部下ごと絵に引き込むという「ひどい目に遭わせている」最中なのから、誤解されるのも当然だろう。でもあのまま普通に笑いながら絵に引き込んだらそれはそれで怖い。この「判りづらさ」は二人をすれ違わせるためにわざとそう描いているのだろう。
また、残花少尉が泥努=由太郎のことを語ることはあっても、泥努が残花少尉や彼との思い出を誰かに語ることはほぼ無い。残花に関する回想はほぼ泥努の脳内で思い浮かべていることであり、他の誰かに語ったわけでは無いのである(いじめられていたのを助ける、龍宮城の話、縁側のある家のコマ)。この泥努の「判りづらさ」に関してはまた別の記事で挙げてみたいと思う。

最後に自分的にも深くうなずきたくなった泥努の名言を引用してこの記事を終えたい。

人間は意味から離れて初めて「自由」になれるのだ。

意味がわからないことこそ、人は色々と想像して脳で遊び愉しむことができるのだぞ。

(「双亡亭壊すべし」第205回)