月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

第二の小説、13年後のアリョーシャ(noteより転載・一部加筆修正)

わたしはドストエフスキーの研究家でもなければロシア語に堪能なわけでもない。更に言えばドストエフスキーオタクというわけでもない。つまりドストエフスキー本人に関してもまったく詳しくない、言うなれば「ニワカ」「素人」なのである。
こんな私でもあれこれオタク的に考察をしたくなってしまうのは、やはり作品自体に魅力があるからだろう。作品だけでなく、登場人物たちも実に魅力的でる。彼らは実在の人物ではないはずなのだが小説内で、血の通った人間として「生きている」と読み手に思わせるのだ。

前置きはこのくらいにして、今回私が考察、いや好き勝手語りたいテーマは「カラマーゾフの兄弟」の「第二の小説」そして「13年後のアリョーシャ」についてだ。

「作者の言葉」にて、この「カラマーゾフの兄弟」は主人公。アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフの伝記であると説明している。更に「伝記は一つだが、小説は二つあるのだ」と述べており、重要な小説は「二番目のほう」とも書いている。この「二番目の小説」とは「すでに現代になってからのわが主人公の行動である」という。そして「第一の小説」のほうは「すでに十三年前の出来事で、これはほとんど小説でさえなく、わが主人公の青春前期の一時期にすぎない」と。
この「第一の小説」こそが「カラマーゾフの兄弟」である。「第二の小説」つまり13年後のアリョーシャを主人公とした小説は、作者が他界したため書かれずじまいで終わった。そのため、多くの専門家や読者が「第二の小説」を考察し、或いは世に出ることを待ち焦がれているようなのである。

ところで作者本人はこの「第二の小説」については具体的なプロットや構想などは残していないそうだ。ただ「創作ノート」において「これが『第二の小説』の内容ではないか?」と推測されるものはあるらしいが関連性は不明。また、ドストエフスキーの知人にあてた手紙(残されているのならぜひ見てみたいのだが)や同時代の知人たちは作者本人から「第二の小説」の構想を聞いているのだという。
その「第二の小説」においてもっとも通説となっているものが、「アリョーシャがコーリャ達と皇帝暗殺に加わり(あるいは首謀者となり)処刑される」というものである。または「コーリャ達を率いてテロリストとなる」「社会主義者になり革命家に身を落とす」細かいところはともかく……だいたい共通するものはアリョーシャが「大罪」を犯し、最終的に処刑にされるという点だ。そしてアリョーシャが処刑される年齢が33歳、イエス・キリストが磔になるのと同じであり、イエス・キリストの「受難」とアリョーシャの「運命」を重ねるものも少なくない。

どれもこれもセンセーショナルでインパクトのある説だ。あの「人々を愛し」「人間を信じ切り」「誰からも愛された」「天使」アリョーシャが「大罪人」になり「処刑」という悲惨な末路を迎えるからだ。『正しきものの堕落と恥辱』これはこれで読み手の興味を激しくそそるものである。

だが私はこれらの説にどうにも違和感を覚えてしまう。

何故なら説が「先行」して、アリョーシャは「皇帝暗殺」なり「テロリスト」なり「革命家」なりになる「理由」「過程」「動機」があまり考察されていないようだからだ。
「何故」「如何にして」アリョーシャは皇帝暗殺に踏み切るのか、「何故」「如何にして」アリョーシャはテロリストとなってしまうのか、「何故」「如何にして」アリョーシャは社会主義者になり、革命家になるのか。
この「何故」「如何にして」はアリョーシャだけでなくコーリャも同様である。確かにコーリャは13歳の時点である種の「危うさ」を秘めている。それは鵞鳥の首を「ころり」としてしまったことや、ジューチカをペレズヴォンを名付け直したうえで芸を仕込み、それをイリューシャに黙っていたこと、そしてエピローグで叫んだ「全人類のために死ねたら」発言である。これらは一見すれば確かに成長したコーリャが「皇帝暗殺」や「テロリスト」に身を落とすフラグともいえる。だが問題は「何故」「如何にして」コーリャが「皇帝暗殺」に乗り出すか、「何故」「如何にして」「テロリスト」に身を落とすのかではないだろうか。これらの「何故」を「コーリャは鵞鳥の首をころりとするような子供だったから」「『全人類のために死ねたら』と言っていたから」あるいは「カラマーゾフ万歳!」こそがその布石だ――で済ませてしまうのは、例えるならスメルジャコフのフョードル殺害を「猫殺しをするような残虐な人間だから」で片づけてしまうほど「短絡さ」ではないか。

アリョーシャの人物像は「第一の小説」を読めばおおよそ「皇帝暗殺」「テロリスト」「社会主義に身を落としての革命家」になりえるようなものではない。作者も言っている通り彼は「人々を愛し」「人間を信じ切っていた」し、「自分は人々の裁判官になりたくない、人の批判なぞするのはいやだし、どんなことがあっても批判したりしない」のである。これは作者の説明のみならず「カラマーゾフの兄弟」本編を読めば納得のいく人物像である。(『銃殺です!』と叫びはしたが……)。
また、彼自身が編纂した「今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯」において、こんなゾシマ長老の言葉を紹介している。

「人は誰の審判者にもなりえぬことを、特に心に留めておくがよい。なぜなら当の審判者自身が、自分の目の前に立っているものと同じく罪人であり、目の前に立っている者の罪に対してだれよりも責任があるということを自覚せぬかぎり、この地上には罪人を裁くものはありえないからだ」(第6編3H)

そしてこのアリョーシャ編纂の手記が、いや「カラマーゾフの兄弟」内で繰り返し言われていることは「人はいかなるものに対しても罪がある」こと、そして「自分自身がいちばん罪深いことを自覚する」ことである。この「自覚」はマルケル、ゾシマ長老、ミーチャ、そしてアリョーシャ自身にも芽生え、根付いたものとなった。
つまり「皇帝暗殺」や「テロリスト」「革命家」に身を落とせば、アリョーシャ自身のスタンスに反するばかりか、師が残し自身が編纂した「遺言」にも背くことになる。これらはすべてアリョーシャが誰かしらの「審判者」となることに他ならないからだ。「大地への接吻」を果たし「生涯変わらぬ戦士」となった(第7編4)アリョーシャが、簡単に自身のスタンスを棄て、或いは師の言葉を裏切ったりするだろうか。ということはアリョーシャが「皇帝暗殺」ないし「テロリスト」「革命家」となるには「何故彼はその道を取ったのか」という「動機」とそこに至るまでの「経緯(あるいは苦悩や葛藤)」が非常に重要になってくるのである。このあたりは「作者が知り合いに言っていたから」「それっぽいネタが残っているから」「あれとかあれとかが伏線、フラグ、暗喩(ナントカを意味しているから)だからだ」で済ませていいものではないはずだ。

アリョーシャはゾシマ長老の死後、師の遺言通りに修道院を出た。

「働きなさい。倦むことなく働くのだよ」(第二編7)

「はじめるがよい、倅よ、自分の仕事をはじめるのだ、おとなしい少年よ! われわれの太陽が見えるか、お前にはあの人が見えるか?」(第7編4)

アリョーシャの「仕事」とは「小さな一本の葱」を人々に与えることだった。(ちなみに『われわれの太陽』というの『ガリラヤのカナ』に現れたイエス・キリストのことである)。この「一本の葱」というのは、ゾシマ長老がホフラコワ夫人に語った「実行的な愛」のことである。
だがアリョーシャが歩む道は決して平たんなものではない。彼にはこの先、俗世ゆえの様々な「試練」が待ち受けていることだろう。

「罪の力は強い、不信心は強力だ、猥雑な環境の力は恐ろしい、それなのにわれわれは一人ぼっちで無力なので、猥雑な環境がわれわれの邪魔をし、善行をまっとうさせてくれない」(第6編3G)

あるいは「全ての人に見捨てられ、無理矢理追い払われる」(同H)こともあるかもしれない。はたまた、

「僕たちはわるい人間になるかもしれないし、わるい行いの前で踏みとどまることができないかもしれません」(エピローグ3)

俗世に出たアリョーシャは「苦しむ人々」の顔をたくさん目にすることだろう。「一本の葱」で彼らを救うことはできないのではないか、彼らを救う方法はいったい何か――アリョーシャがそう考え、悩み、葛藤することは十分考えられる。アリョーシャが「皇帝暗殺」「テロリスト」「革命家」という道を選びとった場合「闇落ち」よりもこっちのほうが可能性としてはありそうな気はするのだが、どうだろう。

それはともかくとして、ゾシマ長老はアリョーシャにこう言った。

「お前はこの壁の中から出ていっても、俗世間でも修道僧としてありつづけるだろう。大勢の敵を持つことになろうが、ほかならぬ敵たちでさえも、お前を愛することになるだろうよ。人生はお前に数多くの不幸をもたらすけれど、お前はその不幸によって幸福になり、人生を祝福し、他の人々にも祝福されるようになるのだ」(第6編1)

ゾシマ長老の「明敏な洞察力」による、アリョーシャに対する「予言」と見ていいだろう。アリョーシャは数々の「試練」に見舞われても、それを乗り越えることができる人物である、ともいえる。私としては彼がいかにして善行を行うための「試練」を乗り越えていくのかも重要なポイントではないのかとも思う。
この「予言」はゾシマ長老からアリョーシャ、そしてコーリャへと引き継がれる。(セリフ部分のみ抜粋)

「あのね、コーリャ、それはそうと君はこの人生でとても不幸になるでしょうよ」
「知ってます、知ってますとも。ほんとにあなたは何もかも前もってわかるんですね」
「しかし、全体としての人生は、やはり祝福なさいよ」(第10編6)

アリョーシャとコーリャ、彼らの人生はこの先「数多くの不幸」をもたらすであろうことは示唆されている。コーリャがこの先歩む道も平坦なものではないことを、アリョーシャは見て取ったのだ。

書かれることがなかった「第二の小説」、そこでアリョーシャは、コーリャは、或いは「復活」を遂げたかもしれないイワンやミーチャ、アリョーシャと「婚約」を解消したリーズ、その他の登場人物たち……彼らはどんな物語を紡ぐことになったのか。また、どのような結末を迎えたのか。もはやわからずじまいのある。