月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ

『黒い羊』とイワン・カラマーゾフ

今回は考察と言うよりは小ネタ的な感じなので短めに。

私は2017年の紅白歌合戦のパフォーマンスを見てから欅坂46(現:櫻坂46)が好きになり、彼女たちの楽曲をほぼ毎日聴くようになった。メッセージ性の強い歌詞と曲、彼女たちの曲を届けるためのパフォーマンスにすっかり惹かれてしまったのだ。(ちなみに『曲が暗い』と言われるが、表題曲で『暗い』のは8枚目シングルの『黒い羊』ぐらいだと思う)

だが、今回は欅坂46の話ではない。

何かというと『黒い羊』の歌詞が『カラマーゾフの兄弟』のイワン・カラマーゾフと重なる部分が多いなと言う点である。正確には『黒い羊』の主人公である『僕』とイワンがかなり類似しているなと感じた。

特に強くそれを感じたのはラストのサビあたり『自らの真実を捨て~』のくだりである。ここを聞いて思い出したのが、法廷で聴衆たちに向かって絶叫するイワンだった。

「お互いにしらを切りやがって。嘘つきめ! だれだって父親の死を望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いをしているだけさ……父親殺しがなかったら、あいつらはみんな腹を立てて、ご機嫌斜めで家へ帰ることだろうよ……とんだ見世物さ!『パンと見世物』か。もっとも俺だって立派なもんだ! 水がありませんか、飲ませてください、おねがいだから!」(第12編)

 歌詞の中で『黒い羊』を指さす『白い羊』のふりをする者たち。これが法廷の聴衆たちに重なり、そして指をさされる『黒い羊』がイワンと重なるのである。
また二番のサビに入る前に『全部僕のせいだ』という歌詞があるのだが、この歌詞もフョードルが殺害された後の二か月間のイワンと重なる。

「いいえ、兄さん、あなたは何度か自分自身に、犯人は俺だと言ったはずです
「いつ言った……? 俺はモスクワに行ってたんだぞ……いつ俺がそんなことを言った?」すっかり度を失って、イワンがつぶやいた。
「この恐ろしい二か月の間、一人きりになると、兄さんは何度も自分にそう言ったはずです」とアリョーシャは相変わらずはっきりとした口調でつづけた。だが彼はもはや、さながら自分の意志ではなく、何か逆らうことができぬ命令に従うように、われを忘れて話していた。「兄さんは自分を責めて、犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきたんです。でも殺したのは兄さんじゃない。兄さんは思い違いをしています。犯人はあなたじゃない。いいですね、あなたじゃありません! 僕は兄さんにこのことを言うために、神さまから遣わされてきたんです!」(第11編5)

 また歌詞にある『白い羊』たちの中で一人『悪目立ち』しようとする『僕』の様子は、このイワンの言葉とも重なるだろう。

「俺は調和なんぞほしくない。人類への愛情から言ってもまっぴらだね。それより報復できぬ苦しみをいだきつづけているほうがいい。たとえ俺が間違っているとしても、報復できぬ苦しみと、癒されぬ憤りをいだきつづけているほうが、よっぽどましだよ。それに、あまりにも高い値段を調和につけてしまったから、こんなべらぼうな入場料を払うのはとてもわれわれの懐ろではむりさ。だから俺は自分の入場券は急いで返すことにするよ。正直な人間人間であるからには、できるだけ早く切符を返さなきゃいけないものな。俺はそうしているんだ。俺は神を認めないわけじゃないんだ、アリョーシャ、ただ謹んで切符をお返しするだけなんだよ」(第5編4)※太字は傍点がふってある箇所

彼が『神の世界を認めない』のは、詳しくは引用しないが、赤ん坊が遊び半分で銃で撃たれたり、糞尿まみれで極寒の外へ出されたり、裸にされて母親の前で猟犬にズタズタにされたりする世界に対して憤りを覚えているからだ。その怒りそのものは共感を覚える人も多いだろう。或いはイワンの言葉を『正論』と拍手喝采する人も多いかもしれない。ただ好きな人には申し訳ないが、個人的にイワンのこういった主張に対してはかなり冷めた目で見てしまう。というのも社会問題や事件に対してネット等で『お気持ち』を表明している『だけ』の人と何が違うんだと思ってしまうからだ。実際に父親であるスネギリョフを傷つけた兄ミーチャの代りに9歳の子供イリューシャから中指を深く噛まれるという『報復』されたアリョーシャが目の前にいるのだから猶更である

「そんなはずはありません。あなたはとても賢いお方ですからね。お金が好きだし。わたしにはわかっています。それにとてもプライドが高いから、名誉もお好きだし、女性の美しさをこよなく愛していらっしゃる。しかし、何にもまして、平和な満ち足りた生活をしたい、そしてだれにも頭を下げたくない、これがいちばんの望みなんです。そんなあなたが、法廷でそれほどの恥をひっかぶって、永久に人生を台無しにするなんて気を起すはずがありませんよ。あなたは大旦那さまそっくりだ。ご兄弟の中でいちばん大旦那さまに似てきましたね、心まで同じですよ」(第11編8)

こう考えるとイワンは『黒い羊』になりたい『白い羊』であり、同時に『白い羊』でありたい『黒い羊』であると言えるかもしれない。『承認欲求』はあるけれども目立ちたくない(安全圏にいたい)世の中に物申したいけれど批判を受けるのは嫌だ、みたいな具合に思えてしまう。悪くいってしまえば『損はしたくない。良いどこどりだけをしたい』だ。しかし神を信じつつ信じていない肯定にも否定にも振り子のように揺れる、こうした二律背反もまた、イワンの人物像の一つであり、一見難解で謎めいた彼の人間的魅力にもなっているとは思う。

……話がそれるのでこの辺りにしておこう。

とに

手帳を書かなくても死ぬわけじゃない

私も含めてだが、毎年毎年(下手をすれば毎日?)『手帳が使いこなせない』と思い悩む手帳ユーザーは少なくない。だがそもそも『手帳を使いこなせている』とはどういう状態のことを言うのだろうか。とりあえず思いつく限りを羅列してみる。

①一年間同じ手帳を使い続けている

『手帳を使いこなせている』人と言うのは、途中で手帳を買い替えたりはせず、寧ろ同じ手帳を何年も使い続けている。一方で手帳を『使いこなせていない』人と言うのはその逆になる。

②手帳の空白が少ない

手帳術特集なんかを見ると、手帳を『使いこなせている』人と言うのは1ページきっちり書き込まれていることが多い。一方『使いこなせていない』人は空白だらけ、途中で使わなくなるので、未使用のページがたっぷり残っている。

③手帳を使って何かしらの目標達成、生活改善ができている

これも手帳術特集なんかでよく見るのだが、『お金がたまった』とか『ダイエットに成功した』とか『副業が上手くいった』とか手帳を使ったことによる効果が書き手の体験談として掲載されることがある。

と、『手帳を使いこなしている』ことの定義みたいなものを簡単に考察してみたが、では手帳を『使いこなせない』ことによって何らかのデメリットはあるのだろうか。

答えは『特にない』である。

スケジュール管理は手帳じゃなくスマホでも可能だ。手書きがいいのであれば卓上カレンダーでも十分だろう。或いは個々のプロジェクトの予定を会社やチームのクラウドで管理している人もいるかもしれない。ビジネスマンが商談で手帳を使うこともあるだろうが、ビジネスマンじゃない人間からすれば手帳を持つことは別に必須ではない。また、予定管理を目的としているのならば、マンスリーのカレンダーにその予定を書き込めばいいだけなので、別に『手帳を使いこなせない』と悩む必要はない。

これが例えばダイエットなら続けなければ『痩せられない』貯金ならば『お金が無くなる』或いは勉強なら『自己成長ができない』と『続けられない』ことに対する問題はあるだろう。しかし手帳の場合は使わなくても何とでもなるし、使えなかったとしても病気になったり『手帳を使いこなせないと死んでしまうんです』というということがあるわけでもない。空白の手帳が生まれても気にしなければどうということはないのだ。

だが『手帳を使いこなせない』ことを『気にすること』によって生じる問題はある。

それはずばり『お金』だ。

手帳はだいたい買うものだ。システム手帳の場合はオリジナルのリフィルを作って印刷して使うこともあるだろうが、バインダーはだいたい買う。100均にも手帳はだいたいあるが、本屋や文具店で買おうとすると、大きさやフォーマットによりけりではあるが、安いものでも1000円近くはする。決して安い買い物ではない。ということは『手帳を使いこなせない』場合、手帳に費やしたお金が空白ページの分だけ無駄になってしまうのだ。だから『手帳を使いこなしたい=手帳に費やした元を取りたい』なのだ(※すべての人が当てはなるわけではありません)。

ここで『自分には手帳は必要ないんだ。もう手帳を買うのはやめよう』となるか『自分は予定管理で手帳をあまり使わないから、今度はこんな使い方をしてみよう』となるのならばいい。『この手帳は自分には合わなかったんだ。自分に合う手帳はもっと他にあるはず!』と今度は『自分に合う手帳探し』を始めてしまう。そうしてこれがいい→やっぱり違うを繰り返して、気づけば家の引き出しに『使いこなせなかった手帳たち』が大量に眠ることになるのだ。最終的に『これがいちばんあっている』という手帳が見つかればいいのだが、多分たいていの人は延々とこのループに陥ることになるだろう。何故なら手帳選びに『失敗』しても『また買いなおせばいい』=『元を取りなおせばいい』と思ってしまうからだ。また、次から次へと手帳を『買いなおす』ことで『自分は手帳が好きなんだ』『手帳が趣味なんだ』という錯覚に陥ってしまう。こうなると散財ループは止まらない。言い方は悪いが、ギャンブルで損をしたのをまたギャンブルで取り返そうとして更に浪費を重ねているいるようになってしまう。

更に、昨今の手帳は『夢をかなえる』『人生が変わる』『目標達成できる』といった自己啓発ツールとしての側面を持つようになっている。手帳術やノート術の書籍を見ると枕詞のように『夢をかなえる』『人生を変える』といった言葉がセットでついてくる。実際に手帳やノートを使って夢をかなえた、目標を達成できたという人がいることは否定しない。私自身、自慢ではないがささやかな目標を達成したことがある。しかし、当たり前の話だが、手帳に書くだけで目標が達成したり人生が変わったり夢がかなうわけではない。あくまでもそのために行動するのは自分自身だからである。本気で達成したい目標があるなら、手帳なんて書いてないでさっさと今すぐ行動に移すべきなのだ。手帳は道標としては役に立つが、目的地に向かって歩くのは自分自身であり、手帳に書いたら寝ていても目的地にワープするわけではない。『皿を洗う』というタスクを手帳に書き込んだところで皿が洗われているわけではないのと同じだ。

↑で触れたが『手帳を使いこなす』=『手帳に費やした元を取る』と考えた場合、こうした『夢をかなえる』『人生が変わる』『目標を達成する』或いは『仕事ができる』『勉強ができる』『家事が上手くいく』という枕詞を信じて手帳を買った場合、元を取るには実際に目標を達成するなり夢をかなえるなり人生を少しでも好転させるしかない。しかし繰り返すが、それらをかなえるために行動するのはあくまでも自分だ。夢がかなわない、目標を達成できない、人生が変わらない――と言っても、自分の能力や力量、行動が不足しているだけであって、それらは別に手帳のせいではない。手帳うんぬんよりもまず自分自身を見つめ直さなくてはならないだろう。そこで自分の力量や能力不足、はたまたすぐ怠惰に飲み込まれる自分の駄目さ加減に打ちのめされて、『自分はまだまだだから、もっと頑張ろう』となるか、或いは自分には無理だと諦めるか。それは自分次第だ。

しかし努力も行動もできない人の場合『○○できたらいいなあ』程度の棚ぼたや偶然、運に頼る、スピリチュアル的に言えば『引き寄せの法則』狙いで夢をかなえたり目標を達成したり現実を好転しようなどと考えてしまう。手帳術特集やSNSの綺麗に書き込まれたを見て『この手帳を遣えば何かが変わるかもしれない』と手帳を買い、書きはするものの、行動しないので何も現状を変えられず、『この手帳は私には合わなかったのだ』と散財ループを繰り返すことになる。こういう人は手帳メーカーや出版社からからすればありがたいカ……いやお客様かもしれないが。

……えっと、何の話をしていたんだっけ?

今回、勢いに任せて手帳好きの人からかなり怒られそうな記事を書いてしまったが、とにかく『手帳を書かなくても死なない』し『手帳を書かないから不幸になる』わけではない。手帳はあくまでも道具でしかなく、しかも多くの場合はなくても別段困らない代物である(書き込まれた手帳の場合は無くしたら困るだろうが……)。どう使うかは本人次第だ……という自戒を込めて今回の記事を終わりにする。

ヴェルシーロフ『聖像真っ二つ』事件と『空想の愛』考

何のことかと言うと、『未成年』にて主人公アルカージイの実父、ヴェルシーロフが聖像をタイルに叩きつけて真っ二つにしたシーンのことである。

「わしはある医師を知っていたが、彼は父親の葬式に、だしぬけに口笛を吹きだした。たしかに、わしが今日葬式に行くことを恐れたのは、きっとだしぬけに口笛を吹きだすか、あるいは大声で笑いだすにちがいないという考えが、どういうわけか急に頭に来たからだよ。あの不幸な医師みたいな、しかも彼はあまりいい死にざまはしなかった……それにしても、まったく、どうしてかわからんが、今日はどうもこの医師のことを思い出されてならんのだよ。頭にこびりついて、はなれんのだよ。そら、ソーニャ、わしはまたこの聖像をとり上げただろう(彼は聖像を手に取って、くるくるまわした)、そしてどういうものか、今、すぐに、これを暖炉に、そらそこの角に叩きつけたくてならんのだよ。そしたらきっと真っ二つに割れると思うな―—ちょうど真っ二つに」(『未成年第三部第9章』)

 このセリフの前にはこんなことも言っている。彼が内縁の妻ソーフィア(アルカージイの母親であり、マカール老人の妻であった)の誕生日のために持ってきた美しい花束についてだ。

「……まあ、そんなことより花束の話でもしよう。どうしてここまで持ってこれたのか―—自分でもふしぎでならんのだよ。わしは途中で三度ほどこれを雪の上に投げすてて、踏みにじってしまおうと思った」(同)

ヴェルシーロフが花束を踏みにじりたい、聖像を割りたいという欲求に取り付かれた理由について、私は以前の記事で『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャの言葉を引用して『人間が犯罪を好む生き物 だから』と考察した。

「そうだな、何か立派なものを踏みにじりたい、でなければあなたの言ったような、火をつけてみたいという欲求でしょうね。これも往々にしてあるもんですよ」(『カラマーゾフの兄弟』第11編3)

 しかし疑問が残る。何故人間は犯罪が好きなのか。なぜ悪いことをしたいという欲求があるのか。考えてみた結果、ふと思い立った。それは人間が『自分の行動によって何かしらの変化を与えることを好む』からではないかと。

よく『人間は変化を嫌う生き物』だと言われている。しかし、自分の言動によって与えらる変化に関しては、その限りではない。例えば聖像を叩きつければ真っ二つに割れる。花を踏みにじれば花が無残につぶれる。家に火をつければたちまち燃え広がる。頭に文鎮を叩きつければ頭蓋骨が割れて死ぬ。予想される変化、目に見える変化や反応、それをすぐさま与えられることに人間は喜びを感じるのではないかと思う。だから逆に、何かしらの行動をしても『短期間で』『目に見える』変化がおこらないと人間は嫌気がさす。『仕事をやってもやっても終わらない』『努力しても結果が出ない』こういったとき、森の中を延々とさまよっているような気分になり『何も変わらないじゃないか』とせっかくの行動を全部やめてしまい、社会や身の回りの者に対して不平不満を投げつけるだけになる。或いは子供の躾の場合、何度言っても言うことを聞かない子供に対してエスカレートして虐待になったりするのだ。そのエスカレートした行動に対して相手に何かしらの『変化』があると、ますますそれが癖になる。

また『カラマーゾフの兄弟』から引用するが、

「空想の愛は、すぐに叶えられる手軽な功績や、みなにそれを見てもらうことを渇望する。また事実、一命さえ捧げるという境地にすら達することもあります、ただ。あまり永つづきせず、舞台でやるようになるべく早く成就して、みなに見てもらい、誉めそやしてもらいさえすればいい、というわけですな。ところが実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです」(同第2編4)

 『功績』を『結果』や『変化』と言い換えることもできるだろう。だから『手軽にできるナントカ』『〇日間で結果が出るナンチャラ』(ダイエット、英会話、術etc……)更には効率や要領を重視した『時短術』とか流行るし、飛びつきたくなる。
また、日常生活においていえば、例えばLineの返信やツイッターのリプが早ければ早いほど喜ばれ、逆に遅ければ遅いほど『嫌われたのか』『何で返してくれないんだ』と不安になる。呼びかけても何も反応がなければ苛立ちを覚える。上で書いたが、日常の所作から自己啓発、健康、ダイエット、勉強、更には犯罪行為に至るまで、人はアクションを起こす→望み通りの変化や反応がある、ということに喜びを見いだすものなのだ

しかしこれはある種の危うさもはらんでいる。それは何か自分の望み通りの出来事が起こった時、『私が〇〇したからだ!』と変な勘違いを起しやすい点だ。人間は何かしら物事が起きた場合、何かしらの理由付けをしたがる生き物だという。仮にただの偶然であったとしても『○○のせいだ!』と原因ないし元凶を求めたがる。こういった認知の歪み『勘違い』の積み重ねによって、自分を万能の『神』であり『人々を導く英雄』だと思いこむようになるし、また『ひれ伏す相手』を探す人々によって祭り上げられる。そこまで行かなくても、自分が『インフルエンサー』や『αツイッタラー』となり、自分の一挙手一投足によってフォロワーや自分の信奉者に影響を与えることに喜びを見致すようになる。逆にそれが無かったり批判を与えられれば、躾から虐待、からかいから苛めに発展するように言動が過激になったり、自分に異を唱える人間を攻撃するようになる。何故なら、相手からの『批判』は望んでいないからである。

と、ここまで書いておいてふと思い出したのが『悪霊』の主人公、ニコライ・スタヴローギンだ。彼もキリーロフやピョートルといった様々な人間に影響を与える、いわば『インフルエンサー』的な存在である。そのくせ『信奉者』であるピョートルから自分が神輿として担ぎ上げられることを嫌がるし(正直平穏に暮らしたいというよりは『承認欲求』だけを得て責任を取りたくないというように思えてならないのだけれど……)、僧侶であるチーホンとの『対決』では、自分の書いたものに対して異を唱えられたことに激昂している。(スタヴローギンのことはいずれどこかで考察してみたいがファンからいろいろ怒られそうな気がしてならなかったりする……)

……話がヴェルシーロフからだんだん脱線していったが、とにかく聖像を真っ二つにするような『空想的な愛』に似た『変化』よりも、こつこつと、忍耐強く続けてようやく表れる『実行的な愛』のような『変化』のほうが長続きすることは確かかもしれない、と言う話で記事を終えたい。

手帳術の罠

私はいろいろな手帳やノートを使い、挫折してきた。手帳術やノート術の本を見つけて読み漁りもした。一時期本棚がその手の本で埋まったこともあった。その結果たどり着いた結論がある。

それは『万人に合う手帳術やノート術は存在しない』ということだ。

まあ、当たり前と言えば当たり前なのだけれど……。

例えば巷で人気がある、時間軸のあるバーチカルタイプの手帳。営業職や時間単位でアポや予定が入っている人向けと言われていたが、忙しい日々の時間管理やライフログをつけるのも役立つ。実際手帳術の本でもバーチカルタイプを使っての時間管理やライフログをつけることを推奨しているものも多く、またその手帳を使ったことによる成功体験やこんな風に使ってますという実際の手帳のページが載っていたりもする。自分もこんな風にやればうまくいくのではないかという淡い期待がふつふつとこみあげてくる。

だが著者が推奨する手帳術が自分に合うかどうかはまた別の話だ。私は時間管理をするほどの予定がなく、尚且つ周りの状況に振りまわされるような仕事なので、バーチカルで仕事の段取りや予定を組み立ててもすぐに崩壊する。また、ライフログをつけようにも単調な毎日しか送っていないので、ログの書き甲斐がなく、更にあの時間軸の中にちょこちょこ書くのが苦手だ。ということでバーチカルタイプ自体が私に合っておらず、バーチカル手帳を使った時間管理やライフログも合わなかった。

ノート術で言えば、例えばバレットジャーナルも人気があるが、ネットを見ると挫折者も多い。SNSでにあるような凝ったフォーマットを書くのが無理! という意見に対しては「いやもっとバレットジャーナルってシンプルなものだから」と反論できるが、その本家本元のシンプルなバレットジャーナルも合わない人もちらほらいる。私はバレットジャーナルの要素を今の手帳で取り入れているものの、どちらかといえば挫折組に近い。私の場合は「タスクややりたいことの先送りが多い」点が挫折の大きな原因だった。

SNSやyoutube、雑誌の手帳術やノート術特集を見ていると「自分もこんな風に手帳やノートを使ってみたい」と思う気持ちが湧いてくる。しかしそれが自分に合っているかどうかは別問題だ。何故ならその人と自分では職業も年齢もライフスタイルも性格もこれまで歩んできた人生も違うからだ。「○○さんみたい手帳やノートを使ってみたい」という憧憬、模倣したいという欲求、それが上手くいく場合もあるがたいていは失敗する。たとえるなら美容院で有名なアイドルと同じ髪型にしてくださいと頼んでも、そのアイドルのような容貌になれないのと同じだ。

ではどうすればいいのか、というと、これはもう自分に合った書き方・使い方を模索していくしかないだろう。最初は既存の手帳術の模倣であっても、最終的に自分に合った手帳術やノート術を確立していくのだ。『手帳術』『ノート術』と呼ぶにはお粗末なものかもしれない。複数の手帳術を取り入れた結果、自分のオリジナルとは言い難いものが出来上がるかもしれない。ムック本等で推奨されているやり方とは全然違うかもしれない。しかし手帳もノートも『どんな使い方をしようと自由』だ。バーチカルの手帳に時間軸を無視して俳句日記みたいなものを書いたっていい。それも『自分に合った使い方』であり、それ以上に最良なものはないと思う。あくまで印象であって統計を取ったわけではないのだが、長らく――何年も手帳やノートが続いている人というのは、この『自分なりの手帳術・ノート術』が確立している人が多いという印象がある。

と、手帳を何度も挫折している人間が偉そうにグダグダ書いてしまったが、まあ、ただの暇人の戯言だと思ってください。

2020年の手帳事情 振り返り

本格的に手帳選びの時期になってきたが、今回は、2020年11月現在の手帳事情と来年の手帳をどうするかを書いていきたいと思う。

前回、9月の記事においては、手帳とノートはこうなっていた

・MDノートA5サイズ→ライフログノート兼ネタ帳
・Edit方眼ノートA5サイズ→仕事用バレットジャーナル
・ロルバーンダイアリー→日記
・週間レフトの手帳→予定管理(マンスリー)とタスク管理(ウィークリー)

一部除いてだが、一応来年もこれと変わらない予定でいる。しかし自分の手帳を振り返ってみると、ロルバーンダイアリー以外の使い方はかなり迷走している。手帳好きあるある?なのだろうか。

ということで一つ一つ見ていきたい。

①MDノートA5サイズ

途中で小さいノートを使ってみたこともあったが、ノートとして使うならA5サイズがいちばんいいという結論に至った。何故なら、A5サイズというのが紙面の広さと持ち運びのしやすさを兼ね備えた適正サイズだと思うからである。
以前はロイヒトトゥルムを使っていたが、途中で小さめのノートに移行し、4月終わりからMDノートの方眼に本格的に移行した。「書くを楽しむ」というキャッチコピーの通り、書いていて楽しくなるノートである。万年筆でも裏ぬけはしないし、クリーム色の髪が目に優しい。方眼もそれほど主張していない。それにロイヒトトゥルムと比べると入手がしやすく、値段が手ごろなのも利点だった。
当初はバレットジャーナルとして使っていたが、途中からライフログ兼なんでもノートという使い方になった。以前も述べたが、ノートに書くとそれだけで満足してしまって行動に移せないというデメリットがあったからだ。使い方を柔軟に変えることができるのはノートの利点である。

Edit方眼ノートA5サイズ

これは仕事用のバレットジャーナルとして使っていた。……のだが、実を言うといまいち活用しきれいていないのが現状である。忙しい時こそバレットジャーナルを活用したいのだが、その忙しい時は手帳やノートを書いている暇も見ている暇もない。おまけに自分の裁量で仕事ができるという職ではなく、仕事量は周りの状況に左右される。優先順位もその都度で変わってくる、こうなってくると、あらかじめタスクを書きだして終わったらチェックするというよりも、目の前にある仕事を、その都度変る優先順位に合わせて片づけるというほうがはるかにマシなのだ。手帳やノートを広げている時間がもったいないのである。なので正直仕事でノートや手帳を使うのはやめようかと思っているぐらいだ。かといって全く使わないとなると後々自分が困る羽目になる。ただ自分の頭に浮かんだことを書きだせばいいだけの『なんでもノート』と違って、運用に未だに悩まされる。

③ロルバーンダイアリーLサイズ

唯一一年使いきれた手帳である。(10月はじまりなので、10月終わりから書き始めていた)
書き方としてはマンスリーページに天気を書き、残りのメモページに日記を書くという形である。これが結構うまくいった。ロルバーンダイアリーLサイズのメモページは160ページ以上ある。カレンダーが付いたノートのようなものなので、一日に書く分量は自由だ。何なら書かない日があってもいい。やっぱり日記はフォーマットが決まっている手帳よりノートのほうがいいと再確認した。
ではなぜダイアリーなのかと言うと、月間ブロックのページが12月までついているからである。日記を書く時間や気力がないときは、このマンスリーのページにその日の天気だけ書くようにしている。これだけでも一応日記としては成立する。
難点は左ページに書くときにリングが邪魔になることと、年間ページがいまいち活用できていないことである。リングが干渉するのは、リングノートの宿命というやつなので仕方がない。年間ページは支出額を書いたこともあるが長続きしなかった。これは今後の課題だが、使わないなら使わないで構わないのかもしれない。使わないページをわざわざ埋める必要性はない、と割り切ることも必要かもしれない。

④週間レフトの手帳

8月の終わりか使い始めたのが、無印のマンスリーウィークリーノートA6サイズである。これで何をしているかと言うと、予定管理とタスク管理だ。普通の週間レフトの場合、左側をスケジュールや予定、右側をタスク管理としているが、私の場合はバレットジャーナル方式(つまり「キー」を使って)左側にその日の予定とやっておきたいタスクを書いている。市販の手帳にバレットジャーナルのやり方を取り入れた格好だ。右側のページに関しては、現在は三分割しており、
上→ハビットトラッカー
真ん中→その週にやる予定のタスク(日付は未定)や、予定に付随するメモ
下→一週間の振り返り
という形にしている。ハビットトラッカーは以前も書いたが、一週間単位のほうが続けやすく、振り返りもしやすい。おまけにこのマンスリーウィークリーノートはメモページが方眼になっているため、表が作成しやすいという利点がある。余計な機能やページが一切ないシンプルさも気に入ってが、唯一不満なのがペンホルダーが付いてないことだ。カバー自体は収納できるポケットが有ったりシンプルな見た目なので気に入っているのだが、やはりペンホルダーが欲しいため、ほぼ日手帳のカバーを再利用することにした。ほぼ日手帳のカバーにはバタフライストッパーがついているため、ここにペンをさしておくと鞄の中で手帳が開いてぐちゃぐちゃに、という事故も防ぐことができる。

⑤その他のノート

メインとなるのはライフログノート兼なんでもノートであるが、サブノートとして10月から『運動ノート』をつけ始めた。内容は運動や筋トレ、ストレッチに関することで、やりたいメニューやその日にやった運動や筋トレの内容を日記みたいに記録していく感じである。さぼった日は潔く「なし」と書く。運動量が格段に減っているので、運動習慣をつけたいというのが狙いだ。その甲斐あってか筋トレは結構続いているし、ウォーキングも週二回、1回30分以上を目標に続けられている。慣れてきたらウォーキングからジョギングに変えて行こうかと思う。ちなみに現在使っているのはコクヨのソフトリングノートbizのA5サイズである。ソフトリングというだけあってリングが柔らかいため、↑で書いたリング干渉問題もない。

今年は(も)手帳を変えたり挫折したりの繰り返しであり、まともに一年間使えたのはロルバーンダイアリーのみであった。とはいえ1冊でも一年使い続けられたのは私的には進歩(?)かもしれない。

アリョーシャの『仕事』

カラマーゾフの兄弟』の中で、主人公アリョーシャは様々な人のところを訪れる。ミーチャの婚約者カテリーナ、父であるフョードル、待ち伏せしていたミーチャ、幼馴染の少女リーズ、次兄のイワン、二等大尉のスネギリョフとその子供イリューシャ、毒蛇同士の食い合いの渦中にいるグルーシェニカ、アリョーシャを呼び出した少年コーリャ、更には自殺したスメルジャコフ……

これらを以って、この『第一の小説』におけるアリョーシャを『使い走り』と揶揄されることもある。実際アリョーシャは、いろいろな人に呼び出されたり、使いに出されたりしている。その様子は一見すると『主人公』とは言い難いかもしれない。

だがよくよく考えてみると、アリョーシャから相手のもとへやって来るパターンは多いが、その逆はあまりない。スメルジャコフの自殺を知らせに駆けつけて来たマリアぐらいだ。イリューシャのところへ来ない少年コーリャに対してスムーロフを使いによこしたことはあるが、これは失敗に終わった。

何故アリョーシャが『訪れる』側なのか。

「行きなさい、さあ、行くがよい。わたしならポルフィーリイでも間に合うから、急いで行きなさい。お前は向うで必要な人間だ。院長さまのところへ行って、食事の給仕をしてきなさい」
「どうか、このままここにいさせてください」アリョーシャは哀願するような声で言った。
お前は向うでいっそう必要な人間なのだ。向うには和がないからの。おまえが給仕をしていれば、役に立つこともあろう。諍いが起ったら、お祈りするといい。そして、いいかね、息子や(長老は彼をこう呼ぶのが好きだった)、将来お前のいるべき場所はここではないのだよ。これを肝に銘じておきなさい。わたしが神さまに召されたら、すぐに修道院を出るのだ。すっかり出てしまうのだよ」(第2編7)

 もはや余命幾ばくもないゾシマ長老。敬愛する師の傍にいたいと願うアリョーシャ。しかし長老は敢えて自分の傍ではなく『向う』へ行くようにアリョーシャを諭す。

「どうした? お前のいるべき場所は、当分ここにはないのだ。俗世で大きな修業のために、わたしが祝福してあげよう。お前はまだこれからまだ、たくさんの遍歴を重ねねばならぬ。結婚もせねばならぬだろう、当然。ふたたび戻ってくるまでに、あらゆることに堪えぬかねばなるまい。やることは数多く出てくるだろうしの。しかし、わたしはお前を信頼しておる。だからこそ、送りだすのだ。お前には、キリストがついておる。キリストをお守りするのだ、そうすればおまえも守ってもらえるのだからの。お前は大きな悲しみを見ることだろうが、その悲しみの中で幸せになれるだろう。悲しみのうちに幸せを求めよ――これがお前への遺言だ。働きなさい、倦むことなく働くのだよ。今日以後、私のこの言葉を肝に銘じておくといい。なぜなら、これからもお前と話をすることはあるだろうが、私の余命はもはや日数ではなく、時間まで限られているのだからの」(同)

 アリョーシャを俗世へと送り出そうとするゾシマ長老。それはアリョーシャの『修業』のためでもあるのだろう。しかし本当のところは『俗世』にてアリョーシャに『仕事』をさせるためでもあると考える。

『なぜ、わたしを見ておどろいている? わたしは葱を与えたのだ、それでここにいるのだよ。ここにいる大部分の者は、たった一本の葱を与えたにすぎない、たった一本ずつ、小さな葱をな……われわれの仕事はどうだ? お前も、もの静かなおとなしいわたしの坊やも、今日、渇望している女に葱を与えることができたではないか。はじめるがよい、倅よ、自分の仕事をはじめるのだ、おとなしい少年よ! われわれの太陽が見えるか、お前にはあの人が見えるか?』(第7編4)

 腐臭事件が起きた日、グルーシェニカから『一本の葱』を与えられ、また与えることによって絶望から復活したアリョーシャ。パイーシイ神父の朗読に導かれるように『ガリラヤのカナ』の夢を見たアリョーシャ。貧しい人たちの婚礼の場。そこにはゾシマ長老もいたのだ。この『われらの太陽』とは水をぶどう酒に変えるイエス・キリストのことである。

『こわいのです……見る勇気がないのです……』アリョーシャはささやいた。
『こわがることない。われわれにくらべれば、あのお方はその偉大さゆえに恐ろしく、その高さゆえに不気味に思えもするが、しかし限りなく慈悲深いお方なのだ。愛ゆえにわれわれと同じ姿になられ、われわれとともに楽しんでおられる。客人たちの喜びを打ち切らせぬよう、水をぶどう酒に変え、新しい客を待っておられるのだ。たえず新しい客をよび招かれ、それはもはや永遠になのだ。ほら、新しいぶどう酒が運ばれてくる、見えるか、新しい器が運ばれてくるではないか……』(同)

ところで『カラマーゾフの兄弟』にてイエス・キリストが出てくる場面は、このガリラヤのカナの夢の他に、もう一つある、イワンが創った叙事詩『大審問官』だ。ここでイエス・キリストは16世紀のスペインの町に姿を現し、苦しむ人たちに様々な『奇蹟』を行っていく。その結果、囚人として老審問官に捕らえられる。共通点は人々の前に自ら姿を現し、彼らを苦しみから救い、或いは彼らの喜びを絶やさないようにするためにその力を使っているという点だろう。決して石をパンに変える奇蹟を以って、人々をひれ伏させるためではない。(こうしてみるとイワンとアリョーシャのイエス・キリストに対する解釈は似通っているというかほぼ同じと見ていいだろう)

とにかく、アリョーシャが俗世へと送られる理由は、このイエス・キリストと同じ『役割』ないし『仕事』をさせるためとみていいのではないか。それは『その偉大さゆえに恐ろしく、その高さゆえに不気味』なイエス・キリストではなく『愛ゆえにわれわれと同じ姿になられ、われわれとともに楽しんでおられる』というイエス・キリストだ。アリョーシャはよく『ドストエフスキーが創造した『現代のキリスト』』と言われる。だとしたら隠遁者として修道院に籠り続けるのではなく。俗世にて『一本の葱』を与え、また与えられるという『実行的な愛』を行い続ける、アリョーシャならばそれができる、とゾシマ長老が判断したからだと考えられるのだ。

「空想の愛は、すぐに叶えられる手軽な功績や、みなにそれを見てもらうことを渇望する。また事実、一命さえ捧げるという境地にすら達することもあります、ただ。あまり永つづきせず、舞台でやるようになるべく早く成就して、みなに見てもらい、誉めそやしてもらいさえすればいい、というわけですな。ところが実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです」(第2編4)

 『場違いな会合』にて、ゾシマ長老のもとを訪れたホフラコワ夫人に語った長老の言葉である。何故この『実行的な愛』は『仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえある』のかといえば、『人間の顔』がそれを邪魔するからだ。

「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなかったんだよ。俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠いものだけだ。いつか、どこかで《情け深いヨアン》という、さる聖人の話を読んだことがあるんだが、飢えて凍えきった一人の旅人やってきて暖めてくれと頼んだとき、聖者はその旅人と一つ寝床に寝て抱きしめ、何やら恐ろしい病気のために膿みただれて悪臭を放つその口へ息を吹きかけはじめたというんだ。しかし、その聖者は発作的な偽善の感情にかられてそんなことをやったのだ、義務に命じられた愛情から、みずから自己に課した宗教的懲罰から、そんなことをやったんだと、俺は確信しているよ。人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」「そのことはゾシマ長老も一度ならず話しておられました」アリョーシャが口をはさんだ。「長老もやはり、人間の顔はまだ愛の経験の少ない多くの人にとって、しばしば愛の妨げになる、と言っておられたものです。でも、やはり人類には多くの愛が、それもキリストの愛にほとんど近いような愛がありますよ。そのことは僕自身よく知っています、兄さん……」(第5編4) 

 『実行的な愛』を行うことの『困難さ』、『人間の顔』を直視することの難しさははアリョーシャもわかっていた。だがゾシマ長老は彼を信じて『俗世』へと送り出す。言い換えれば、アリョーシャは『人間の顔』と向き合うことができる、或いは向き合おうとすることができるのだろう。だからこそ彼は『向うではいっそう必要な人間』だったのだ。
長老の遺言通り、アリョーシャは修道院を出た。そして誤認逮捕されたミーチャモスクワから帰ってきたイワン、グルーシェニカやカテリーナ、リーズやホフラコワ夫人、スネギリョフとその子供イリューシャたち、つまり『身近な者』たちのもとを訪れ『顔』と向き合い、寄り添い続けるのだ。その中にマリアやスメルジャコフのことも入っていた可能性もある。でなければ、マリアがスメルジャコフの自殺を『だれにも知らせず』『真っ先に』アリョーシャに知らせに行く理由がない。

華々しい活躍とは言い難いかもしれない。荒野の問答で悪魔がイエス・キリスト言ったように『石をパンに変える奇蹟』を起すわけでもない。しかしアリョーシャは静かに、地道に、誰かしらのもとを訪れ、『実行的な愛』という自分の『仕事』をやり続けるのだろう。

坂口安吾『続堕落論』

今回は『堕落論』の続編的なものになる『続堕落論』について書いていきたい。
個人的には著者の文章を全部引用したいぐらいなのだが流石にそれやめる。ということで、前回同様に個人的に気になった箇所を紹介していきたい。

最初は著者が生れた新潟のこと『農村文化』のことについて語られている。

 一口に農村文化というけれども、そもそも農村に分化があるか。盆踊りだのお祭礼風俗だの、耐乏精神だの本当的な貯蓄精神はあるかも知れぬが、文化の本質は進歩ということで、農村には進歩に関する毛一筋の影だにない。あるものは排他的精神と、他へ対する不信、勘ぐり深い魂だけで、損得の執拗な計算が発達しているだけである。農村は純朴という奇妙な言葉が無反省に使用されてきたものだが、元来農村はその成立の始めから淳朴などという性格はなかった。
 大化改新以来、農村精神とは脱税を案出する不撓不屈の精神で、浮浪人となって脱税し、戸籍をごまかして脱税し、そして彼等農民達小さな個々の悪戦苦闘の脱税行為が実は日本経済の結び目であり、それによって荘園が起り、荘園が栄え、荘園が衰え、貴族が滅びて武士が興った。(中略)彼等は常に受身である。自分の方からこうしたいとは言わず、また、言い得ない。その代り押し付けられた事柄を彼等独特のずるさによって処理しておるので、そしてその受身のずるさが孜々として、日本の歴史を動かしてきたのだった。(『続堕落論』)

これだけ見るとこの人は田舎が嫌いなのかと思ってしまうのだが、

損得という利害の打算が生活の根柢で、より高い精神への渇望、自我の内省と他の発見は農村の精神に見出すことができない。他の発見のないところに真実の文化が有りうるべき筈はない。自我の省察がないところに文化の有りうべき筈はない。(同)

著者はただ農村の悪口を言っているわけではない(はず)。『利害の打算』『受身のずるさ』のくだりは現代を生きる我々にも当てはまる部分があると思う。例えば会社や家庭、或いは現在の自分の境遇についての愚痴や不満をSNSで吐き出しながら、それを改善しようと動いたりしているかと思えば何もしないで周囲の人間の悪口を言ったり……とか。……何だかものすごく身につまされる。

農村の精神は耐乏、忍苦の精神だという。乏しきに耐える精神がなんで美徳であるものか。必要は発明の母と言う。乏しきに耐えず、不便に耐え得ず、必要を求めるところに発明が起り、文化が起り、進歩と言うものが行われてくるのである

これは一見するといわゆる便利さを求める文明の話かと思えばそうでもない。例えば会社に対して愚痴や不満があるのならば、上司に配属替えを訴えたり、転職のためにスキルを磨いたり、或いは職場の同僚と仕事について話し合ったりと現状を変える(=発明する)ためにできることはある。不満を抱えつつ何も行動しないのは『こんな苦しいことに耐えている俺私はすごいんだ!』と単に行動しないのを『耐えている自分』=『美徳』と誤魔化しているに過ぎない、ということなのだろう。『求めよさらば与えられん』とは真逆である。

ああ、われわれがいなかったら、人間どもは決して食にありつくことはできないだろう! 彼らが自由でありつづけるかぎり、いかなる科学もパンを与えることはできないだろう。だが、最後には彼らがわれわれの足元に自由をさしだしていっそ奴隷にしてください、でも食べるものは与えてください》と言うことだろう。ついに彼ら自身が、どんな人間にとっても自由と地上のパンとは両立して考えられぬことをさとるのだ。それというのも、彼等は決してお互い同士の間で分かち合うことができないからなのだ!(『カラマーゾフの兄弟』第5編)

 『堕落論』を読んでいると『カラマーゾフの兄弟』の『大審問官』の件を思い出さずにはいられなくなる。90歳の老審問官が突然現れたイエス・キリストに語るのは《だれの前にひれ伏すべきか》という永遠の悩みを抱え続ける人間の愚かさや弱さであり、同時に大審問官自身の欺瞞であり、苦しみだからだ。

日本人は天皇によって終戦の混乱から救われたというが常識であるが、之は嘘だ。日本人は内心厭なことでも大義名分らしきものがないと厭だと言えないところがあり、いわば大義名分というのはそういう意味で利用されてきたのであるが、今度の戦争でも天皇の名によって矛をすてたというのは狡猾な表面にすぎず、なんとかうまく戦争をやめたいと内々誰しも考えており、政治家がそれを利用し、人民が又それを利用したにすぎない。(『天皇小論』)

 自分自らを神と称し尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼等は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことにうよって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた
 それは遠い歴史の藤原氏武家のみの物語ではないのだ。見給え、この戦争がそうではないか。実際天皇は知らないのだ。命令してはいないのだ。ただ軍人の意志である。(中略)しかもその軍人たるや、かくの如くに天皇をないがしろにし、根柢的に天皇を冒涜しながら、盲目的に天皇を崇拝していたのである。ナンセンス! ああナンセンス極まれり。しかもこれが日本歴史を一貫する天皇制の真実の相であり、日本史の偽らざる実態なのである。(『続堕落論

 著者は天皇制の『欺瞞』について『堕落論』に引き続き記している。それを踏まえて、『カラマーゾフの兄弟』の『大審問官』から引用してみたい。

彼らは罪深いし、反逆者でもあるけれど、最後には彼等とて従順になるのだからな。かれらはわれわれに驚嘆するだろうし、また、われわれが彼らの先頭に立って、自由の重荷に堪え、彼らを支配することを承諾したという理由から、われわれを神と見なすようになることだろう、——それほど最後には自由の身であることが彼等には恐ろしくなるのだ! しかしわれわれはあくまでもキリストに従順であり、キリストのために支配しているのだ、と言うつもりだ。彼らを再び欺くわけだ。なぜなら、お前を二度と傍へ寄せ付けはしないからな。この欺瞞の中にこそ、われわれの苦悩も存在する。なぜなら、われわれは嘘をつきつづけなければならぬからだ。(『カラマーゾフの兄弟』第5編)

どうだろう。『キリスト』を『天皇』に言い換えてみると、安吾の言っていることとまるで同じではないだろうか。

我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分と言うずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、又、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人生の正しい姿を失ったのである。(『続堕落論』)

 『大義名分』というのは『もっともらしい理由』と言い換えることができるだろう。それは戦争に限った話ではなく、例えば日本人の有給消化率が低いという話が以前あったのだけれど、これも『大義名分』或いは『もっともらしい理由』が無ければ取りずらい、取らせてほしいと言いづらいからではないかとも思う。今は有給義務化という『大義名分』が生れたから年間最低5日は取れるようになった。しかし今度はどこでとるか、どこならば取ってもいいかという悩みが生まれることになる。上司なり誰かなりが自分の休みもスケジュールもすべて決めてしまい、それに沿って行動した方がはるかに楽ちんなのである。たとえ人から決められたものに対して不満たらたらであってもSNSで発散させればヨシヨシされたり『美徳』として堪えればほめてもらえる。一見真面目に見えて狡猾なやり方と言えるだろう。自分自身に嘘をつきつづけ、自分をごまかし、また他人をごまかしているからだ……えっと、何の話していたっけ?

では著者の言う『人生の正しい姿』とは何か。

 人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲することを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎ去り、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。
 日本国民諸君、私は諸君に、日本人及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ

 これだけ見ると今はやりのエッセイ本やビジネス書、自己啓発本なんかに見える『好きなことだけで生きよう』とか『嫌なことは全部やめてしまおう』とかそんな感じに見えるのだが、著者の言う『堕落』とはそれよりももっと困難と言えるだろう。

堕落自体は悪いことに決まっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義撤廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足のニ十本の爪を血ににじませ、はぎ落して、じりじりと天国へ近づく以外に道はあろうか。(同)

よく「ありのままの自分」というが『ニセの着物をぬぎ去った』『赤裸々な姿』となった自分であろう。『変わりたい』と言いつつ変らない人が多いのは、自分の『本当の声』に耳を傾けていない『赤裸々な姿』となった自分から目を背けているからと言える。つまり『変わりたい』と思っているのは。『変われば他の人から称賛される』し『嫌なことが無くなる』。『称賛されるのは気持ちいい』『でもめんどくさい』『辛いのは嫌』『楽して変りたい』『別にこのままでいいじゃん』『私は悪くない』『こんな風に育てた親が悪い』『ていうか今までこうだったんだし』『今が愉しければそれでいいじゃないか』というこれらの自分の『声』から耳をふさぎ、目を背けている。偽りの服を脱ぎ捨てた裸の自分は醜く、見るのも嫌だろうが、それでも見つめようとしなければ何も変わらないのだ。

悪徳はつまらぬものであるけども、孤独という通路は神に通じる道であり、前任なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りない。
 悲しい哉、人間の実相はここにある。然り、実に悲しい哉、人間の実相はここにある。(同)

堕落。それ自体は実は簡単なものであり。人間である以上は堕落は免れないものである。問題はそこから『復活』しえるかどうかだろう。堕ちきってしまえばあとは這い上がるだけとは言うが、その『這い上がる』こと自体楽なことではない。コスパだの効率だの脳の癖を利用するだの、そんなものに頼って人間は変われないのかもしれない。変れたとしても本当の意味では何も変わってないというオチがつきかけない。私は前回の記事で『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフで使われた『一粒の麦』を思い出すと言ったが、地に落ちても(=堕落しても)『一粒の麦』のままでいるか『死んで』豊かに実を結ぶことができるか、なのだろう。

他にもいろいろと読んで気になった記述はあるのだが(というか最初も書いたが個人的には全文引用したいぐらいである)、きりがなくなりそうなので『堕落論』から有名な言葉を引用して終えたい。

生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りえるだろうか。(『堕落論』)