月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

『教唆犯』スメルジャコフ

カラマーゾフの兄弟』における『教唆』といえば、イワンが『父親殺し』をスメルジャコフに『唆かした』ことが挙げられるだろう。(でも私は個人的にイワンがスメルジャコフを『唆した』というのは少し違うんじゃないかとは思っている) 。しかし実は『唆された』側であるスメルジャコフのほうがまごうことなき『教唆犯』ではないかと私は解釈している。

教唆①イリューシャに対して
二等大尉スネギリョフの幼い息子、イリューシャ。この9歳の少年は、中学生からのいじめにも負けず、恥辱を受けた父親のために一人立ち向かう気高く勇敢な少年だった。しかしこの少年は、同時にある罪を犯してしまう。

「あの子はなにかのきっかけで、あなたの亡くなったお父さん(そのころはまだ生きてらっしゃいましたね)の召使スメルジャコフと親しくなって、あの男がばかなあの子に愚劣ないたずら、つまり残酷な卑劣ないたずらを教えこんだんです。パンの柔らかいところにピンを埋め込んで、そこらの番犬に、つまり空腹のあまり噛みもしないで丸呑みにしてしまうような犬にそれを投げやって、どうなるかを見物しようというわけです。そこで二人してそういうパン片をこしらえて、それを今これほど問題になっているむく毛のジューチカに投げてやったんです。これはどこかの番犬ですけど、ろくに食べ物ももらえないもんだから、一日じゅうむやみに吠えているような犬でしてね(犬のああいう愚かしい吠え声をお好きですか、カラマーゾフさん? 僕はとても我慢できませんよ)。犬はすぐにとびついて、丸呑みするなり、悲鳴をあげて、ぐるぐるまわりだすと、やにわに走りだし、走りながらきゃんきゃん悲鳴を上げてそのまま消えてしまったんです」(第10編)

これが第10編にてコーリャによって語られた事件のあらましである。この『いたずら』は幼いイリューシャを苦しませた。

「本当の話、あの子は病気になってから。僕のいる前で三度も、涙を浮かべてお父さんにくりかえして言ってましたよ。『僕が病気になったのはね、パパ、あのときジューチカを殺したからなんだよ、神さまの罰が当たったんだよ!』って」(同)

 

 スメルジャコフとイリューシャがどういうきっかけで親しくなったのかは定かでないし、何故気高く勇敢なイリューシャがスメルジャコフの愚劣ないたずらにに乗ってしまったのかという謎もあるのだが、スメルジャコフがイリューシャを唆した理由は何だったのかを考えてみたい。
スメルジャコフは少年のころ猫を縛り首にして自分は司祭になって葬儀を行ういう残酷な遊びを行っていた。この『ジューチカ殺し』も猫の葬式から続く加虐性の延長だと取るのは簡単だが、もう少し別の角度から考えてみたい。というのも、この時のスメルジャコフは、春に帰郷したイワンから『すべては許されている』という思想に感銘を受け、本気で考えたスメルジャコフであろうからだ。ということはこの『ジューチカ殺し』は加虐性云々というよりも『すべては許されている』という思想の実践であり、同時にこの後見ていく『父親殺し』に向けての『予行練習』でもあったのではないか、と思うのである。(しかしそうなるとイワン兄さんは間接的にイリューシャに対して罪があるということに……)

教唆②ミーチャに対して
イリューシャがジューチカにピン入りパンを食べさせた事件からおよそ一か月後、カラマーゾフ家の主、フョードルを殺害する。しかしスメルジャコフは当初、この犯行をミーチャにやらせるつもりだったのだ。

「わたしは、あの方が大旦那さまを殺すのを、待っていたんです。これは確実でしたからね。なぜって、わたしがちゃんとお膳立てをしておいたんですから……二、三日前から……いちばん肝心なのは、例の合図をあの方が知ったことなんです。あの数日の間に積もり積もったあの方の猜疑心と憤りからしても、必ず例の合図を使ってお屋敷に入り込むにちがいなかったんです。これは間違いないことでした。わたしはだから、あの方を待ち受けていたんです」(第11編8)

この『合図』というのはグルーシェニカが来たことを知らせるためのものであり、スメルジャコフはその『合図』をミーチャに教えたのである。三千ルーブルが入った封筒をことをミーチャに教えたのも、スメルジャコフだ。彼は着々と、ミーチャを『父親殺し』に向かわせるために歩みを進めていたのである。
しかしスメルジャコフの目論見は外れた。ミーチャはフョードルを殺さなかったのだ朗老僕グリゴーリイの頭を殴りつけはしたが、彼も一命をとりとめた。そうしてこの後「この場で何もかも一挙にけりをつけよう」とフョードルの殺害に踏み切った。

ところでスメルジャコフに『唆された』二人の共通点としては『殺したと思った相手が実は生きていた』というものが挙げられるだろう。イリューシャはジューチカ、ミーチャはグリゴーリイを殺したと思い込んだ。(そういえばグリゴーリイはミーチャからフョードルに対する忠誠心を『プードル七百匹分』と言われていたので強引に見れば『犬』が関わっているという共通点もあったりする)しかし二人とも生きていた。逆にスメルジャコフ自身の手にかかった者たち(猫、フョードル、スメルジャコフ自身)は確実に殺されている。これは前者二人とスメルジャコフの『良心』の度合いの差なのか、それとも何か別の要因のためなのか。考察の余地はありそうだが、考えがまとまらないのでとりあえずここで締めます、はい。