月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

『生身の人間』として考える

わたしは作品を考察するにあたり、各登場人物を『生身の人間』として考えたいと思っている。
カラマーゾフの兄弟』でいえば、ミーチャ、イワン、アリョーシャ、さらにスメルジャコフ。『悪霊』のスタヴローギン、『白痴』のムイシュキン、『罪と罰』のラスコーリニコフもだ。

この『生身の人間』というのはどういうことかというと、各登場人物を例えば『悪の象徴』とか『聖性を現しているもの』とかはたまた『作者自身』とかは考えずに、その物語の中で生きる、血の通った、一人の人間として考えたい、というものだ。

例えば、アリョーシャは作中で各登場人物から『天使』と呼ばれている。まさか彼の正体が本当に天使だと思っている人はいないと思うが、私は彼を『天使』だとか『聖性』とか『善なるものの象徴』とか『現代版イエス・キリスト』とは考えていない。もちろんそういう役割を作者の側が担わせようとしているであろうことはわかる。しかし、あくまでもアリョーシャは『生身の人間』、まだ第一の小説時点では二十歳そこそこの青年である。言うなれば『未完成』の状態と言えるだろう。だから彼も失敗し、悩み、苦しみ、葛藤し、揺らぐのである。ここにアリョーシャの『危うさ』を指摘する声もあるが(実は私もアリョーシャ闇落ちするんじゃないかと初読の時はひやひやしたのだが)よくよく考えてみると、これって人間ならば当たり前のことではないのか。たった一度でも悩まない、苦しまない、葛藤しない、揺らがない、という人間が果たしているだろうか(いやいるかもしれないけど)。しかも彼は『カラマーゾフ』である。こう考えるとむしろアリョーシャは『カラマーゾフ』でありながら、ギリギリのところで『落ちる』ことなく『苦しみ』や『葛藤』の中でよく耐えているほうだと思える。
ただ、アリョーシャの場合(腐臭事件を除いて)彼の苦しみや葛藤は自分のためではなく、兄たちをはじめとする他の誰かのためであることは強調しておきたい。アリョーシャは偶像化された『天使』でもなく、イエス・キリストのような『聖人』でもなく、ごく普通の『生身の人間』の身でありながら、人々に『一本の葱』を与え続けるという『実行的な愛』を生きる、生きようとする存在なのだ。当然ながら彼自身にもできないことはあるし、限界もある。それでもアリョーシャは『一本の葱』『実行的な愛』を与え続けることを決してやめないのだ。これって実はすごいことではないだろうか、と最近私は思うのである。アリョーシャを『生身の人間』として考えた場合、彼に対して見出したのは「大人しい坊や」としての「弱弱しさ」や「精彩のなさ」などではなく、真の意味での「強さ」だったのだ。こういう人物ならば、ゾシマ長老も修道院に引きこもらせるのではなく、『すべての人々のために』俗世に送り出したいと考えるだろう(もちろん俗世に送り出すのは、まだ経験の少ないアリョーシャの修業も兼ねているとは思うのだけど)。

とまあこんな感じで各登場人物を『生身の人間』として考えていくと、また違った人物像が生まれるのではないかというのが私の見解である。そうして『生身の人間」である彼らが何を考え、どんな感情を抱き、更に『何故』そのような考えに至り、行動に移ったのかを考える(私は物語や各登場人物を考える上で『何故』がかなり重要じゃないかと思っている)。私はこういうスタンスで、登場人物を見ていきたい。