月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

ドストエフスキー『未成年』①

「ついにやり遂げたよ!」(by神秘的な客)というわけで、一度は挫折して放置していた『未成年』をようやく通読したので、それに関する記事を書いていきたい。これで一応ドストエフスキーの五大長編はすべて読んだことになる。『カラマーゾフの兄弟」→『罪と罰』→『白痴』→『悪霊』→『未成年』と、何気に私が読んだ順番は『カラマーゾフの兄弟』以外は作品発表順である。いや、だから何だというわけではないけれども。

とはいえストーリーとか作品全体のレビューとかは他の人に任せて、この『未成年』を読んで私が感じたことや気になった登場人物らをネタバレ上等で書いていきたい。

まず主人公のアルカージイである。物語は全編を通して彼の手記によって進められる。アルカージイの出自は地主の男ヴェルシーロフが農奴出身の召使マカールの妻との間にもうけた子供である。つまり私生児だ。このあたり『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフと出自が似ている。彼もカラマーゾフ家の主フョードルの私生児とされているからだ(スメルジャコフはフョードルの子供と断言されているわけではないが)。ちなみにアルカージイの理想はロスチャイルドになることである。
物語の主軸はアルカージイと実父ヴェルシーロフの父子関係だと言われている(実際物語の中で起こる様々な事件や問題にヴェルシーロフはやたらと絡んでいる)アルカージイはこの私生児という生れ故に周囲から差別されてきた。しかし彼本人は、ヴェルシーロフを恨んでいるわけではない。むしろ逆だった。

わたしはヴェルシーロフの貴族の称号もいらないし、自分の生れについて彼を許すことができないでもない、わたしが生れてからこれまで片時も忘れずに望んだのはヴェルシーロフそのものなのだ、彼の人間そのものなのだ、父親なのだ、そしてこの考えがわたしの血の中にしみこんでいるのだ。(第一部第七章)

アルカージイの『血縁上の父親』であるヴェルシーロフは、前回の記事でも少し触れたが、人物像的にはフョードルに近い。彼はアルカージイの母親であるソフィヤを愛していたし、彼女を『天使』とも形容した(これもフョードルとソフィヤの関係に似ている)。しかし彼の考え方そのものはイワンに近いと言えるだろう。ヴェルシーロフはフョードルとイワンを足して二で割ったというのが私の印象である。
例えば前回の記事と被るが、『人間の顔』に関するヴェルシーロフとイワンの言葉を交互に並べてみたい。

人々をそのあるがままの姿で愛するということは、できないことだよ。しかし、しなければならないことだ。だから、自分の気持ちを殺して、鼻をつまみ、目をつぶって(これが特に必要なのだが)人々に善行してやることだ。人々から悪いことをされても、できるだけ腹をたてずに『彼も人間なのだ』ということを思い出してこらえることだよ」『未成年』第二部第一章)

「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなかったんだよ。俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠いものだけだ」(『カラマーゾフの兄弟』第5編4)

「隣人を愛して、しかも軽蔑しない――これはできないことだよ。わしに言わせれば、人間というものは隣人を愛するということが生理的にできないように創られているんだよ。ここにはそもそものはじめから言葉になにかのまちがいがあるのだ、だから『人間に対する愛』という言葉は、きみ自身が自分の心の中につくり上げた人類だけに対する愛(言葉をかえて言えば、自分自身をつくり上げたということになるから、自分自身に対する愛ということになるのだが)、したがって決して実際に存在することのない人類に対する愛と解釈すべきだよ」(『未成年』第二部第一章)

「たとえば相手が俺を見て、こういう思想のために苦悩している人間は当然こういう顔ををしているはすだと想像していたのとは、まるきり違い顔を俺がしていることに、ふいに気づくからなんだよ。そこで相手はすぐさま俺から恩恵を剥奪しちまうわけだが、意地わるな心からじゃ決してないんだからな。乞食、それも特におちぶれ貴族の乞食は決して人前に姿を見せたりせず、新聞を通じて施しを仰ぐべきだろうね。抽象的になら、まだ身近な者を愛することはできるし、ときには遠くからでさえも愛せるものだけれど、近くにいられたんじゃほとんど絶対にだめだと言っていい」(『カラマーゾフの兄弟』第5編4)

ちなみにヴェルシーロフは無神論者というわけではない。これもイワンと同様である。

で、アルカージイなのだが、そもそもアルカージイがヴェルシーロフを求めるのはスメルジャコフがイワンを『尊敬』していたのと似ているのではないかとも思う。相手に対して軽蔑や幻滅を抱くようになるのも同じだ。これは多分『遠いもの』だったヴェルシーロフやイワンが『近いもの』になって『顔』が見えるようになったからともいえる。

そのヴェルシーロフなのだが、私が印象に残ったシーンは、アルカージイの戸籍上の父であるマカール老人の葬儀が行われた日、彼から譲られた聖像を真っ二つに叩き折ってしまうしまうシーンである。その日は彼の内縁の妻(アルカージイの母親であり、ヴェルシーロフがマカール老人から寝とった)ソフィヤ(ソーニャ)の誕生日でもあった。彼はソフィアのために花束を持ってきたのだが、その花束に対して彼かこう語る。

「……まあ、そんなことより花束の話でもしよう。どうしてここまで持ってこれたのか―—自分でもふしぎでならんのだよ。わしは途中で三度ほどこれを雪の上に投げすてて、踏みにじってしまおうと思った

「どうにもがまんがならぬほどだった。わしを哀れんでくれ、ソーニャ、わしのかわいそうな頭を。なぜそうしてやりたかったか、これがあんまり美しすぎるからだ。この世のどんなものでも、花より美しいものがあろうか? わしが花束を持って歩いている、どころがまわりは雪と厳寒(マローズ)だ。わがロシアの厳寒と花――なんという極端な矛盾だ! わしは、しかし、それを考えたのではない。ただ美しいから、踏みにじってやりたかったのだ」(第三部第9章)

彼は言う。「わしは二つに分裂してゆくような気がしてならんのだよ」と。

「わしはある医師を知っていたが、彼は父親の葬式に、だしぬけに口笛を吹きだした。たしかに、わしが今日葬式に行くことを恐れたのは、きっとだしぬけに口笛を吹きだすか、あるいは大声で笑いだすにちがいないという考えが、どういうわけか急に頭に来たからだよ。あの不幸な医師みたいな、しかも彼はあまりいい死にざまはしなかった……それにしても、まったく、どうしてかわからんが、今日はどうもこの医師のことを思い出されてならんのだよ。頭にこびりついて、はなれんのだよ。そら、ソーニャ、わしはまたこの聖像をとり上げただろう(彼は聖像を手に取って、くるくるまわした)、そしてどういうものか、今、すぐに、これを暖炉に、そらそこの角に叩きつけたくてならんのだよ。そしたらきっと真っ二つに割れると思うな―—ちょうど真っ二つに」(同)

もっとも彼がやってきたのは聖像をたたき割るためではなく、自身が『守護天使』と呼ぶソフィヤに別れを告げるためであった。

「信じてくれ、ソーニャ、わしは今天使としておまえのところへ来たのだよ、決して敵だと思ってきたのではない。おまえがわしにとってどんな敵だというのだ、敵であるわけがないじゃないか! この聖像を割るために来たなどと思わないでくれ、だが、わかるかい、ソーニャ、それでもわしは割りたいのだよ……」

そうして彼はその通りのことをしてしまうのだ。タイル張りの暖炉の角に力まかせに聖像を叩きつけたのである。聖像は真っ二つに割れた。

「これをそういう意味にとらんでくれ、ソーニャ、わしはマカールの遺志を破ったのじゃない、ただ割ってみたかっただけなのだ……やはりおまえのもとに戻ってくるよ、おまえは最後の天使だ! だがしかし、比喩ととってくれてもかまわない、どうせこれはこうならなければならなかったのだ……」

引用しながら思ったのだが、このヴェルシーロフの言葉、『みやこ』で別れ際に弟のアリョーシャに対するイワンの台詞に似ている。

「すべて終ったし、何もかも話しつくした、そうだろう? その代り俺の方からも一つ約束しておくよ。三十近くなって俺が《杯を床に叩きつけ》たくなったら、お前がどこにいようと、もう一度お前と話すために帰ってくる……たとえアメリカからでもね、これだけは承知しておいてくれ。そのためにわざわざ帰ってくるさ。その頃のお前を眺めるのも、実に興味深いだろうからな。そのころお前はどんなふうになっているだろう? どうだ、かなり厳粛な約束だろうが」(『カラマーゾフの兄弟』第5編5)

それはともかくとして、この『聖像真っ二つ事件』について考えてみたい。比喩として考えれば二つに割れた聖像がヴェルシーロフの心の分裂を現しているともいえる。その二つに分裂した心とは『肯定と否定』『聖と俗』『光と闇』『正と負』……とまあいろいろな言葉え言い表せられるだろう。これはイワンも同じと言える。やはり彼はフョードルと言うよりイワンに近いのだ。(言うなればソフィヤはヴェルシーロフにとってのアリョーシャ的存在と言える)フョードルも二人目の妻ソフィヤ(イワンとアリョーシャの母親)が所有していた聖母マリアの聖像に唾を吐きかけたことがあった(同第3編8)。

では彼が聖像を叩き割った理由とは何だろうか。彼自身は決して無神論者というわけではないし、マカール老人のことを憎んでいたわけでもない。彼を頭から否定したわけでもない。(マカール老人については次回の記事で取り上げたい)
それはヴェルシーロフが『美しい花』を『踏みにじりたい』と思った理由と同じではないかとおもう。

「そうだな、何か立派なものを踏みにじりたい、でなければあなたの言ったような、火をつけてみたいという欲求でしょうね。これも往々にしてあるもんですよ」(同第11編3)

カラマーゾフの兄弟』にて『家に火をつけてみたい』と言った少女、リーザに対するアリョーシャの返答だが、ヴェルシーロフもそうだったのではないかと思われる。それは『立派なもの』『美しいもの』を『踏みにじりたい』という人間が誰しも持つ悪魔的な欲求に取り付かれたと考えられるのだ。だから彼は繰り返し『ただ割ってみたかった』と言ったのだろう。しかしその欲求を満たしたヴェルシーロフに満足感はなく、むしろ逆の反応が現れたのだった。

彼は不意にわたしたちを振向いた、とその青白い顔がさっと真っ赤になった、というよりはほとんどどす黒くなった、そして顔中の筋肉が細かくふるえだした。(『未成年』第三部第9章)

と、思いがけずにヴェルシーロフ語り(?)みたいになってしまったが、次回はアルカージイの戸籍上の父、マカール老人についてのことや、私の最推し(!)となったタチヤナ・パーヴロヴナについても語りたいと思う。