月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

それぞれの『父親殺し』

「お互いにしらを切りやがって。嘘つきめ! だれだって父親の死を望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いをしているだけさ……父親殺しがなかったら、あいつらはみんな腹を立てて、ご機嫌斜めで家へ帰ることだろうよ……とんだ見世物さ!『パンと見世物』か。もっとも俺だって立派なもんだ! 水がありませんか、飲ませてください、おねがいだから!」(第12編)

ミーチャの裁判にて、裁判の傍聴席に向かって言い放つイワン。このイワンのシーンは鬼気迫るものがる。個人的に私が好きなシーンの一つである。

カラマーゾフの兄弟』のテーマは『父親殺し』とされていることが多い。確かに事件として起こるのはカラマーゾフ家の父親フョードルの殺害だ。この『父親殺し』については様々な考察がされているし、ドストエフスキー文学の象徴みたいな言われ方もされる。では一体『父親殺しとは何なのだろうか。
『犯人』スメルジャコフにとっての『父親殺し』とは、自身を『スメルジャーシチャヤの父なし子』として生まれさせたことへの、自身の運命と出自に対する反逆と言えるものであった。イワンは帰郷後から父親に対する軽蔑と嫌悪を次第に募らせ、瞬時殺意を抱くまでに至り、スメルジャコフに『許可』を与えてしまった(というかスメルジャコフによって『許可』を与えるように仕向けられたといえる)。ミーチャは結果的にフョードルを殺さなかったが、母親の遺産とグルーシェニカをめぐる『毒蛇同士の食い合い』を行い、スメルジャコフに色々と仕込まれて『父親殺し』を決行しかけた。アリョーシャの場合は悲劇を止めることができなかった。彼はゾシマ長老の死後に起きた腐臭事件で絶望し、グルーシェニカから与えられた『一本の葱』で復活した。しかしラキーチンと別れた後で修道院に戻らず、カラマーゾフ家の屋敷に向かっていれば『父親殺し』が防げた可能性はある。(ただそうなると『ガリラヤのカナ』の夢や大地への接吻はなかったし、今後アリョーシャが俗世で『実行的な愛』を行うためには『ガリラヤのカナ』の夢を見させ、や大地への接吻を行うことのほうが重要だったのかなとも思う)

だがイワンが言うには「あいつらは親父を殺したくせに、びっくりしたふりをしてやがるんだ!」(同)つまり『父親殺し』の罪は『犯人』スメルジャコフやイワン自身、或いはカラマーゾフ家の全員にとどまらないことを指していたのである。

これで思い出されるのは、裁判前日のアリョーシャとリーザのやり取りである。ここで『父親殺し』のことが語られていいる。

「あたし、自分を台無しにしたいの。この町にいる男の子で、レールの間に伏せていた子がいるんですってね。幸せな子だわ! だってね、今あなたのお兄さまは父親殺しの罪で裁かれようとしているでしょう? ところがみんなは、父親殺しという点が気に入っているのよ
「父親殺しという点が気に入っている、ですって?」
「そうよ、みんな気に入っているわ! 恐ろしいことだなんて、だれもが言っているけど、内心ではひどく気に入っているのよ。あたしなんか真っ先に気に入ったわ」(第11編3)

この直前のやり取りは以下のものだった。

人間には犯罪を好む瞬間がありますからね」アリョーシャが考え込むように言った。
「そう、そうよ! あたしの考えをぴたりと言ってくださったわ。人間は犯罪が好きなのよ。だれだって好きなんだわ。そういう《瞬間》があるどころか、いつだって好きなのよ。ねえ、このことになると、まるでその昔みんなで嘘をつこうと申し合わせて、それ以来ずっと嘘をついているみたいね。悪事を憎むなんてだれもが言うけれど、内心ではだれだって好きなんだわ」(同)

法廷でイワンが傍聴席に向かって言い放った言葉とまるで同じではないだろうか
ここでいう『犯罪を好む』というのは直接自身が犯罪に手を染めることだけにとどまらないだろう。何か恐ろしい事件が起きれば「怖いですねー」とか言いながら内心はそれ自体を娯楽として楽しむし、それが起きることを期待する。ワイドショーでは毎日凄惨な事件やスキャンダルが取り上げられることが多いが、何も関係ない第三者にしてみればそういった事件やスキャンダル自体が『パンと見世物』だ。事故であっても明らかなヒューマンエラーが強ければ強いほど人は興味を惹かれるし、自殺もたとえばその背景にあるものがいじめやパワハラといったものなら興味を集めやすいし。病死とされた死も『何者かに殺されたのではないか』という『犯罪』を見出したがる。陰謀論が尽きないのもそういう『犯罪を好む』ことから起きているのかもしれない。

で、父親殺しの話の戻るが、父親を殺した相手が実の息子とただの召使、どちらが興味をひかれやすいかをちょっと考えてみたい。この場合、明らかに前者の方がインパクトがあるだろう。ミーチャとフョードルという『毒蛇同士の食い合い』があったからなおさらだ。しかもフョードルという男の評判は世間的には好いものとは言い難い。この『毒蛇同士の食い合い』の先に、人々が『父親殺し』という『犯罪』が起ることを期待していたのだ。事実この『父親殺し』の事件は作中ではロシア中が注目した事件とされている。イワンが法廷で暴露したのも、リーザがアリョーシャに語ったのも、そういった『パンと見世物』としての『犯罪を好む』人たちの、いわば人間の本質というか原罪性を暴き出したものと言える。これは『天使』アリョーシャも理解していることではあった。

一週間後に彼は死んだ。町じゅうの人が彼の柩を墓地まで送った。司祭長がまごころのこもった弔辞を述べた。だれもが彼の人生を断ち切った恐ろしい病気を嘆き悲しんだ。だが、葬儀を終えると、町じゅうがわたしを白い目で見るようになり、自分の家に招ずることさえやめた。もっとも、最初はごくわずかだったが、彼の自白の真実性を信ずる者もいて、その数はしだいに増えていき、わたしを訪ねてきては、たいそうな好奇心と嬉しさを示しながら、あれこれを質問するようになった。それというのも、人間は正しい人の堕落と恥辱を好むからである。(第6編2D)

若ゾシマのもとを訪れた『神秘的な客』ミハイルは、殺人を犯したことを14年間隠し通してきた。しかし『生ける神』の手に落ちていたことを気づいたミハイルは、ついにその罪を自身の誕生パーティーの場で告白した。このミハイルが犯した『犯罪』もまた、人々にとっては『正しい人の堕落と恥辱』という『パンと見世物』だったのである。っそしてミハイルを踏襲するように『正しい人の堕落と恥辱』は亡きゾシマ長老にも及んだ。死んでから一日もたっていないのに遺体から腐臭が出たのである。(これについてはアリョーシャの考察も併せてまた後日記事を書きたい)

そういうわけで『父親殺し』の罪はだれにあるのか?と問われた場合『傍聴人を含めた全員』だと言えるだろう。何故なら『正しきものの堕落と恥辱を好む』人々は『パンと見世物』として『犯罪を好』んでいたからである。そしてゾシマ長老やマルケルの言葉を借りれば各人物が『すべてに対して罪がある』からだ。

おまけとして冒頭に引用したイワンの台詞をちょっと言い換えてみたい。

「お互いにしらを切りやがって。嘘つきめ! だれだって心正しき人の堕落と恥辱を望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いをしているだけさ……堕落と恥辱がなかったら、あいつらはみんな腹を立てて、ご機嫌斜めで家へ帰ることだろうよ……とんだ見世物さ!『パンと見世物』か。もっとも俺だって立派なもんだ! 水がありませんか、飲ませてください、おねがいだから!」

もう一つ

「お互いにしらを切りやがって。嘘つきめ! だれだって皇帝殺しを望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いをしているだけさ……皇帝殺しがなかったら、あいつらはみんな腹を立てて、ご機嫌斜めで家へ帰ることだろうよ……とんだ見世物さ!『パンと見世物』か。もっとも俺だって立派なもんだ! 水がありませんか、飲ませてください、おねがいだから!」

 『父親の死』と『父親殺し』の部分を言い換えてみるといろいろとあてはまるものがありそうである。