月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

アリョーシャの『スメルジャコフ犯人説』について

アリョーシャがフョードル殺害の犯人についてどう思っているかを知らせるのは「あなたじゃない」(第11編5)から遡ること二か月前、イワンがモスクワから戻ってきたときのことである。

この町では最初にアリョーシャに会ったが、話してみて、相手がミーチャを疑おうとさえ思わず、犯人としてずばりスメルジャコフを名ざし、それがこの町の人たちの意見に真っ向から反するものだったことに、ひどくおどろいた。(第11編6)

更に、

が、それでも一つだけふしぎなことがあった。ほかでもない、アリョーシャが頑なに、殺したのはドミートリイではなく、《十中八、九》スメルジャコフだと主張しつづけていることだった。イワンはかねがね、アリョーシャの意見が自分にとって大切なものであることを感じていたので、今度は非常に不審でならなかった。また、アリョーシャが彼とはミーチャの話をしようとせず、自分からは決して切りださずに、イワンの質問に答えるだけなのも、ふしぎだった。(同)

アリョーシャは犯人をミーチャではなくスメルジャコフだと主張していた。その理由は兄、ミーチャの顔だった。

「兄ドミートリイの言葉から、名ざししたのです。まだ尋問を受ける前に、兄の逮捕の際の模様や、そのときに兄自身がスメルジャコフを名ざししていたことなどをきいておりましたから。僕は兄が無実であることを、心から信じています。だから、殺したのが兄でないとすれば……」
「スメルジャコフですか? なぜ、スメルジャコフに決まっているんです? それに、どうしてあなたは、兄の無実を確信したんですか?」
「兄を信ぜずにはいられないのです。兄が僕に嘘をつかぬことを知っているのです。兄の顔を見て、嘘をついていないことがわかりました」
「顔だけですか? あなたの証拠はそれだけなんですね?」
「ほかに証拠はありません」
「すると、スメルジャコフ有罪説も、やはり兄上の言葉と顔の表情のほかには、ごく些細な証拠にももとづいていないわけですね?」
「ええ、ほかに証拠はありません」(第12編2)

 客観的に見れば、アリョーシャの論法は支離滅裂もいいところだろう。何せミーチャの無罪もスメルジャコフの有罪も証拠となるものは、兄ミーチャの『顔』なのだから。これではイッポリートに突っ込まれるのも無理もないだろう。

「次に下の弟は先ほどみずから、スメルジャコフ有罪説を裏付ける事実は、ごく些細な者さえ、まったくないうえん、自分はそう結論したのは単に被告自身の言葉と、《顔の表情》からにすぎないと、われわれに言明いたしました。そう、この由々しい証言を、被告の弟は先ほど二度までも口にしたのであります」(第12編8)

もはや最初からアリョーシャの負けは決まっているようなものである。これだけ抜け出すと、アリョーシャはイッポリートに完全に論破されているように感じられることだろう。信仰のアリョーシャと理論派のイッポリートでは、アリョーシャの分が悪いのは当たり前だ……と思われるかもしれない。更にミーチャの顔だけでスメルジャコフを犯人だと確信しているという事実は「アリョーシャはスメルジャコフに冷淡」だという論拠にもなっている。何の証拠もないのにスメルジャコフを犯人だと決めつけている、とそんな印象を受ける人も多いかもしれない。

しかし、本当にアリョーシャは『些細な証拠』すら用意できなかったのか。と言われると疑問が残る。何故なら決定的なものはともかくとして、彼にはいくつかでスメルジャコフ犯人説を証言できる材料があるからだ。

大きなものとしてはスメルジャコフが残した遺書だろう。『だれにも罪を着せぬため、自己の意志によってすすんで生命を絶つ』(第11編10)。これはいかようにも解釈が可能ではあるが、この遺書を最初に読んだのは、マリアから知らせを受けて現場に駆け付けたアリョーシャである。スメルジャコフを犯人だと確信するアリョーシャは「これこそがスメルジャコフが犯人であるという証拠です」と遺書を『証拠品』と言い張ることができたはずだ。ところがアリョーシャは、警察署長の下へ行く際、遺書をそのまままテーブルの上に置いて行ってしまうのだ。更に裁判の場で、アリョーシャがスメルジャコフの遺書について言及した形跡が見当たらないのである。

もう一つは事件の前日、アリョーシャが立ち聞きしたスメルジャコフとマリアの会話だ。

「でもあの人(イワン)はわたしのことをいやなにおいをたてる下男なんて言ったんですからね。あの人は、わたしが謀反を起しかねないと思ってるんでさあ。とんだ誤解ですよ。わたしはまとまった金さえ懐にしてりゃ、とうの昔にこんなところにいませんよ。ドミートリイ・フョードロウィチなんぞ、品行だって、頭の程度だって、素寒貧ぶりだって、どんな下男にも劣るほどだし、何一つできやしないのに、それでもみんなから敬われてますものね。そりゃわたしは一介の田舎コックでしかないけれど、運さえ向けばモスクワのペトロフカ通りでカフェ・レストランぐらい開いて見せまさあ。だって、わたしの料理は別格ですからね、外国人を除けばモスクワでだって、ただの一人もあんな特別な料理を出せる人間はいやしませんよ。ところがドミートリイ・フョードロウィチは文なしのおけらのくせに、あの人が決闘を申し込めば、いちばん立派な伯爵家の御曹子でも応ずるんですからね、いったいあの人のどこがわたしより偉いっていうんです? あの人がわたしなんぞととは比較にならぬぐらい、ずっとばかだからですよ。何の役にも立たぬことに、すごい大金を湯水のように使ったりして」(第5編2) 

 自分が『尊敬』しているはずのイワンに対してもだが、イワンに対して以上にミーチャをけちょんけちょんに貶すスメルジャコフ。更に「まとまった金さえ懐にしてりゃ」と金を欲しがる動機も口にする。つまりこのマリアの会話だけで、スメルジャコフがフョードルを殺害し金を盗み、ミーチャに無実の罪を着せる動機の『裏付け』となり、イッポリートの言う『些細な証拠』に十分なりえるはずだ。。ところがアリョーシャがこれらのことを証言した形跡はない。イッポリートに論破されてしまうほど証拠が弱いからだろうか?  しかし遺書のことも、マリアとスメルジャコフの会話も、少なくとも『兄の顔』よりは『証拠』になりうるはずである。後者に至ってはマリアという証人もいるのだ。或いはアリョーシャが忘れていただけなのだろうか?

アリョーシャの奇妙さはこれだけではない。

「いったいどういう材料があなたのお考えを支配して、兄上の無実に対する、いや、それどころか、すでに予審でずばり指摘なさった他の人物の有罪に対する決定的な確信に立ちいらせたのですか?」(第12編2)

この質問に対するアリョーシャの回答は、こうだ。

「予審では僕は質問に答えただけです」アリョーシャは低い声で冷静に言った。「自分からスメルジャコフを告発したわけじゃありません」(同) 

 

また、アリョーシャが彼とはミーチャの話をしようとせず、自分からは決して切りださずに、イワンの質問に答えるだけなのも、ふしぎだった。(第11編6)

アリョーシャはスメルジャコフを犯人だと確信し、主張している。しかし、これらはすべて相手の質問に答える形でのみなのだ。
ここで見えてくるものは、アリョーシャのこういう姿勢だろう。

自分は人々の裁判にはなりたくない、人の批判なぞするのはいやだし、どんなことがあっても批判したりしない、と告げ、感じ取らせるような何がか彼にはあった(そして、これはその後、終生を通じてだった)。(第1編4)

また、彼自身が編纂した『今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より』でもこんなゾシマ長老の言葉を書き記している。

人はだれの審判者にもなりえぬことを、特に心に留めておくがよい。なぜなら当の審判者自身が、自分も目の前に立っている者と同じく罪人であり、目の前に立っている者の罪に対してだれよりも責任があるということを自覚せぬかぎり、この地上で罪人を裁くものはありえないからだ。それを理解した上なら、審判者にもなりえよう。一見いかに不条理であろうと、これは真実である。なぜなら、もし自分が正しかったのであれば、目の前に立っている罪人も存在せずにすんだかもしれないからだ。(第6編H)

 アリョーシャは確かにスメルジャコフを犯人だと確信していた。しかし『犯人』スメルジャコフを非難したり裁いたりする様子は、少なくとも『カラマーゾフの兄弟』本編を読む限りでは見受けられなかった。つまり彼は、兄を無実の罪に陥れた犯人スメルジャコフに対しても『自分は人々の裁判にはなりたくない、人の批判なぞするのはいやだし、どんなことがあっても批判したりしない』というスタンスであったと考えられるだのだ。そういうわけで「スメルジャコフ犯人説を唱えているから」からといって「アリョーシャはスメルジャコフに冷たい」とは言えない。

じゃあエピローグで「殺したのは召使で、兄は無実ですよ」と言った件についてはどうなるんだと言われそうだが、これもあくまでコーリャの質問に対する返答でしかないことは言っておきたい。

「お兄さんは無実なんですか、それとも罪を犯したんですか? お父さんを殺したのは、お兄さんですか、それとも召使なんですか? あなたのおっしゃることをそのまま信じます。僕はそればかり考えて、四晩も眠れずにいるんです」(エピローグ3)

おそらくコーリャから聞かれなれば、アリョーシャは事件について何も言わなかったのではないだろうか。アリョーシャの心の中でも一連の出来事は、まだこの時点では整理ができていなかったのではないかと思うのである。現にコーリャの質問に対するアリョーシャの返答は、短い『事実』を簡潔に述べるにとどまっているのである。
もっとも「スメルジャコフを兄と呼ばず召使と言っていることが問題なのだ」と言われるかもしれないが、そもそもスメルジャコフはフョードルの子供だと明言されてはいない。いずれにせよスメルジャコフの出自はかなり複雑なものであり、子供たちに聞かせるにはあまりにも闇が深すぎるのだ。それに「殺したのは兄で、兄は無実ですよ」などと言ったら読者もコーリャも間違いなく混乱するだろう。

 というわけでやや脱線しつつアリョーシャの『スメルジャコフ犯人説』と彼の『犯人』スメルジャコフに対する姿勢についてを考察してみた。繰り返すが、アリョーシャは父を殺し、兄を無実の罪に陥れたスメルジャコフを『非難』していない。それは彼がスメルジャコフに無関心だからとか冷たいからとかではなく、基本は『人の批判なぞするのはいやだし、どんなことがあっても批判したりしない』という彼自身の姿勢によるもだと考えられる。また、事件後のアリョーシャとスメルジャコフがマリアを介して交流をしていたのではないか、或いはアリョーシャがスメルジャコフに何らかの形で関わっていた可能性についても、そのうち記事を書いていきたい。