月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

ミーチャと『空想的な愛』

『他人は変えられないが自分は変えられるという言葉がある。それはある意味ではその通りであるがこの『自分を変える』という行為もまた困難を伴うものである。簡単に自分を変えることができれば苦労はしないし、変れない駄目な人間なんだと思い悩む人も少ないだろう。それゆえに『人は簡単には変れない』という言葉もあるのだ。

でその『人は簡単には変われない』という事実を象徴していると思われるのが『カラマーゾフの兄弟』の長男、ドミートリイ・カラマーゾフであると私は思う。

まず私がミーチャに対して上記のことを思った理由について述べていきたい。彼はグルーシェニカと母親の遺産を巡って父フォードルと対立しており、婚約者カテリーナから貰った三千ルーブルをグルーシェニカのために使いこんでしまい(実際は半分取っておいたのだが)。この三千ルーブルという大金を得るためにミーチャは様々な場所をめぐるが結局得られたものは何もなく、自身の怒りと憎しみの矛先はついにフョードルへ向かうことになった。彼はグルーシェニカの侍女フェーニャの家に寄った折に置いてあった杵を掴んでカラマーゾフ屋敷に向かった。しかし彼はフョードルの驚いた顔を見て殺害を思いとどまり、そのまま逃走しようとするが、その様子をフョードルの従僕であるグリゴーリイに見られてしまい、彼に捕まる、そして持っていた杵でグリゴーリイの頭を殴って大怪我を負わせてしまうのだ。意識不明となったグリゴーリイを見て人を殺してしまったと思い込んだミーチャは自殺を考えるが、グルーシェニカに一目会いたいと願いトロイカを飛ばして彼女に会いに行った。この辺りの件は『カラマーゾフの兄弟』の名シーンの一つである。ミーチャが持っていた残りの1500ルーブルによりモークロエで盛大な宴が開かれ、ミーチャとグルーシェニカは晴れて結ばれ、めでたしめでたし……ということにはならなかった。フョードルを殺害した容疑者として、警察がミーチャを追ってきた。彼は誤認逮捕され、無実を再三主張する者の。予審と裁判を経て有罪となってしまうのだ。

そんな彼は、ある時《童》の夢を見る。

彼はどこか曠野を馬車で走っている。ずっと以前に勤務していた土地だ。みぞれの降る中を、二頭立ての荷馬車で百姓が彼を運んでゆく。十一月初め、ミーチャは寒いような気がする。びしょびしょした大粒の雪が降っており、地面に落ちると、すぐ解ける。(中略)と、近くに部落があり、黒い、ひどく真っ黒けな百姓家が何軒も見える。ところが、それらの百姓家の半分ぐらいは焼失して、黒焦げの柱だけが突っ立っているのだ。部落の入口の道ばたに女たちが、大勢の百姓女たちがずっと一列に並んでおり、どれもみな痩せおとろえて、何やら土気色の顔ばかりだ。特に、いちばん端にいる背の高い、骨張った女は、四十ぐらいに見えるが、あるいはやっと二十歳ぐらいかもしれない。痩せた長い顔の女で、胸の中で赤ん坊が泣き叫んでいる。おそらく彼女の乳房はすっかりしなびて、一滴の乳も出ないのだろう。赤ん坊はむずがり、泣き叫んで、寒さのためにすっかり紫色になった手を、固く握りしめている。(第9編)

焼けた家々とやせ細った女、そして泣き叫ぶ《童》。その様子を見たミーチャは馭者に質問をぶつけつづける。

「教えてくれよ。なぜ焼け出された母親たちがああして立っているんだい。なぜあの人たちは貧乏なんだ。なぜ童はあんなにかわいそうなんだ。なぜこんな裸の曠野があるんだ。どうしてあの女たちは抱き合って接吻を交わさないんだ。なぜ喜びの歌をうたわないんだ。なぜ不幸な災難のために、あんなにどすぐろくなってしまったんだ。なぜ童に乳をやらないんだ?」(同)

そうして彼の中に『今までかつてなかったある種の感動が心に湧き起る』ようになる。

もう二度と童が泣かずにすむよう、今この瞬間からもだれの目にもまったく涙なぞ見られぬようにするため、今すぐ、何が何でも、カラマーゾフ流の強引さで、あとに延ばしたりすることなく今すぐに、みんたのために何かしてやりたくてならない。 
「あたしもいっしょよ。これからはあなたを見棄てはしない。一生あなたといっしょに行くわ」感情のこもったやさしいグルーシェニカの言葉が、すぐ耳もとできこえる。とたんに心が燃えあがり、何かの光をめざして突きすすむ。生きていたい、生きていたい、よび招くその新しい光に向って、何かの道をどこまでも歩きつづけていきたい、それもなるべく早く、一刻も早く、今すぐに、たった今からだ!(同)

 アリョーシャのガリラヤのカナの夢(第7編4)を思わせる、ミーチャの『回心』劇である。(と、ここで思ったことがあるのだが、イワンにはこういう『心が燃えあがる』夢を見るという『回心』体験が存在しない。かろうじてイエスにキスをされた大審問官の胸が燃えあがったぐらいか。或いは『プロとコントラ』で別れのアリョーシャのキスがそれかもしれない)ミーチャはこの《童》の夢以降、無実の罪を受け入れることを決意する。そのことを、裁判の前日、面会に来たアリョーシャにも語るのだ。

「『なぜ童はみじめなんだ?』これはあの瞬間、俺にとって予言だったんだよ! 俺は《童》のために行くのさ。なぜって、われわれはみんなすべての人に対して罪があるんだからな。すべての《童》に対してな。なぜって、小さい子供もあれば、大きな子供もいるからさ。人間はみな、《童》なんだよ。俺はみんなの代りに行くんだ。だって、だれかがみんなの代りに行かなけりゃならないじゃないか。俺は親父を殺しやしないけど、それでも俺は行かねばならないんだ。引き受けるとも!」(第11編4)

 この無実の罪、或いはすべての人々の罪を背負うミーチャをイエス・キリストになぞらえる人も少なくないだろう。

ところが、彼はこの後、イワンからグルーシェニカを連れてアメリカに逃亡する計画を聞かされたことをアリョーシャに打ち明けた。

「だって、グルーシェニカなしに、俺は生きていけないからな! それに流刑地で彼女がどうやって俺に近づけてもらえるだろう? 流刑囚でも結婚させてくれるだろうか? イワンは駄目だというんだ。でもグルーシェニカがいなけりゃ、俺はつるはしを持って地の底で何をすりゃいい? そのつるはしで自分の頭を打ち割るぐらいが関の山じゃないか! だが一方、良心はどうなる? なにしろ苦しみから逃げ出すわけだからな! せっかく神のお告げがあったというのに、神のお告げを斥けることになるんだ。せっかく浄化の道があったのに、まわれ右しちまうんだからな」

無実の罪で20年も不自由な生活を強いられることになるだから、ミーチャがこういった『弱音』を吐くのも無理もないだろう。ちなみにミーチャは『流刑囚でも結婚させてくれるだろうか(或いは『結婚させてくれるだろうか』)』という言葉をアリョーシャの前で4回も口にしている。彼にとってグルーシェニカの存在が『心の支え』であると同時に、彼女なしでは生きていけないというミーチャの人間的『弱さ』が露呈したと言える。

わたしはさる《思想のための闘士》を知っているが、その闘士がみずから話してくれたところによると、刑務所で煙草が吸えなくなったとき、あまりの苦しさに、わずかばかりの煙草をもらいたい一心から、もう少しで自分の《思想》を裏切りそうになったという。こんな人物が「人類のために戦うぞ」なぞといっているのだ。こんな人物がどこへおもむき、何をやれるというのだろう? おざなりの行為ならともかく、永く堪えぬくことはできまい。(第6編3E)

アリョーシャが編纂したゾシマ長老の言葉に出てくる《思想のための闘士》が、グルーシェニカと結婚できるか否かのために《十字架》を投げ出そうとするミーチャと重なる。なぜこうなるのかというと、この《思想のための闘士》にしろ、ミーチャにしろ、《空想的な愛》による行動と決意だからではないかと考えられる。

「空想の愛は、すぐに叶えられる手軽な功績や、みなにそれを見てもらうことを渇望する。また事実、一命さえ捧げるという境地にすら達することもあります、ただ。あまり永つづきせず、舞台でやるようになるべく早く成就して、みなに見てもらい、誉めそやしてもらいさえすればいい、というわけですな。ところが実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです。しかし、あらかじめ申し上げておきますがの、あなたのあらゆる努力にもかかわらず、目的にいっこうに近づかぬばかりか、かえって遠ざかっていくような気がするのを、恐怖の目で見つめるような、そんな瞬間でさえ、ほかならぬそういう瞬間にさえも、あなたはふいに目的を達成し、たえずあなたを愛して終始ひそかに導きつづけてこられた神の奇蹟的な力を、わが身にはっきりと見いだせるようになれるのです」(第2編4)

 ゾシマ長老が生前、ホフラコワ夫人に語ったことであるが、これはそっくりミーチャにも当てはまるだろう。というのも彼は《童》のために行く、人間はみな《童》といいつつ、特定の人物に対しては暴言を吐いたり、関心を持っていないように見えるからだ。

「それじゃ、あのいやなにおいをさせる犬畜生のことでも話せというのかい? あの人殺しのことでも? そのことなら、もうさんざ話したじゃないか。これ以上、あんないやなにおいをさせるスメルジャーシチャヤの倅の話なんぞ、ごめんだね。あんなやつは神さまが殺してくれるさ、今に見てろ。もう何も言うな!」(第11編4)

 前途の、アリョーシャに《童》の話をする前に彼はスメルジャコフに対してこんなことを口走っている。更に裁判でも、自ら命を絶ったスメルジャコフに対して暴言を浴びせた。

「畜生は畜生らしい死に方をするもんだ!」(第12編1)

これは当然裁判長にたしなめられた。時系列でいえば《童》の夢を見たあとのミーチャである。確かにミーチャはスメルジャコフに嵌められた格好であるので、彼に対して恨み言を言ったり良くない感情をいだいてもおかしくはない。しかしミーチャにしてみればスメルジャコフは《童》ではないというのだろうか。このあたりは『子供たちの受難』に怒りを抱くイワンが、スメルジャコフに対して『傷ついた自尊心』を見出した途端に嫌悪感を抱くようになったことを似通っている。結局ミーチャもイワンも、スメルジャコフとまともに向き合っていないのだ。

また、自身が怪我を負わせたグリゴーリイに対してはこうだ。

「虱を櫛でとってくれたことは、感謝していますし、僕の乱暴を赦してくれたことも、ありがたいと思います。この老人は一生を通じて正直者でしたし、親父に対してもプードル七百匹分くらい忠実でした
「被告は言葉を慎みなさい」裁判長がきびしく言った。
「わたしはプードルなんぞじゃありません」グリゴーリイも不平らしく言った。
「それじゃ、僕がプードルなんだ、この僕が!」ミーチャが叫んだ。「もし、侮辱的だとしたら、その言葉は自分で引き受けて、老人には赦しを乞います。僕は野獣だったし、彼に対しても冷酷でした! イソップ爺に対しても、やはり僕は冷酷でした」
「イソップとはだれです?」裁判長がふたたび厳しく注意した。
「あのピエロですよ……親父です、フョードルのことです」(第12編2)

ここで青年時代のゾシマ長老が、従僕アファーナシイに赦しを乞うた時と比べてみたい。

「アファーナシイ、僕はゆうべお前の顔を二度も殴った。赦しておくれ」わたしは言った。彼はおびえたよういびくりとして、眺めている。わたしはこれでもまだ足りないのだと気づいて、いきなり肩章をつけた服装のまま、彼の足もとの地べたに頬を擦り付け、「赦しておくれ!」と言った。ここにいたって彼はすっかり呆然とした。「中尉殿、旦那さま、どうしてそんな……わたしごとき者に……」そして突然、先ほどのわたしと同じように自分も泣きだし、両手で顔を覆って、窓の外に向くと、涙に全身を震わせた。(第6編2C)

また、自身が公衆の面前で侮辱したスネギリョフとその息子であるイリューシャに対しては関心を抱いていたかどうかは怪しいところだ。(イリューシャは赦しを乞うだめにミーチャにの手に泣きながら接吻した)その罪意識が《童》の夢となって現れたとみることもできるが、そこはきちんと向き合って《自覚》しなければ意味がないだろう……と思う。無意識の中に押しとどめておいていい問題ではないはずだ。『すべてに対して罪がある』――ミーチャはまだそれを表面的にしか理解できていない、或いは真の意味で自覚できていないと言えるだろう。

もし周囲の人々が敵意を持ち冷淡で、お前の言葉をきこうとしなかったら、彼らの前にひれ伏して、赦しを乞うがよい。なぜなら実際のところ、お前の言葉をきこうとしないのは、お前にも罪があるからである。(第6編3H)

アンチか? っていうぐらいミーチャに対して長々と『欠点』を書き連ねてしまったので、ちょっと彼についてフォローしておきたい。ミーチャは自分の『罪』について真の意味で自覚していないと書いたが、彼がその『罪』と真に向き合い、自覚するに至る可能性は十分にある。何故ならグルーシェニカをはじめ、彼には『味方』をしてくれる人物がかなり多いからだ。またミーチャが《童》の夢を見た理由も、彼が新たな道を行くための、彼の言葉で言えば『お告げ』であろう。彼の『新たな道』はまだ始まったばかりであり、『第一の小説』のミーチャはまだ『成長過程』にあると言えるのだ(これはイワンやアリョーシャについても同様である)。彼は一人の28歳の青年であり、兄弟の中で良くも悪くも市場人間味があるという点が彼の魅力だろう。彼がシベリアへ行くのかアメリカにわたるのかは定かではないが、『第二の小説』では真の意味で生まれ変わったミーチャがいたのかもしれない。