月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

『スメルジャーシチャヤの父なし子』

スメルジャコフは自身の出自に対してコンプレックスを抱いており、それが『神がなければすべては許される』という思想に本気で取り組み、フォードル殺害の動機につながった、というのが私の解釈である。スメルジャコフ自身もマリアに対してこんなことを言っているのだ。

「ごく小さい餓鬼のころからあんな運命じゃなかったら、わたしはもっといろいろなことができたでしょうね、もっと物知りになってましたよ。あいつはスメルジャーシチャヤの父なし子だから卑しい人物だ、なんて言うやつがいたら、わたしは決闘してピストルで撃ち殺してやりまさあわたしはモスクワにいたころにも、面と向かってそう言われたことがあるんです。グリゴーリイ・ワシーリエウィチのおかげで、ここから噂が伝わったんですよ。グリゴーリイ・ワシーリエウィチは、わたしが自分の誕生に対して反旗を翻している、なんて叱りますがね。『お前はあの女の子袋を引き裂いたんだぞ』なんていうんでさ。子袋なら子袋でもかまやしないけど、わたしはこの世にまるきり生れてこずにすむんだったら、腹の中にいるうちに自殺してしたかったですよ。市場に行きゃ、あの女は頭にしらくもができきていただの、背が一四〇ちびっとしかなかっただのと言われるし、あなたのおっ母さんだってああいうがさつな人だからわたしにそんな話をしますしね。世間のみんなが言うように、ごく普通にちょっとと言やあいいのに、なんだってちびっとなんて言うんです? あれはお涙頂戴式言い方をしたかったんでしょうけど、そんなのは言ってみりゃ、百姓の涙でしてね、それこそ百姓の感情でさあ。いったいロシアの百姓なんぞが、教養のある人間に匹敵するような感情をもてるっていうんですか? わたしゃ、ごく小さい餓鬼のころから《ちびっと》という言葉を聞くと、壁に頭でもぶつけたい気がしたもんですよ。わたしはロシア全体を憎んでいるんです、マリヤ・ゴンドーラチェヴナ」(第5編2) 

『スメルジャーシチャヤの父なし子』――スメルジャコフは物心ついたころからこういわれ続けていたのだろう。町を徘徊する神がかりの娘、リザヴェータが何者かに妊娠させられ、臨月夜にカラマーゾフ家の塀を乗り越え、その風呂場で産み落とされた子供。それがスメルジャコフだった。彼の父親は定かではないが、カラマーゾフ家の主、フョードルだというのがもっぱらの噂だった。
(※ところで以前の記事でも触れたが、『子袋を引き裂いた』ではなく『胎を開いた』(米川訳)のほうがグリゴーリイの人物像的にも『出自に対して反旗を翻している』という彼の言葉的にも適切だと思うんだけど、どうだろう。もっとも『子袋を引き裂いた』だろうと『胎を開いた』だろうとスメルジャコフが自分の出自を憎んでいることには変わりないだろうが……)
ともかくスメルジャコフはグリゴーリイとマルファに育てられたのだが「《およそ感謝の念を知らずに》育ち、いつも隅のほうから世間をうかがう、人見知りのはげしい少年になった」(第3編6)になった。そしてこんな恐ろしい遊びをするようになる。

少年時代には、猫を縛り首にして、そのあと葬式をするのが大好きだった。法衣のように見せるため、シーツを身にまとい、猫の死骸の上で香炉よろしく何かを振りまわしながら、歌をうたうのだった。(同)

この『猫の葬式ごっこ』について、スメルジャコフが日常的に虐待をされていたからという人もいれば、彼自身が持ち得ていたサディズムや精神異常の発露と見る人もいる。確かに後に彼は少年イリューシャを唆して犬のジューチカにピン入りのパンを飲ませたり、フョードルの頭をたたき割る殺人者になる。確かに実在したシリアルキラーの経歴についてみてると、多くは親に虐待され、動物を殺し、更に殺人へと発展してく場合も多い。元から人には言えないような異常性癖を持っているものもいる。スメルジャコフもそのパターンなのか。けれども『虐待』という面については私はやはり首をひねりたいし、彼を安易に『精神異常者』として片づけたくもない。

「俺たちを嫌ってやがんだよ、あの性悪め」グリゴーリイはマルファに言った。「誰のことも好いちゃいねえんだ。お前、それでも人間かよ」だしぬけに、彼はスメルジャコフに食ってかかった。「お前なんぞ、人間でねえわさ。お前は風呂場の湯気の中から湧いて出たんだ、それがお前さ……」あとでわかったことだが、スメルジャコフはこの言葉を絶対に許すことができなかったのだった。(第3編6)

確かにグリゴーリイは猫の葬式を取り押さえた後にスメルジャコフを鞭で打ったり、旧約聖書の最初の光問題で平手打ちもしたのだが『虐待』という点ではやっぱり違うと思うのである。というか本当に彼が日常的に『虐待』されていたのならば、標的はフョードルではなく真っ先にグリゴーリイに行くのではないか。いや、現実の殺人者の心理なんてわからないし「これはそもそもフィクションだから」と言われてしまえばそれまでだが。
さらにグリゴーリイの妻、マルファの存在が『虐待』説に疑問を抱かせるのである。

 このマルファという女は、決して愚かでないばかりか、ことによると夫より利口かもしれなかったし、少なくとも実生活の面では分別が豊かだったが、それでも結婚生活のいちばん最初から不平一つ、口答え一つせずに夫に従い、夫の精神的優越も認めて文句なしに尊敬していた。特筆すべきことに、二人はこれまでの一生、ごく必要な目先のこと以外は、互いに口をきかなかった。重々しく威厳のあるグリゴーリイが、自分の仕事や心配事はいつも一人で考えてくれるので、マルファはとうの昔から、自分の助言など必要ないのだと、きっぱり割りきっていた。自分の沈黙を夫が喜び、むしろそこに沈黙を認めてくれているのを、彼女は感じていた。彼は決して妻を殴ったりせず、後にも先にもたった一度、それも軽く殴ったことがあるだけだった。(第3編1)

スメルジャコフはマルファについて、のちにイワンにこう語っている。

「わたしは例の寝床に寝かしつけられました。衝立のかげに寝かされることはちゃんとわかっていたんです。わたしが病気になると、マルファはいつも寝る前に自分の部屋のあの衝立のかげに、わたしの寝床を作ってくれてしましたからね。あの人はわたしが生れたときからいつもやさしくしてくださっていたんです」(第11編7)

もしスメルジャコフが日常的に『虐待』をうけていたのならば、マルファが『わたしが生れたときからいつもやさしくしてくださっていた』のはあり得ないだろう。『いや、マルファが見てないところで行われていたんだ』或いは『グリゴーリイに虐待されいたからマルファが優しかったんだ』という反論が来るかもしれない。しかしそれならマルファもグリゴーリイからDVまがいのことを受けていそうなものである。確かにグリゴーリイがマルファを殴ったことはある。しかしそれは一回きりのことであり、彼はそれ以降妻を殴ることはなかったのだ。

ではスメルジャコフがゆがんだ理由とは何か。もう一度彼の言葉を見ていきたい。

「ごく小さい餓鬼のころからあんな運命じゃなかったら、わたしはもっといろいろなことができたでしょうね、もっと物知りになってましたよ。あいつはスメルジャーシチャヤの父なし子だから卑しい人物だ、なんて言うやつがいたら、わたしは決闘してピストルで撃ち殺してやりまさあ。」(第5編2)

彼の言う『あんな運命』とはまさに『スメルジャーシチャヤの父なし子』或いは『風呂の湯気から湧いて出た』という自身の出自に他ならないだろう。

たとえば幼い子供のわきを通るとき、腹立ちまぎれにこわい顔をして、汚い言葉を吐き捨てながら通り過ぎたとしよう。お前は子供に気づかなかったかもしれぬが、子供はお前を見たし、お前の罰当たりな醜い姿が無防備な幼い心に焼きついたかもしれない。お前は知らなかったかもしれぬが、もはやそのことによって子供の心にわるい種子を投じたのであり、おそらくその種子は育っていくことになるだろう。(第6編3G)

スメルジャコフの父親はフョードルだと世間では噂されていた。どんなにあらがっても『出自』というものは変えることができない。自身の出自に加え、世間の噂、或いは面と向かって言われた『スメルジャーシチャヤの父なし子』という言葉によってスメルジャコフの心に『わるい種子』が投じられ、その種子が育っていった末の『猫の葬式ごっこ』であり、ジューチカの事件であり、さらにフョードル殺害へと至ったのだと考えられるのだ。そういてイワンから教えられた『神がいなければすべては許される』は彼を『救う』ものであり、同時に自分自身を『滅ぼす』諸刃の剣でもあったのだ。

ちなみにだが、カラマーゾフ家の三兄弟の中でいちばんスメルジャコフに対して隔たりがあるのが実はミーチャだと私は思っている。ミーチャファンの方には申し訳ないが、彼はスメルジャコフに対して多くの暴言を吐いているのだ。例えばこんな具合に。

「それじゃ、あのいやなにおいをさせる犬畜生のことでも話せというのかい? あの人殺しのことでも? そのことなら、もうさんざ話したじゃないか。これ以上、あんないやなにおいをさせるスメルジャーシチャヤの倅の話なんぞ、ごめんだね。あんなやつは神さまが殺してくれるさ、今に見てろ。もう何も言うな!」(第11編4)

これは裁判前日、アリョーシャと面会した時のミーチャの台詞である。そして裁判の時スメルジャコフの自殺を知らされたときは、こうだ。

「畜生には畜生にふさわしい死に方があるのさ!」

もっともミーチャはスメルジャコフから無実の罪を着せられ、嵌められた立場なので、彼を憎んだり恨んだりする気持ちを持つことは致し方ない部分もあるだろう。だが実はミーチャは、スメルジャコフが犯人ではないと思っていたこともあったのだ。その理由について、彼は予審でこう語る。

「信念です。信念ですよ。なぜって、スメルジャコフはひどく卑しい根性の男で、腰抜けだからです。あいつは腰抜けなんてものじゃない、世界じゅうの臆病をよせ集めて、二本足で歩かせたような臆病の塊ですよ。あいつは雌鶏から生れたんだ。僕と話をしていても、僕が手もふりあげないというのに、殺しやしないかと、いつもびくびくしてるんですからね。あいつは僕の足もとにひざまづいて、泣いたんですよ。『脅さないでください』と文字どおり哀願しながら、僕のこの長靴に接吻したんです。『脅さないでください』とは、いったいなんて言葉ですか? 僕が小遣いまでやっていたのに。あいつは癲癇もちの、病気の雌鶏ですよ。頭も弱いし、あれなら八歳の子供でも殴り倒せまさあね。あれでも、根性があるんですかね? スメルジャコフじゃありませんよ。みなさん、それにあいつは金も好きじゃないし、僕がやっても全然受け取ろうとしないんですから……だいいち、あいつが親父を殺す理由がありますか? だって、もしかしたら、あいつは親父の息子かも、私生児かもしれないんですよ、それはご存じでしょう?」(第9編5)

 引用しながら「なんでこの人は余計なことしか言わないんだ」とつくづく思ったが、それはさておき、このくだりで気づいたのが、ミーチャがスメルジャコフを父フョードルの私生児かもしれない――つまり自分たちの異母兄弟かもしれないと認識していたことである。にもかかわらず、ミーチャはその『異母兄弟かもしれない』相手をことごとく下男として扱い『いやなにおいをさせるスメルジャーシチャヤの倅』と蔑み、自殺を知ってもその死を悼むどころか暴言を言い放った。一応小遣いや贈り物を与えたこともあったらしいが『兄から弟へ』ではなく『若旦那から下男へ』のものとしか読めない。「アリョーシャはスメルジャコフに『冷淡』ではない」と言い続けた私でも、正直スメルジャコフに対するミーチャの態度に関しては擁護不可能なので、誰かミーチャファンの方、このミーチャを擁護してあげてほしい。(スメルジャコフが靴に接吻した件を見て、ミーチャがスネギリョフを暴行した時、イリューシャが必死にミーチャの手に接吻してのを思い出してしまった。ところがミーチャがこの親子に関心を示したかどうかを本編から読み取ることが出来ない。なので『ミーチャはスネギリョフ親子に無関心』と言われたら私は擁護できない。嗚呼……)

ともかくスメルジャコフがミーチャを嵌めたのは、ミーチャのこういった面がかなり起因しているだろう。スメルジャコフ自身も、ミーチャに対しては非難を投げつけている。

「ドミートリイ・フョードロウィチなんぞ、品行だって、頭の程度だって、素寒貧ぶりだって、どんな下男にも劣るほどだし、何一つできやしないのに、それでもみんなから敬われてますものね。そりゃわたしは一介の田舎コックでしかないけれど、運さえ向けばモスクワのペトロフカ通りでカフェ・レストランぐらい開いて見せまさあ。だって、わたしの料理は別格ですからね、外国人を除けばモスクワでだって、ただの一人もあんな特別な料理を出せる人間はいやしませんよ。ところがドミートリイ・フョードロウィチは文なしのおけらのくせに、あの人が決闘を申し込めば、いちばん立派な伯爵家の御曹子でも応ずるんですからね、いったいあの人のどこがわたしより偉いっていうんです? あの人がわたしなんぞととは比較にならぬぐらい、ずっとばかだからですよ。何の役にも立たぬことに、すごい大金を湯水のように使ったりして」(第5編2)

 やはりスメルジャコフと三兄弟の間のなかでいちばん『溝』があるのがミーチャのようだ。イワンの場合は自分から『溝』を作ってしまった。『溝』がもっとも少ないのがアリョーシャだが、彼との『溝』はスメルジャコフ自身が作り出したものだ。いずれの『溝』も結局最後まで埋まることはなかった。

果たしてスメルジャコフは自身の出自を、運命を呪いながら死んでいったのか。そこに救いは見いだせなかったのか。それについては次回の記事で取り上げたいと思う(※あくまで予定です)。