月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

文脈

今回は『親切な人たち』の続きを書こうと思ったが、その前に自分なりに本を読むときに気を付けたいこと、考察や解釈をブログで書くときにきをつけいたいことをちょっと書いていきたい。余計な文書を挟んでしまうことを許していただきたい。

言うまでもないが、小説というのは文章のみで書かれた物語である。漫画やアニメならば絵と台詞だ。そして文章にしろ絵にしろ、あらゆる形で書かれた物語には動きというものがある。登場人物たちの言動は、それまで書かれていたことと線でつながっている(つながっていない場合もあるが)。もし登場人物がそれまでと違った言動を見せたりすることがあれば、そこまでに至るものをどんな形にしろ描写する必要があるだろう。

何が言いたいのかというと、小説にしろ漫画にしろアニメにしろ、作品を見るときは登場人物の台詞や一つのコマを切り取った『点』ではなく、その『点』までに至る流れ、『点』以降の流れ、つまり『線』を見ていくことが大事だということだ。この『線』は文脈であり、作品全体の流れである。作品というのは決して停滞しているわけではなく、常に動き続けている。その動きの中で、登場人物たちも様々な形で変化していく。わかりやすいのが主人公の成長、或いは逆に『闇落ち』というパターンだ。例えば気弱で臆病な主人公が様々な経験を経て精神的に強くなっていく、善良で純粋な主人公が大切な人を殺されて復讐者になる。この逆パターンもある。また何も変化がない、最初から最後まで一貫してぶれないように見える登場人物も、物語の中で何かしらの変化はあるはずだ。例えば全く笑顔を見せなかった人物が、仲間と交流することで笑顔を見せるようになる、という具合にである。もっともその『変化』がすべての読者に受け入れられるとは限らない。「以前の性格の方好き」「今の〇〇は偽善者っぽくて好きじゃない」という人もいるからだ。

※ついでに『闇落ち』というものに関して言いたいのだが、闇落ちさせるならさせるでいいのだけれど、そこに至るまでの『過程』または『何故』『どうして』がたとえ短くても描写されていることが個人的に重要だと思う。また『闇落ち』の度合いも重要だろう。まだ回心できるレベルなのか、それとももう後には引けないところまで来ているのか。これが描かれていないと単に意外性や奇をてらっただけの、安易なものになりかねないと私は思う。

とにかく作品も、作中の登場人物たちも常に動き続けている。そうなるとやはり重要なのが『文脈』という『線』を読み取ることにあるだろう。
例えば「お前は馬鹿か」「すみません」というセリフがあるとする。これだけでは何も判らないので、二人が上司と部下の関係だったとする。上司の性別はどうか。部下は男と男なのか、女と女なのか、男と女なのか、女と男なのか。また、年齢もどうだろう。年が変わらないのか、上司が年上なのか、もしかしたら上司のほうが若いのか。
また、二人の職業はどうか。世間一般の会社員なのか、警察組織や軍隊なのか、はたまた表に出ることがない極秘の組織なのか。
更に一体どういう場面で行われている会話なのか。例えば部下が無茶をして危うく命を落としかねなかった場合、上司は部下を心配して「お前は馬鹿か」と言った可能性がある。もしかしたら目に涙をにじませていたかもしれない。或いは部下がとんでもない失敗をし、責任を取る形で辞表を出してきたことに対する「お前は馬鹿か」かもしれない。はたまた部下があまりにも使えない、頭が悪すぎることに対する蔑みとしての「お前は馬鹿か」かもしれない。もっというと、異性同士の場合、部下が上司に結婚を申し込み、上司が「お前は馬鹿か」と言った可能性も考えられる。また部下の「すみません」は本気で反省しているのか、世話になった上司に対して申し訳ない気持ちでいるのか、はたまた口では「すみません」といいつつ内心では「こいつしねばいいのに」と考えているのか。

このように、台詞やコマと言った『点』のみを見ていくと、ありとあらゆるシチュエーションを想定することが可能になってくる。それはもはや無限であり、読み手はどこまでも創造の翼を働かせることが出来るだろう。だが実際はそうはならない。何故なら作品全体の流れという『線』が、そこに至るまでに描かれた『文脈』という『線』が、ある程度の方向性を決める、読み手を導いていくからだ。こうして読み手は『線』に沿って様々な物語の解釈をすることになる……将棋盤をひっくり返すように、書かれていたものをすべて「なかったことにする」ような読み方をしなければ、の話だが。

私はこのブログで『カラマーゾフの兄弟』の解釈や、自分なりの読書感想をを述べるとき、なるべく本文で書かれていることを引用するようにしている。その引用の仕方についても実は試行錯誤している。何故なら私自身が『点』のみを抜き出し『線』をないがしろにしてしまうような読み方をすることを恐れるからだ。また、私が自分の解釈に都合のいいように物語を捻じ曲げてしまうのではないかという恐れもある。とはいえすべての分を引用していたらきりがない。というわけでなるべく『点』のみにならないように、長めの『線』になるように、前後の文脈を損ねないように本文中から引用するようにしていきたいと思っているし、私自身『点』のみを読み取って『線』を見失わないようにしたい、と自戒を込めてこの記事を結びたい。