月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

『自分を励ましてくれるのは過去の自分だけ』

ある日、何気なしにテレビを見ていたら、某俳優がこんなことを言っていた。

「つらいことがあった時、自分を励ましてくれるのは過去の自分だけだよ」

うろ覚えではあるが、確かこんなことを言っていた。この言葉で思い出したのが、『カラマーゾフの兄弟』のエピローグにて、アリョーシャがイリューシャの石の前で少年たちに語っていたことである。

「これからの人生で僕たちの身に何が起ろうと、たとえ今後二十年会えなかろうと、僕たちはやはり、一人のかわいそうな少年を葬ったことをおぼえていましょう。その少年はかつては、おぼえているでしょう、あの橋のたもとで石をぶつけられていたのに、そのあとみんなにこれほど愛されたのです。立派な少年でした。父親の名誉とつらい屈辱を感じ取って、そのために立ち上がったのです。だからまず第一に、彼のことを一生忘れぬようにしましょう、みなさん。たとえ僕たちがどんなに大切な用事で忙しくても、どんなに偉くなっても、あるいはどれほど大きな不幸におちいっても、同じように、かつてここでみんなが心を合わせ、美しい善良な感情に結ばれて、実に素晴らしかったときがあったことを、そしてその感情が、あのかわいそうな少年に愛情を寄せている間、ことによると僕たちを実際以上に立派な人間にしたかもしれぬことを、決して忘れてはなりません」(エピローグ3)

 

「これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころにつくられたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく最良な教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作りあげるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです」(同) 

 

僕たちはわるい人間になるかもしれないし、わるい行いの前で踏みとどまることができないかもしれない。人間の涙を嘲笑うかもしれないし、ことによると、さっきコーリャが叫んだみたいに『僕はすべての人々のために苦しみたい』と言う人たちを、意地悪く嘲笑うようになるかもしれない。そんなことにはならないと思うけど、どんなに僕たちがわるい人間になったとしても、やはり、こうしてイリューシャを葬ったことや、最後の日々に僕たちが彼を愛したことや、今この石のそばでこうしていっしょに仲よく話したことなどを思い出すなら、仮に僕たちがそんな人間になっていたとしても、そのなかでいちばん冷酷な、いちばん嘲笑的な人間でさえ、やはり、今この瞬間に自分がどんなに善良で立派だったかを、心の中で笑ったりできないはずです! そればかりではなく、もしかすると、まさにその一つの思い出が大きな悪から彼を引きとめてくれ、彼は思い直して、『そうだ、僕はあのころ、善良で、大胆で、正直だった』と言うかもしれません。内心ひそかに苦笑することがあったとしても、それはかまわない。人間はしばしば善良で立派なものをあるからです。それは軽薄さが原因にすぎないのです。でもみなさん、保証してもいいけれど、その人は苦笑したとたん、すぐ心の中でこう言うはずです。『いや、苦笑なぞしてはいけないことをした。なぜって、こういうものを笑ってはいけないからだ』と」(同)

この演説は、イリューシャの石の前にてアリョーシャがイリューシャの『パパ、パパ、あいつはパパにひどい恥をかかせたんだね!』という叫びを思いだし、胸を打ち震えさせたことが契機となって語られたものだ。中指を骨に達するまで噛みつかれて以降イリューシャに寄り添いつづけ、更に『カラマーゾフの兄弟』本編にていろいろな経験をしてきたアリョーシャの演説には、彼自身が「小鳩たち」と読んだ少年たちを光へと導こうとする思いが込められているといっても過言ではない。

さて、このアリョーシャの演説でよく言われるのが『子供時代のすばらしい思い出』という点についてである。その『思い出』がたとえこの先どんな不幸に陥ったとしても、その人を救うというのだ。まさに「自分を救えるのは過去の自分だけ」なのである。
カラマーゾフの兄弟』本編内にて、その具体例がある。若き日のゾシマ長老の『回心』だ。彼を回心させたのは従卒アファーナシイを殴ったことも要因の一つであるが、兄マルケルの『思い出』があったからだ。

わたしはまだ若く、子供だったけれど、これらすべてが心にぬぐい切れぬ跡をとどめ、一つの感情が胸奥に秘められるようになった。それらはいずれ、一斉に立ちあがり、よびかけに呼応するに違いなかった。事実そのとおりのことが起ったのである。(第6編2A)

 

……そしてそのとき、兄マルケルを、そして死ぬ前に召使たちに言った兄の言葉を思い出したのだった。「おまえたちは優しくて親切だね。どうして僕に仕えてくれるんだい? 仕えてもらえるような値打ちが、僕にあるだろうか?――「そうだ、俺にそんな値打ちがあるだろうか?」突然わたしの頭にひらめいた。実際、何の値打ちがあってわたしは、ほかの人間に、わたしと同じように神がおのれに似せて創った人に、仕えてもらっているのだろう? 生れてはじめてこのとき、こんな疑問がわたしの頭に突き刺さった。「お母さん、僕の血潮である大事なお母さん、本当に人間はだれでも、あらゆる人あらゆるものに対して、すべての人の前に罪があるんです。人はそれを知らないだけですよ、知りさえすれば、すぐにでも楽園が生れるにちがいないんです!」ああ、果たしてこれが誤りであろうか、わたしは泣きながら思った。ことによると本当に、わたしはすべての人に対して、世界じゅうのだれよりも罪深く、いちばん罪深い人間かもしれない! こう思うと突然、いっさいの真実が、理性の光に照らされて目の前に現れた。(第6編2C)

これらのエピソードはアリョーシャが編纂した手記に収められており、子供時代の『思い出』の重要性については手記の後半にある説教や法話でも語られている。もしもマルケルの思い出がなければ、あのゾシマ長老はいなかったかもしれないのだ。『思い出』の重要性――これは兄マルケルからゾシマ長老、そしてアリョーシャを通じて少年たちへと結ばれていくのだ。

しかしこういう反論もあるだろう。「子供時代にそんな思い出がなかった人はどうすればいいのか?」と。しかしそれに対する答えは、もう本編の中に出ている。
「一本の葱」だ。
この寓話の中で、天使はへそ曲がりの女の善行を一つ探し当てた。それが、一本の葱を乞食に与えたというものである。これの日本バージョン(?)である芥川龍之介の「蜘蛛の糸」では、お釈迦様が地獄に落とされた男を救おうと蜘蛛の糸を垂らした理由は「蜘蛛を踏まなかったから」だ。葱にしろ蜘蛛にしろ、これらはほんの些細なことであり、おそらく普通にしていれば気にも留めないことかもしれない。結局女も男も地獄に落ちてしまったのだが、とにかく『子供時代の思い出』というのはまさに過去の自分から未来への自分へと渡される『一本の葱』と言ってもいいだろう。その葱に気づけるかどうかはあくまで自分次第ではある。そういうわけで「自分にはすばらしい思い出なんかない!」という人は本当にそうだったのか、自分が忘れているだけではないのか、と思い出してみるのもいいかもしれない。アリョーシャの言葉を借りれば、それがまさに『いつの日か僕たちの救いに役立ちうる』だろうからだ。

ついでにスメルジャコフについても取り上げておきたい。アリョーシャが『子供時代の思い出』の重要性を少年たちに語る一方で『虐げられてきたスメルジャコフにはすばらしい思い出など一つもない』と語る人が多い。これもまたアリョーシャがスメルジャコフに無関心である、アリョーシャはスメルジャコフの存在を忘れている、という論拠にもなっていたりする。

しかし本当にスメルジャコフには『すばらしい思い出』など一つもなかったのだろうか。というのも、イワンとの三度目の対面時、当のスメルジャコフ自身がこう語っているのである。

「わたしは例の寝床に寝かしつけられました。衝立のかげに寝かされることはちゃんとわかっていたんです。わたしが病気になると、マルファはいつも寝る前に自分の部屋のあの衝立のかげに、わたしの寝床を作ってくれてしましたからね。あの人はわたしが生れたときからいつもやさしくしてくださっていたんです」(第11編8)

たとえグリゴーリイが体罰を行っても、マルファは常にスメルジャコフに優しかった。スメルジャコフはマルファの愛情をちゃんと受けていたのである。一見ただスメルジャコフを虐待していただけに見えるグリゴーリイも、実際はスメルジャコフを愛していたことは以前の記事でも触れた。リザヴェータが自身の命と引き換えに産み落とした赤ん坊を抱き上げ、マルファの胸に押し当てながら言った彼の言葉を見ていきたい。

「神の御子であるみなし児は、すべての人にとって血縁というが、わしらにとってはなおさらのことだ。これは死んだうちの坊やが授けてくれたんだよ。これは悪魔の息子と信心深い娘との間に生まれた子供だ。育ててやれ、これからは泣くんじゃないぞ」(第3編2)

このエピソードを果たしてスメルジャコフが知っていたかどうかは不明だが、知ったとしても『悪魔の息子と信心深い娘との間に生まれた子供』という言葉のみに反応した可能性が高い。それほどまでにスメルジャコフは自身の出自を憎んでいたのだ。
更に――幼少時代ではないが――彼に愛情を注ぐ相手として、マルファやグリゴーリイに加えてマリアもいた。これはあくまでも個人的な解釈なのだが、スメルジャコフはフョードルを殺害してからの二か月――特にイワンとの二度目の対面を終えてからの一か月の間――『親切な人たち』から自分に注がれていた愛場や優しさといったものに改めて目を向けるに至ったのではないかと思う。そして赤ん坊だった「みなしご」スメルジャコフを「神の御子」「うちの坊やが授けてくれた」と言ったグリゴーリイのことや「生れたときからいつもやさしくしてくれた」マルファ。これらもアリョーシャの言う『すばらしい思い出』に他ならないだろう、と思うのだ。スメルジャコフと『親切な人たち』、彼の最期の一か月に関する考察はまた改めて記事を書きたいと思うが、とにかく彼が『だれからも愛情を注がれなかった』人間ではないことは改めて主張しておきたい。