月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』

以前BSPで放送されていた『フランケンシュタインの誘惑』という番組があった。この番組はロボトミー手術やスタンフォード監獄実験、ナパーム弾や核兵器といったものまで、科学史の『闇』を扱った番組だった。この番組で最後にナビゲーターが言う言葉がある。――『科学は、誘惑する』

原題は『フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス』。この作者がまだ当時18歳だというのに驚かされた。
タイトルは知っていたが中身は知らない。そんな名作を読むことを一昨年ぐらいから試みているので、この『フランケンシュタイン』もこういった理由で手に取った。訳は新潮文庫版の新訳である。

怪奇小説、ということでかなりホラーチックな内容かと思いきや(確かに展開はホラーではあるのだけれど)人間の業とか罪深さとか、或いは意図せず生まれてきた者の、それも醜くおぞましく、誰からも受け入れられない「怪物」の悲哀がそこには書かれていた。

おそらく他のレビューでも書かれているだろうがここでも触れておきたいのだが『フランケンシュタイン』というのは作中に登場する『怪物』の名前ではなく『怪物』を作った青年、ヴィクター・フランケンシュタインのことである。このヴィクター・フランケンシュタイン(以下ヴィクター)がまだ二十代の若者、それも大学生であることに驚いたのだ。彼は決してマッドサイエンティストではなかった。生命や人体の在り方に興味を抱く一人の若者だったのだ。ところが、彼は人が越えてはならない一線を越えてしまう。つまり生命を作り出してしまったのだ。そうした研究によって生み出されたのが醜い『怪物』だったのである。

その瞬間――そのとんでもない大失敗を目の当たりにした瞬間、こみ上げてきた感情をどう言い表したものか……。これまで、文字どおり苦しみもがきながら、苦労に苦労を重ねてきた結果、こうして生まれたこのおぞましき生き物を、どう説明したものか……。わたしとしては、四肢は均整が取れた状態に、容貌も美しく造ってきたつもりです。そう、美しくです! その結果が――なんと、これか? その君がかかった皮膚では、皮膚のしたにある筋肉や動脈のうごめきをほどんど隠すことができません。確かに、髪はつややかに伸び、歯は真珠のように真っ白ですが、そんな麗しさも、潤んだ薄茶色の目をいっそうおぞましく際立たせるばかりです。その目が嵌められた眼窩も同じような薄茶色、顔色もしなびたようにくすみ、真一文字に引き結ばれた唇は血色がわるく、黒みがかかっているようにさえ見えます。(第一巻2章)

ヴィクターは決して醜い人間を創ろうとしたわけではなかった。彼の目的は『生命を持たぬものの身体に生命を与える』ことだった。それも『美しく』創ろうとしていたのだ。ところが一線を越えた青年に対する罰のように、彼によって生み出された生命はおぞましい『怪物』になってしまったのである。ヴィクターは自分が創ったものの姿に耐えきれなかった。この創造主である彼は、自分が生み出したものを受け入れることができなかったのである。このことが、のちに様々な悲劇を生み出すことになるのだ。

「ああ、フランケンシュタイン、ほかの者には情を立てるのに、このおれだけ踏みつけにするのは、あまりにも不公平というものではないか。この身こそ誰よりもお前の正義を、いや、お前の情けや慈しみを受けてしかるべきものなのに。忘れるな、お前がおれを創ったんだぞ。ならばおれはアダムであるはずじゃないか。なのに、今のおれは、悪いことなど何ひとつしないうちから楽園を追われた堕天使だ。目を向ける先々に幸福が見えているのに、おれひとりがそこから閉め出され、のけ者にされている。おれにも優しさや善良さは備わっていた。みじめさがおれを悪魔に変えたのだ。どうか、おれを幸せにしてくれ。そうすれば、また善良さを取り戻すこともできよう」(第二巻第二章)

生み出された『怪物』は人から受け入れられることがなかった。彼の姿を見たものからは石を投げられ、悲鳴を上げられ、銃で撃たれ、自身が愛した人間たちにも拒絶される。彼を拒絶しなかったのは、盲目の老人だけだったが、これも彼の姿が見えていないからなのは何とも皮肉だ。

「人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」(『カラマーゾフの兄弟』より)

ともかく『怪物』の心は次第に歪んでいき、創造主ヴィクター・フランケンシュタインへの復讐へと突き進んでいく。そのために、罪もない人々の命を次々と奪っていくばかりか、狡猾な知能で何の罪もない一人の女性を死に追いやるのである。ヴィクターが『怪物』を拒絶したのも、少年ウィリアムを殺されたこと、『怪物』の狡猾な罠によってメイト長の娘ジュスティーヌが無実の罪で処刑されてしまったことも大きな要因となっている。『怪物』が罪を犯せば犯すほど、ヴィクターは彼を憎み、拒絶していくのだ。それは自分が生み出してしまったものが、自分の愛する人たちを死に追いやった、つまりヴィクターのせいで愛する人たちが死ぬという『良心の呵責』も起因していた。『怪物』を生み出したのは確かにヴィクターであり、すべての原因はヴィクターにあるといっても過言ではないだろうが、同時に彼はそのことに苦しんでいたのだ。『怪物』は確かに可哀想ではあるのだけれど、一方で彼がヴィクターへの復讐のために何の罪もない人たちを殺したのは事実である。なので一方的に『怪物が可哀想!ヴィクターひどい!』と一方を擁護し一方を責めるわけにもいかない。

「呪われたる造り主よ、おまえすらも嫌悪に目を背けるような怪物を、何ゆえに作り上げたのだ? 神は人間を哀れみ、自らの姿に似せて美しく魅力的に作りたもうた。だが、この身はおまえの醜悪な似姿だ。似ているからこそおぞましいのだ。サタンにさえ、同胞の悪魔がいて、ときに崇められてときに励ましを得ていたというのに。おれは孤独で、忌み嫌われるばかりじゃないか」(第二巻第六章)

孤独な『怪物』が欲していたものは自分を受け入れてくれる存在だった。彼が愛したド・ラセー家に受け入れられることを望み、ウィリアムを友にして育てようとし、ヴィクターに自分と同じ伴侶を作らせた。しかしいずれも叶うことはなかった。『怪物』には創造主ヴィクターとの『復讐』という歪な絆しかなかったのだ。『怪物』はどうすれば幸せになれたのかと言うと……そもそも『怪物』自体が『越えてはならない一線を越えてしまった』ことによる産物なので、可哀想だが彼はどうあがいても幸せになれなかったのかも、と思う。

ところでヴィクターにはクラーヴァルと言う親友がいる。彼はヴィクターが『怪物』を創造し、病に倒れた時も何かと世話を焼いていたし、ヴィクターのことを何かと案じている(しかし彼はヴィクターが犯した『禁忌』のことも『怪物』のことも何も知らない)。『罪と罰』のロージャとラズミーヒンの関係を思い出したのは私だけだろうか。(ついでに言えば、ロージャとヴィクターはともに大学生であること、周囲の人間から愛されていること、『越えてはならない一線を越えた』という共通点もある)しかしそんなクラーヴァルも結局は『怪物』の犠牲になってしまうのだ。ちなみにヴィクターの周りの人間で彼の父親は『怪物』に殺されなかったが、度重なる悲劇に衰弱してこの世を去ってしまう。それでも息子が犯した『禁忌』や『怪物』のことを知らずに逝けたのはある意味幸福かもしれない。

何となく手に取った一冊が、何度も読み返したくなる一冊となる。『フランケンシュタイン』はまさにそんな一冊だった。

最後にもう一回、敢えてこの言葉でこの記事を締めたいと思う。

『科学は、誘惑する』