月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

スメルジャコフ、最期の一か月間②

わたしに圧倒的に足りないものは構成力だと思う今日この頃。

というわけで今回の記事もかなりの遠回りになる。
前回の記事で『今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より』に収録された『神秘的な客』の事件がフョードル殺害事件に似ているということに触れたので、まずはいろいろと引用しながら類似点を見ていきたいと思う。

彼は十四年前、さる若い美しい裕福な婦人で、田舎の領地から出てきたときのためにこの町に自分の邸宅を構えていた地主の未亡人に対して、実に恐ろしい大罪を犯したのだった。その女性に熱烈な愛をおぼえて、彼は恋を打ち明け、結婚してくれと口説きにかかったのだった。だが女はすでにほかの男に心を捧げていた。

 

ある夜、大胆不敵にも、人に見とがめられる危険をおかして、庭から屋根を乗りこえて彼女のところへ忍んで行った。(中略)梯子のはずれにあるドアが、召使たちのずさんさからいつも錠がおりているとは限らぬことを知っていたからだ。その時もこうした不注意を当てにしていたのだが、狙いはまんまと当たった

 

女の寝姿を見ると情欲が燃え上がったが、つづいて復讐と嫉妬の憎しみが心をとらえ、酔っぱらいのようにわれを忘れて近寄るなり、心臓にもろにナイフを突き立てたので、女は悲鳴もあげなかった。そのあと、犯罪差特有の狡猾な計算で、召使に嫌疑がかかるように仕組んだ女の財布を盗むこともいとわず、さらに枕の下からぬきとった鍵で箪笥を開け、中からいくらかの品を、それも無知な召使の仕業に見えるよう、盗み取った

 

翌日、騒ぎの持ち上がったときも、そのあともずっと、だれ一人この真の凶悪犯に疑いをかけることなど考えもしなかった! それに彼の恋はだれも知らなかったのである。なぜなら、彼は日ごろから無口で打ちとけぬ性格だったし、心を打ち明けるべき友人もいなかったからだ。

 

嫌疑はただちに農奴の召使ピョートルにかかり、そのうえちょうど容疑を裏付けるような状況がいくつも重なった。(中略)彼がやけ酒をあおって、女主人を殺してやると飲屋ですごんでいたのを、きいた者もいた。(中略)殺人事件の翌日、彼は町を出るはずれるあたりの往来で、ナイフをポケットに忍ばせ、その上なぜか右の掌を血まみれにして、死んだように酔いつぶれているのを発見された。当人は鼻血を出したのだと言い張っていたが、信ずるものはいなかった

 事件のきっかけが母の遺産と女性をめぐる『毒蛇同士の食い合い』であること(グルーシェニカをめぐるミーチャとフョードルの争いを、スメルジャコフは利用したと考えられる)、犯人の狙いが『まんまと当たった』こと(グルーシェニカが来たことを知らせる合図や三千ルーブルの隠し場所をミーチャに教え、ミーチャがフョードルのもとへ来るようにいろいろと仕組んだ)被害者が『悲鳴を上げなかった』こと、嫌疑が他の人物に向けられるように仕組んだこと(三千ルーブルが入った封筒を中身だけ抜いて破って捨てた)嫌疑をかけられた人物が、被害者に向けて酔っ払った勢いで殺意を口にしていたこと(ミーチャの場合は手紙として書き残していた)、嫌疑を向けられた人物の犯行であるという証拠がどんどん出てきたこと(ミーチャもグリゴーリイを殴ったことでシャツをまみれにしていたし、グリゴーリイのドアが開いていたという証言で、彼を追い詰めることになる)そして狙い通りにその人物に嫌疑が向けられ、無実の罪を着せられた逮捕、拘留されてしまったこと、更に嫌疑が掛けられた人物の証言を信じる者がいなかったこと(ミーチャの無実を信じたのはアリョーシャとグルーシェニカぐらいだったし『確信』という意味ではアリョーシャだけだった)……こうしてみると『第一の小説』で書かれたフョードル殺害事件と共通点がかなりある。そして神秘的な客の人物像も、スメルジャコフと共通するものがある。

召使は獄中で病死し、事件はこれで一段落した。世間も裁判官も、犯人は死んだ召使に決まっていると確信したままで終わった。しかしゾシマ長老は語る『だが、このあと、真の罰がはじまったのである』。

さて、殺人を犯した『神秘的な客』ミハイルは、当初良心の呵責に悩んだりしなかった。あるのは愛する女を殺してしまったという未練だけだった。事件の後、養老院に多額の金を寄付したり、煩雑な難しい仕事に励んだり、慈善事業に打ち込んだりした。ミハイル曰く事件のことは『思い出しても、まったく考えないようにつとめていた』という。聡明な令嬢と結婚し、子供もできた。ところが、

結婚一か月目から彼は『こうして妻は愛してくれているけれど、もし知ったらどうなるだろう?』という思いにたえず心を乱されるようになったのだ。妻が最初の子を身ごもり、それを告げたとき、かれはふいにうろたえた。『一方では生命を与えているのに、同じそのわたしが人の生命を奪ったのだ』次々に子供が生れた。『このわたしが、どうして子供たちを愛し、教育し、しつけられるだろう。どうして子供たちに善を語れよう。わたしは人の血を流したのだ』子供たちは愛らしく育ってゆき、思わず愛撫したくなる。だが『わたしはその子たちのあどけない、晴れやかな顔を見ることができない。そんな資格はないのだ』やがてついに、殺された犠牲者の血が、滅ぼされた若い生命が、復讐を叫ぶ血が、不気味に、陰鬱に、目にうかぶようになった。恐ろしい夢を見るようにもなった。

ミハイルは罪を告白することを三年がかりで決意した。しかしそれを実行に移すことはできなかった。若きゾシマ長老も「行って、人々に告白しなさい」とミハイルに言うが、ミハイルは一向に告白をしない。覚悟を決めつつも、いざとなると踏み切れないということが繰り返された。彼は妻と子供たちのことを気がかりだなのだという。それでもゾシマ青年は子供たちは判ってくれると説得するが……

「それに、そんな必要があるでしょうか?」彼は叫んだ。「必要ですかね? だって、だれひとり有罪になったわけじゃないし、わたしの代りに流刑になった者もいないんですよ。それに、わたしの話なぞ全然信じてもらえませんよ。わたしのどんな証拠だって信じてくれるものですか。それでも告白する必要があるでしょうか、必要なんですか? 流した血にたいしてわたしはこれからも一生苦しむ覚悟です、ただし妻や子供たちにショックを与えたくないのですよ。妻子を道連れにするのが、果たして正しいことでしょうか? われわれは間違ってやしませんか? それならどこに審理があるのです? それに世間の人たちにその真理がわかるでしょうか、その真理を正しく評価し、尊敬してくれるでしょうか?
『ああ!』わたしはひそかに思った。『こんな瞬間に、まだ世間の尊敬などと考えているのだ!

人は『やらない理由を探す天才』ともいわれているが、このミハイルは正しくそれだろう。正直妻子を盾に……というか言い訳にして自分が『罪を告白しない』理由を正当化しているようにしか思えない。そして彼は自分が罪を告白することで『世間から尊敬されるか否か』を考えていた。彼は自分の『自尊心』を守ろうとしているだけなのだ。だから、

『よくよくあなた方に言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかしもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる』わたしは彼の来る前にこの一節を読んだばかりだった。
 彼は読んだ。「なるほど」と彼は言ったが、苦い笑いを浮かべた。「そう、この本の中では」しばらく沈黙したあと、言った。「実に恐ろしい言葉に出くわしますね。そいつを人の鼻先へ突き付けるのは、たやすいことだ。だれですか、これを書いたのは。人間ですかね?」
聖霊が書いたのです」わたしは言った。
「くちでしゃべるだけだから、あなたは楽ですよね」彼はまたせせら笑ったが、もはやほとんど憎しみに近い笑いだった。

カラマーゾフの兄弟』のエピグラフにもある『一粒の麦』。ミハイルは「死んだならば」つまり「行って罪を告白する」ことで「豊かに実を結ぶようになる」のは重々承知している。しかし彼は「一粒の麦」のままでありたいと考えているのだ。だが次に若ゾシマが読んだ一節で、ミハイルの運命は決まる。それは『へブル人の手紙』第十章三十一節だった。

『生ける神の手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである』
 彼は読み終えるなり、本を放り出した。全身をふるわせさえいた。
「恐ろしい言葉です」彼は言った。「一言もありません、よく選びましたね」彼は椅子から立った。「じゃ、失礼します」と言った。「たぶんもう伺わないでしょう……天国でお目にかかりましょう。つまり、十四年間、『わたしは生ける神のみ手のうちに落ちていた』わけですね。この十四年間をそう名づけていいわけですね。明日こそその手に、わたしを放してくれるように頼みますよ……」

 彼は一度、ゾシマ青年を殺すために戻ってくるのだが、翌日自身の罪をすべて告白するに至ったのだった。

『殺された犠牲者の血が、滅ぼされた若い生命が、復讐を叫ぶ血が、不気味に、陰鬱に、目にうかぶようになった』という殺人者ミハイル。そして『生ける神の手』――これこそが、殺人者に与えられた。『真の罰』だったのだ。
この『生ける神の手』による『真の罰』に関して、似たようなことをゾシマ長老は語っている。

「なぜなら、かりに今キリスト教の教会がないとしたら、犯罪者の悪業への歯止めがまったくなくなって、ひいては悪業に対する懲罰までないにひとしくなるでしょうからの。懲罰と言っても、今この方が言われたとおり、たいていの場合ただ心を苛立たせるにすぎぬ、機械的な懲罰のことではなしに、唯一の効果的な、ただ一つ威嚇と鎮静の働きを持つ、おのれの良心の自覚に対する本当の懲罰のことですぞ」(第二編5)

 

「かりに、今のような時代にさえ社会を守り、当の犯罪者をも更生させて、別の人間に生れ変わらせるものが何かしらあるとすれば、それはやはりただ一つ、おのれの良心の自覚のうちにあらわれるキリストの掟にほかなりませぬ」(同)

ミハイルが十四年間落ちていた「生ける神の手」はまさに「おのれの良心の自覚に対する本当の懲罰」を与え続けていたのだ。

では同じく殺人者であるスメルジャコフはどうだろう。彼もまた当初のミハイルと同じように良心の呵責などというものはなかったように感じられる。彼が『神がいなければすべては許される』と本気で考えていたのならば、猶更だ。
しかし彼はフョードル殺害後、真の癲癇発作によって二日ほど意識不明になる。そのご健康を回復するが、イワンとの三度目の対面時にはまたしても重い病によって衰弱し、発狂するとまで言われていた。

スメルジャコフのほうは、話の最中ごくたま相手を眺めるだけで、たいていはわきの方を横目でにらんでいた。話を終えたとき、彼自身も明らかに興奮しており、苦しげに息をついていたその顔に汗がうかんだ。それでも彼が後悔か何かを感じているのかどうか、判断が出来なかった。(第11編8)

イワンに自信の犯行を告白するスメルジャコフの様子から、フョードルを殺害した後も平然としていたとは考えにくい。じつは最初の対面(スメルジャコフ入院時)とこの三度目の対面(スメルジャコフ発狂を予想される)の二回、彼は『神さま』のことを口にしている。

「現に今だって、わたしらの話は、神さまご自身のほかは、だれ一人きいていませんけど、もしあなたが検事や予審調査官のニコライさまに通報なさったとしても、ほかならぬそのことによって結局わたしをかばってくださるかもしれませんよ」(第11編6)

 

「第三の存在とは、神ですよ神さまですよ神さまが今わたしたちのそばにいるんです。ただ、探してもだめですよ、見つかりゃしません」(第11編8)

スメルジャコフが口にした『神さま』とは、まさに『神秘的な客』ミハイルに十四年間、その手の中で『真の罰』を与え続けた『生ける神』のことではないだろうか。フョードル殺害後、スメルジャコフもまた『生ける神』の手の中にいたと考えられるのだ。ではスメルジャコフを自殺に追い込んだものとは『生ける神の手』なのか。そもそも『生ける神』とはただ罪人に対して『罰』を与えるだけの存在なのか。しかしミハイルは自殺をしなかった。ミハイルとスメルジャコフの違いとは何なのか。これについてはまた次回考えたい。