月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

アリョーシャの『不幸』とスメルジャコフ

臨終の間際、ゾシマ長老はアリョーシャにこう語っていた。

「お前はこの壁の中から出ていっても、俗世間でも修道僧としてありつづけるだろう。大勢の敵を持つことになろうが、ほかならぬ敵たちでさえも、お前を愛することになるだろうよ。人生はお前に数多くの不幸をもたらすけれど、お前はその不幸によって幸福になり、人生を祝福し、他の人々にも祝福されるようになるのだ」(第6編1)

 長老の予言は13年後(第二の小説)のアリョーシャの運命に関するものとも取れる。しかしアリョーシャは長老の死後、『第二の小説』を待つことなく、様々な『不幸』に直面することになる。
最初の『不幸』はゾシマ長老の亡骸から腐臭が出たという騒動が起きたことだった。もっとも腐臭だけならばまだ良かったのだが、長老は『心正しきものの堕落と恥辱を好む』(第六編2D,第七編1)人たちによって貶められた。

しかし、彼が渇望していたのは正義、あくまで正義で会って、単に奇蹟だけではなかった! ところが、彼の期待では全世界のだれよりも当然高くたたえられるべき、ほかならぬその人が、ふさわしい栄光の代りに、突然おとしめられ、恥ずかしめられたのである! 何のために? だれが裁いたのか! だれがそんな判断を下しうるのかー―これが彼の世間ずれしていない無垢な心を苦しめた疑問だった。行い正しき人の中でももっとも正しい人が、はるか下に位する軽薄な群集のあんな嘲笑的な、悪意に満ちた愚弄にさらされたことを、彼は侮辱と、内心の憤りなしには堪えられなかった。(第7編2)

語り手の言葉を借りれば『心が血を流した』アリョーシャだったが、グルーシェニカから与えられた《一本の葱》によって『復活』し、ガリラヤのカナの夢と大地への接吻を経て修道院を出る。(それにしてもアリョーシャのゾシマ長老への傾倒ぶりがすさまじくて若旦那を尊敬していると言われている某下男は果たしてここまでするだろうか?という疑問が湧いてきたりもする)

俗世に出たアリョーシャを待ち受けていたものは、父フョードルの死と長兄ミーチャへの冤罪だった。アリョーシャはミーチャの無実を信じていたが、裁判の結果ミーチャに言い渡されたのは懲役20年というシベリアへの流刑だった。更に次兄イワンは発狂して精神崩壊を起し、アリョーシャが深く関わり合いになり、父スネギリョフとともに寄り添い続けた少年イリューシャも、病気のためこの世を去った。(リーザとの婚約解消とかマスコミに中傷まがいのことも書かれたとかもあるけれど)
余談だがアリョーシャは本編内で、ゾシマ長老(病死?)フョードル(他殺)スメルジャコフ(自殺)イリューシャ(病死)と4人の人間の死と対面している(フョードルとの遺体と対面した描写はないが、葬儀はやったようなのでおそらく遺体を見ていると思われる)。しかもいずれも自身の身近にいた人間である。作者がアリョーシャを『人間の死』と対面させた意味もいろいろと考察できるかもしれない。

さて、アリョーシャの身近に起きた『不幸』のうち、フョードルの死とミーチャの冤罪はスメルジャコフが関わっている。スメルジャコフはフョードルを殺害し、ミーチャに罪を着せたのだ。更にイワンが発狂に至る原因の一つがスメルジャコフであると言える。
カラマーゾフ家の人たちだけではない。スメルジャコフはイリューシャを唆し、犬のジューチカにピン入りパンを食べさせたのだ。このあと『垢すりへちま』事件を経てイリューシャは病気になる。病気とジューチカの件との因果関係は不明だが、イリューシャがジューチカ殺しの罪に苦しんでいたのは事実だ。

「本当の話、あの子は病気になってから。僕のいる前で三度も、涙を浮かべてお父さんにくりかえして言ってましたよ。『僕が病気になったのはね、パパ、あのときジューチカを殺したからなんだよ、神さまの罰が当たったんだよ!』って」(第10編4)

ジューチカの一件はコーリャが詳しく語ってくれるのだが、アリョーシャは(スメルジャコフが関わっていたかまで把握していたかは定かでないが)ジューチカのことをコーリャが語る以前から知っていたと思われる。

ということで、アリョーシャからすれば、スメルジャコフは父親を殺し、兄に無実の罪を着せ、幼い友人を唆して苦しめた――つまり彼の愛する人たちを殺し、貶め、苦しめた張本人なのである。よく『アリョーシャはスメルジャコフに冷淡』と言われるが、こうしてみると恨むとまではいかなくても『冷淡』どころかスメルジャコフに対して憤りを覚え、彼に対して批判を投げつけてもおかしくないだろう。他人を批判したり裁いたりしないというスタンスのアリョーシャではあるが、実際は『憤り』を見せたりすることもある。

「僕、誓います」アリョーシャは叫んだ。「兄はたとえその同じ広場にひざまずいてでも、真心をこめて、衷心から後悔の気持ちをあなたに示すはずです……僕がそうさせます、それをしないようなら、もう兄じゃありません!」(第4編7)

コーリャがイリューシャに黙ってジューチカにペレズヴォンと名を与え、芸を仕込み、ずっと隠し続けていたことが発覚した時は、こう叫んだ。

「それじゃ、ほんとに君は、犬に芸を仕込むためだけに、今までずっと来なかったのですか!」(第10編5)

 そしてミーチャの裁判の時

しかし、例の三千ルーブルがミーチャの頭の中で何かほとんど偏執(マニヤ)に等しいものと化し、兄がそれを父に欺しとられた遺産の不足分と見なしていたことや、まったく私欲のない兄だったのに、この三千ルーブルのことを話すときだけは、必ず気違いのように怒ったことなどを認めしたものの、兄が盗みの目的で殺したかもしれぬという仮定を、アリョーシャは憤りを込めて否定し去った。(第12編4)

アリョーシャがスメルジャコフに『無関心』ならば、フョードルはおろかミーチャやイリューシャ、更にはイワンに対しても『無関心』ということになりかねないが、決してそんなことはない。そういうわけで、彼がミーチャの言葉を信じて(基本的にミーチャは嘘をつけない人間なのも踏まえて)スメルジャコフを『犯人』として名指しするのももっともだと言える。ただ、アリョーシャは『犯人』スメルジャコフを批判したり裁いたりすることはない。スメルジャコフを『名指し』したことについても、彼はこう答えている。

「予審では僕は質問に答えただけです」アリョーシャは低い声で冷静に言った。「自分からスメルジャコフを告発したわけじゃありません」(同) 

とにかく何が言いたいのかというと、アリョーシャがスメルジャコフに『無関心』なのはあり得ないし、父を殺し兄を嵌め幼い子供を唆した『真犯人』に対して『冷淡』だったとしても無理もないだろうという話である。もっともこれまでも当ブログで主張してきたように、アリョーシャがスメルジャコフに『冷淡』だったとは思えない。もし『冷淡』だったとすれば、スメルジャコフの『婚約者』であるマリアが、恋人の自殺を『だれにも知らせず』『真っ先に』アリョーシャの下へ駆けつけることなどありえないだろうからだ(マリアとマリア母はスメルジャコフのことを『自分たちより偉い人』だと尊敬している)。もっとも二人の関係がフョードル殺害前と殺害後、或いは『ギターを持つスメルジャコフ』(第5編2)以前とそれ以降でマリアを介して『変化』していった可能性はある。以前は全く関わり合いのなかった二人が(スメルジャコフはアリョーシャを軽蔑しているし、アリョーシャ自身もスメルジャコフに近づけなかったと思われる)フョードル殺害後に(例えばアリョーシャがマリアと接触したことを機に)何かしらの『交流』を行ったとしてもおかしくはないだろう。このあたりは想像の域を出ないので何とも言えないが、引き続きあれこれ考察していきたい。