月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

『カラマーゾフの兄弟』読了一年

私が『カラマーゾフの兄弟』という作品に出会ったのは昨年の五月末だった。
以前も触れたがドストエフスキーは名前こそ知っていたもののまともに読んだことはなく、おそらく一生手を出すことはないだろうと思っていた。しかし当時読んでいた読書術的な本に『カラマーゾフの兄弟』のことが書かれていたこともあり「難しい長編古典に挑戦だ!」という気持ちでまずは新潮文庫版の上巻だけ買ったのである。何故上巻だけだったのかというと「上巻で挫折してしまうようなら読むのをやめよう」と思っていたからだ。個人的には例えば何巻かに分かれている長編場合はすべて一気に買わずに「最初の一巻だけ読んでみよう」と試みるのが作品を読み切るコツだと今でも思っている。

それはともかくとして、私は『カラマーゾフの兄弟』という作品と最初に出会い、今でもツイッターやnoteを経て、こうして所々読み返したり考察を続けたりしている。読み返しているうちに「これはどういうことだろう」という疑問や「ああ、これはそういうことだったのか」という気づきが発見されていく。そして自分なりの考察や解釈が強化されたり「あ、これ違ったわ」と気づかされることもある(じつはこっちの方が多いかも)。まあ、実を言うとすべて自力で考察しただけではなく。実態はほかの人の考察や意見を参考にした部分もかなりあるのだけれども……。何にせよ多分この作品とは一生付き合っていくことになるんだろうなあと思う。弊害は『カラマーゾフの兄弟』を読み終えてから『読書量が減った』ことだが、一応本代の節約になるし『本当に自分にとって読みたいと思う本』に向き合う時間が増えたのはいいことかもしれない。

さて、当ブログでもっぱら扱っているのはカラマーゾフ家の下男であると同時に主フョードルの私生児とされる『犯人』スメルジャコフと、カラマーゾフ家の三男である主人公アリョーシャ。この二人の関係についてである。二人の関係や交流を扱っている理由としては「アリョーシャはスメルジャコフに対して無関心」ないし「冷淡」という解釈を目にするたびに「いやそんなことはないだろう」という気持ちが蓄積されていったのが要因である。

そしてもう一つがスメルジャコフを取り巻く『親切な人たち』(第11編6)。スメルジャコフがギターを弾いてやり、病気のスメルジャコフを『婚約者』として自身の家に住まわせたマリア、「あの人はわたしが生れてからいつもやさしくしてくださっていたんです」(第11編8)スメルジャコフ自身が語る養母マルファ、母リザヴェータが産み落とした赤子を「神の御子」と呼び、スメルジャコフに対して粗暴な言動をとりつつも彼が自殺した時は十字を切ってその死を悼んだ養父グリゴーリイ。ここから見えたのは、スメルジャコフがただ『虐げられていた』『だれからも愛されない人間だった』わけではないということだった。

と、下手に風呂敷を広げずに当ブログでは上の二つのテーマを中心に扱っていこうと思ったのだが、スメルジャコフ関係の考察をしていくと『カラマーゾフの兄弟』という作品全体にやっぱり考察の風呂敷は広がってしまう。というのも多くの人が考察している通りスメルジャコフは影の主役であり、彼抜きには『カラマーゾフの兄弟』を語ることができないだろうからだ。当ブログでもスメルジャコフ関係の記事が多いのはそのためである。スメルジャコフは作品の『影』あるいは『負』の存在、または『影』や『負』を背負わされた存在であるといえるだろう。逆にアリョーシャは『影』に対する『光』であり『負』に対する『正』の存在であると言える。つまり二人の直接記されていない『本当の関係』を読み解くことが『カラマーゾフの兄弟』というこの強大な作品への理解につながっていく……んじゃないかと思う。