月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

スメルジャコフ、最期の一か月間④

スメルジャコフが自殺に至るまで、彼がフョードルを殺害してから『神秘的な客』ミハイルと同じように『生ける神』の手の内にあり『真の罰』を受けていたこと、彼を赦し、彼のために祈ってくれる『親切な人たち』の存在があったこと、だが彼自身が『親切な人たち』から注がれる愛を受け入れることができなかったこと……というようなことを『今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より』を引用しながらあれこれ考察しつつ書いてきた。

二度目と三度目の対面の間に、スメルジャコフには健康面もだが、自身の心境についても変化があった。わかりやすのが、これだろう。

「わたしだって、教養を伸ばすために、フランス語の単語をおぼえちゃならんという理由はございませんでしょうが。わたし自身だって、ことによると、ヨーロッパのああいう幸福なところに行けるようになるかもしれない、と思いましてね」(第11編7)

一方三度目の対面時、イワンに三千ルーブルを返したスメルジャコフはこういっている。

わたしにはこんなもの、全然必要ないんです」片手を振ると、スメルジャコフは震える声で言った。「前にはそういう考えもございましたよ。これだけの大金をつかんで、モスクワか、もっと欲を言えば外国で生活をはじめよう、そんな考えもありました。それというのは、『すべては許される』と考えたからです。これはあなたが教えてくださったんですよ。あのころずいぶんわたしに話してくれましたものね。もし永遠の神がないなら、いかなる善行も存在しないし、それにそんなものはまったく必要がないって。あなたは本気でおっしゃっていたんです。だからわたしもそう考えたんですよ」(第11編9)

ついでに、フョードル殺害の前日にマリアに語ったことも抜き出しておきたい。

「でもあの人はわたしのことをいやなにおいをたてる下男なんて言ったんですからね。あの人は、わたしが謀反を起しかねないと思ってるんでさあ。とんだ誤解ですよ。わたしはまとまった金さえ懐にしてりゃ、とうの昔にこんなところにいませんよ」(第5編2)

スメルジャコフはいつかは町から離れ、モスクワか、あるいは外国で暮らすことを夢見ていた。これは彼自身がずっと抱いていた夢でもあっただろう。しかし彼は手に入れた三千ルーブルを『全然必要ない』と言った。彼が自殺を決めていたからとも取れるが、ミハイルのことを考えれば、主であり父かもしれない相手を殺し、無実の人間に罪をかぶせて奪った三千ルーブルを持ちづつけることは『生ける神の手』の中に落ち『真の罰』を与えられていたスメルジャコフにはできなったのかもしれない。(もしイワンが来なかったら三千ルーブルをどうするつもりだったのかという疑問が湧くが……)

また

結婚一か月目から彼は『こうして妻は愛してくれているけれど、もし知ったらどうなるだろう?』という思いにたえず心を乱されるようになったのだ。妻が最初の子を身ごもり、それを告げたとき、かれはふいにうろたえた。『一方では生命を与えているのに、同じそのわたしが人の生命を奪ったのだ』次々に子供が生れた。『このわたしが、どうして子供たちを愛し、教育し、しつけられるだろう。どうして子供たちに善を語れよう。わたしは人の血を流したのだ』子供たちは愛らしく育ってゆき、思わず愛撫したくなる。だが『わたしはその子たちのあどけない、晴れやかな顔を見ることができない。そんな資格はないのだ』やがてついに、殺された犠牲者の血が、滅ぼされた若い生命が、復讐を叫ぶ血が、不気味に、陰鬱に、目にうかぶようになった。恐ろしい夢を見るようにもなった。(第6編2D)

 『神秘的な客』ミハイルは殺人を犯し、その罪を隠した。その罪が露見することはなかったが、彼は14年の間、幸福を得つつも苦しみを与えられていた。スメルジャコフもこれと似たような心境にあったとしても不思議ではないだろう。彼が二度目と三度目の対面時にいた場所は自分を愛してくれる『婚約者』マリアの家であり、三度目の対面時にはグリゴーリイの愛読書だった『われらの聖者イサク・シーリン神父の言葉』があったからだ。(ちなみにイサク・シーリン神父については『シリアのイサアク』或いは『シリアの聖イサク』で検索すると出てくる)。
それを物語りそうなアイテムが三度目の対面時に出てくる。

彼は、マリヤにレモネードを作らせて届けさせようと、立って戸口から声をかけに動こうとしかけたが、彼女に札束を見られぬよう、金を覆い隠すものを探しにかかり、最初ハンカチを取り出してかけたものの、ハンカチがまたしても洟で汚れていることがわかったため、部屋に入るなりイワンが目にとめた、だった一冊だけテーブルの上に乗っている黄色い本をとった。本の表題は『われらの聖者イサク・シーリン神父の言葉』とあった。(第11編8)

このハンカチなのだが、二度目の対面時にも出てくる。

 イワンは跳ね起きるなり、力まかせに相手の肩を拳で殴りつけたため、相手は壁のあたりまでよろけた。とたんにその顔が涙に濡れ、「かよわい人間を殴るなんて、恥ずかしくありませんか、若旦那!」と口走ると、彼はさんざ洟をかんだ、青い縞模様のハンカチで目を覆って、低い声でめそめそと泣きはじめた。(第11編7)

流石に一か月も汚れたハンカチを放置していたとは考えにくい。ということは、スメルジャコフは三度目の対面の前に、泣いていた可能性がないだろうか。自身に襲い掛かる『真の罰』と、彼に対する『親切な人たち』への愛、『裁き』と『赦し』、その両方によって彼が苦しんでいたとしてもおかしくはないだろう。(※ところが読み返したら、ぢうやらイワンに殴られていた時はもともとハンカチ自体が洟で汚れていたっぽい。わたしの読解力ポンコツすぎる……)

余談だがスメルジャコフがイワンに殴られたとき「かよわい人間を殴るなんて」と言っていたが、当初「あれだけイワンをこてんぱんにしたのに自分のことをかよわいとか言っちゃうのか」と突っ込みたくなったが、よくよく考えてみてばこの『かよわい人間』という言葉、実はイワンが創作した『大審問官』の中に出てくる。

それとも、お前にとって大切なのは、わずか何万人偉大な力強い人間だけで、残りのかよわい、しかしお前を愛している何百万の、いや、海岸の砂粒のように数知れない人間たちは、偉大な力強い人たちの材料として役立てばそれでいいと言うのか? いや、われわれにとっては、かよわい人間も大切なのだ。彼らは罪深いし、反逆者でもあるけれど、最後には彼らとて従順になるのだからな。(第5編5)

ということで「かよわい人間を殴るなんて」発言は『大審問官』の作者イワンに対する痛烈な皮肉とも取れるのである(そういえばスメルジャコフのことを『最前線の肉弾』とか言ってたよね、イワン兄さん……)。しかしこの『大審問官』の聞き手はアリョーシャだった。イワン曰くアリョーシャが最初の聞き手らしいので、イワンの悪魔を除けば『大審問官』の話はアリョーシャしか知らないはずだ。イワンがスメルジャコフに語って聞かせていたとは思えないので、もしスメルジャコフが『大審問官』を想起したのだとしたら、アリョーシャがスメルジャコフのもとを訪れていた可能性は大いにありそうである。

さて、以前の記事でも引用した『今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より』の最終章『地獄と地獄の火について。神秘的な考察』の最後の一節を再度引用したい。

ああ、地獄に落ちて、すでに反駁の余地ない真理を明確に知り、観察しているにもかかわらず、傲慢な怒り狂った態度を取りづづけている者もいる。サタンとその傲慢な精神にすっかり共鳴した恐ろしい人々もいるのだ。こういう人々にとって地獄はもはや空くことを知らぬ自発的なものとなり、彼らはすでに自発的な受難者にひとしいのである。なぜなら、彼らは神と人生を呪った結果、我とわが身を呪ったことになるからだ。ちょうど荒野で飢えた者が自分の身体から血をすすりはじめるように、彼らは憎悪に満ちた傲慢さを糧にしているのである。それでいて永遠に飽くることを知らず、赦しを拒否し、彼らに呼びかける神を呪う生ある神を憎悪なしに見ることができず、生の神がいなくなることを、神が自分自身と自己のあらゆる創造物を絶滅することを、彼らは要求するそして、おのれの怒りの炎で永遠に身を焼き、死と虚無を渇望し続けるだろうしかし、死は得られないだろう。(第6編3I)

『今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より』はここで終っている。となるとアリョーシャが最終章の最後の一節にゾシマ長老のこの言葉を持ってきた意図を考える必要があるだろう。
アリョーシャの手記でつづられているゾシマ長老の説法は問題提起→「この場合は○○するとよい」という手順をだいたい踏んでいる。後半の説法部分であるE~Hについては少なくともそうだ。しかし最終章の(I) については違う。「○○するとよい」がないことを含めて他の章と比べるとかなり異色なのだ。(例えばこれが他の章だったら自殺者の話についても『哀れな自殺者を祈ってやるがよい』みたいな説法があると思う)。そしたタイトルの『地獄と地獄の火について。神秘的な考察』。地獄は普通生前『罪人』であった『死者』が行くものだ。章の中にある自殺者の話だけでなく、やはりこの章自体が自ら死を絶った『罪人』スメルジャコフを想起した、というか彼のことを考察した、彼のために書かれた章と言えるだろう。或いは各章がこの最終章に結ぶことを考えれば、手記自体がスメルジャコフのために書かれたといっても過言ではないかもしれない。何故ならアリョーシャはフョードル殺しの犯人をスメルジャコフだと確信していていたからだ。逆に言えばほかの章は『第一の小説』でアリョーシャが関わった人たち、手記を編纂している時点で『生きている人たち』を想起しているともいえる(※もしスメルジャコフが犯人じゃなかったらこの『考察』が根本的に崩れることになるけれども……)。

で、以前の記事でも書いたが、『サタンとその傲慢な精神にすっかり共鳴した恐ろしい人々』とは『神がなければすべては許される』を本気で考えたスメルジャコフのことと言えるだろう。そして思い出したのが、裁判の前日のアリョーシャの祈りである。

『真実の光の中に立ちあがるか、それとも、自分の信じていないものに仕えた恨みを自分やすべての人に晴らしながら、憎悪の中で滅びるかだ』(第11編10)

 アリョーシャはこの時イワンのために祈っているのだが『自分の信じていないものに仕えた恨みを自分やすべての人に晴らしながら、憎悪の中で滅びる』というのはスメルジャコフに当てはまる(以前私は『これをスメルジャコフのことだというのは無理があるだろう』とか言っていたけども……)この『自分の信じていないもの』が具体的に何であるかは不明だが、スメルジャコフ自身が口にした『神さま』、元主であり実父(かもしれない)フョードル、或いは自分を『蠅ぐらいにしか見ていない』(第11編8)と断じた『若旦那』イワン……と様々な考察ができそうである。アリョーシャはマリアとともにスメルジャコフの遺体と対面し、彼が遺した遺書を読んでいる。もしかしたらこの時点では、スメルジャコフの自殺について『自分の信じていないものに仕えた恨みを自分やすべての人に晴らしながら、憎悪の中で滅び』たと考えたのかもしれない。彼が自身に対する『赦しを拒否』し『呼びかける神を呪』ったとも。

こう考えるとやはりスメルジャコフの自殺の動機とは一切の赦しを拒否し、自分自身を裁いたと考えるほうがしっくりくる気もする。ただ、これらはあくまでアリョーシャの視点から見たスメルジャコフ像にすぎない。言ってみれば単なる『解釈の一つ』にすぎないのである。実際に彼の内部でどのような変化が起きたのか、それを知るのは命を絶ったスメルジャコフだけなのだ(ドストエフスキーも知ってるじゃないかというメタなことは置いておく)。ということはよく言われているように単純にイワンに対して失望したからかもしれないし、訪問してきたカテリーナから何か決定的なことを言われたかもしれないし、或いはカラマーゾフ家に対する復讐の総仕上げの意図だったかもしれない。はたまた『真犯人』が他にいた場合、何者かよって殺されたのかもしれない。ありとあらゆる解釈が可能であり、作中における最大の謎としてこの先もいろんな説が出たり論じられることになるだろう。