月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

スメルジャコフ、最期の一か月間③

前回『神秘的な客』(第6編2D)ミハイルが十四年間落ちていた『生ける神の手』が殺人者に対する『真の罰』であり、またスメルジャコフも同じく『生ける神の手』に落ちていたのではないかと考えた。
この『生ける神』とは何者なのか。ただ罪人に裁きを与えるため神なのか。

「何も恐れることはない、決してこわがることはないのだよ、滅入ったりせんでよい。その後悔がお前さんの心の中で薄れさえしなければ、神さまはすべて赦してくださるのだから。心底から後悔している者を神さまがお赦しにならぬほど、大きな罪は地上にないし、あるはずもないのだ。それに限りない神の愛をすっかり使い果たしてしまうぐらい大きな罪など、人間が犯せるはずもないのだしね。それとも、神の愛を凌駕するほどの罪が存在しうるとでもいうのかな? 絶えざる後悔にのみ心を砕いて、恐れなどすっかり追い払うのだ。神さまは、お前さんには考えうもつかぬくらい深く、お前さんを愛してくださる。たとえ罪をいだき、罪に汚れているお前さんであっても、神さまは愛してくださるのだよ」(第2編3)

『場違いな会合』(第2編)にて、ゾシマ長老が修道院に訪れた農婦――「自分の罪が怖い」と告白した――に語った言葉である。罪に対して心から後悔していれば、神さまはその罪を赦し、罪に塗れようとその人を愛してくれるというものだ。これは逆に言えば、自分が犯した罪に対して何の良心の呵責もない人間に対しては『神秘的な客』ミハイルのように『真の罰』――つまり「己の良心の自覚に存する本当の懲罰」(第2編が与えられるということだろう。罪人に対して『真の罰』を与えるか、愛をもって赦すか、「生ける神の手」に落ちた者の心次第ということなのだろう。おそらくゾシマ長老は『神秘的な客』ミハイルとの一連の出来事を経たことによって『悪行に対する懲罰』や神の『赦し』と『愛』について確信を得たのではないかと考えられる。そして『場違いな会合』には手記を編纂したアリョーシャもいたのだ。

「友人であるあなたがたに言っておく。からだを殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ」(新共同訳 ルカ12:4-5)

 

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。(同 ローマ12:19)

 さて、スメルジャコフの場合はどうだろうか。彼に対して『生ける神』は愛も赦しもなかったのだろうか。しかしこれまで何度か見てきたように、スメルジャコフには自分に愛情を向けてくれる存在が少なからずいた。それが彼自身が口にした『親切な人たち』である。それは彼の『婚約者』であるマリア、育ての親であり「生れたときからやさしくしてくれた」と語るマルファ、そしてグリゴーリイである。

死んだスメルジャコフに関しては、十字を切ってから、才能があるやつだったが、愚か者で、病気にさいなまれており、そのうえ不信心者だった、彼に不信心を教えこんだのはフョードルと長男とだ、と言った。しかし、スメルジャコフの正直さについては、ほとんどむきになって請け合い、そのばでさっそく、かつてスメルジャコフが主人の落した金を見つけたとき、それを猫ばばせずにせずに主人に届け、主人はその褒美に≪金貨を与え≫それ以後すっかり信用するようになったという話を披露したほどだった。(第12編2)

グリゴーリイがスメルジャコフを愛していたことに関しては以前も書いたが、彼に対して十字を切る姿は、息子を想う一人の父親そのものだった。そういうわけで、

恐れおののきながら主の前に立ったその人の魂にとって、その瞬間、自分のためにも祈ってくれる人がいる地上にまだ自分を愛してくれる人間がいると感ずることが、どんなに感動的であろうか。そして神もまたお前たち二人を、いっそう慈悲深く眺められることだろう。なぜなら、お前でさえそんなに彼を憐れんでやった以上、お前よりも限りなく慈悲深く愛情豊かな神は、なおさらのことだからだそしてお前に免じてその者を赦してくださるにちがいない。(第6編G)

 『親切な人たち』はスメルジャコフのために『祈ってくれる人間』であり『まだ自分を愛してくれる人間』なのだった。『生ける神』はそんな『親切な人たち』に免じて彼を赦してくれたに違いなかった。だが、スメルジャコフは最終的に自らの命を絶ってしまった。

 ああ、地獄に落ちて、すでに反駁の余地ない真理を明確に知り、観察しているにもかかわらず、傲慢な怒り狂った態度を取りづづけている者もいる。サタンとその傲慢な精神にすっかり共鳴した恐ろしい人々もいるのだ。こういう人々にとって地獄はもはや空くことを知らぬ自発的なものとなり、彼らはすでに自発的な受難者にひとしいのである。なぜなら、彼らは神と人生を呪った結果、我とわが身を呪ったことになるからだ。ちょうど荒野で飢えた者が自分の身体から血をすすりはじめるように、彼らは憎悪に満ちた傲慢さを糧にしているのである。それでいて永遠に飽くることを知らず、赦しを拒否し、彼らに呼びかける神を呪う生ある神を憎悪なしに見ることができず、生の神がいなくなることを、神が自分自身と自己のあらゆる創造物を絶滅することを、彼らは要求する。そして、おのれの怒りの炎で永遠に身を焼き、死と虚無を渇望し続けるだろう。しかし、死は得られないだろう。(第6編3I)

手記の最終章『地獄と地獄の火について。神秘的考察』の最後の一節である。このあたりを読んでいくと、思い出すのがマリアに語ったことだ。

「ごく小さい餓鬼のころからあんな運命じゃなかったら、わたしはもっといろいろなことができたでしょうね、もっと物知りになってましたよ。あいつはスメルジャーシチャヤの父なし子だから卑しい人物だ、なんて言うやつがいたら、わたしは決闘してピストルで撃ち殺してやりまさあ。わたしはモスクワにいたころにも、面と向かってそう言われたことがあるんです。グリゴーリイ・ワシーリエウィチのおかげで、ここから噂が伝わったんですよ。グリゴーリイ・ワシーリエウィチは、わたしが自分の誕生に対して反旗を翻している、なんて叱りますがね。『お前はあの女の子袋を引き裂いたんだぞ』なんていうんでさ。子袋なら子袋でもかまやしないけど、わたしはこの世にまるきり生れてこずにすむんだったら、腹の中にいるうちに自殺してしたかったですよ」(第5編2) 

 あの最後の一節は、このスメルジャコフの言葉を想起したものだと考えられる。スメルジャコフがマリアに語った自身の心の闇は、アリョーシャの胸の中に確かに収められたと考えていいのではないか。『サタンとその傲慢な精神にすっかり共鳴した』は、スメルジャコフがイワンから教えられた『神がなければすべては許される』を本気で考えたことだと解釈できる。そうして彼は『赦しを拒否』し、命を絶った。だがなぜ彼は与えられるであろう『赦し』を拒否してしまったのか。自分のために祈ってくれる存在も少なからずいるというのに。
ということで最後の章である『地獄と地獄の火について。神秘的な考察』を最初から見ていきたい。

神父諸師よ、『地獄とは何か』とわたしは考え、『もはや二度と愛することが出来ぬ苦しみ』であると判断する。かつて、時間によっても空間によっても測りえぬほど限りない昔、ある精神的存在が、地上へ出現したことによって『われ存す、ゆえに愛す』と自分自身に言う能力を与えられた.。そしてあるとき、たった一度だけ、実行的な、生ける愛の瞬間が彼に与えられた。地上の生活はそのために与えられたのであり、それとともに時間と期限も与えられた、それなのに、どうだろう、この幸福な存在は限りなく貴いその贈り物をしりぞけ、ありがたいとも思わず、好きにもならずに、嘲笑的に眺めやり、無関心にとどまった。このような者でも、すでにこの地上から去ってしまえば、金持ちとラザロの寓話に示されているように、アブラハムの懐も拝めるし、アブラハムと話もする。天国も観察し、主の御許にのぼることもできる。しかし愛したことがない自分が主の御許にのぼり、愛を軽んじた自分が、愛を知る人々と接触するという、まさにそのことで彼は苦しむのである。(第6編3I)

この『愛を知る人々』を『親切な人たち』に置き換えるとどうだろうか。「わたしはこの世にまるきり生れてこずにすむんだったら、腹の中にいるうちに自殺してしたかったですよ」とマリアに語ったスメルジャコフは、その二か月後に自ら命を絶つ。その場所は『婚約者』マリアの家だった。彼は『実行的な、生ける愛の瞬間』という『限りなく貴いその贈り物』を退けてしまったのだ。だがそれは『愛を軽んじた自分が、愛を知る人々と接触する』ことで苦しんだ末の選択だったとも考えられるだろう。

地獄の物質的な火を云々する人がいるが、わたしはその神秘を究めるつもりもないし、また恐ろしくもある。しかし、わたしの考えでは、もし物質的な火だとしたら、実際のところ人々は喜ぶだろう。 なぜなら、物質的な苦痛にまぎれて、たとえ一瞬の間でもいちばん恐ろしい精神的苦痛を忘れられる、と思うからだ。それに、この精神的苦痛というやつは取り除くことができない。なぜなら、この苦痛は外的なものではなく、内部に存するからである。また、仮に取り除くことが出来たとしても、そのためにいっそう不幸になると思う。なぜなら、たとえ天国にいる行い正しい人々が、彼らの苦しみを見て、赦してくれ、限りない愛情によって招いてくれたとしても、ほかならぬそのことで彼らの苦しみはいっそう増すにちがいないからだ。なぜならそれに報いうる実行的な愛を渇望する炎が彼らの胸にかきたてられても、その愛はもはや不可能だからである。(同)

この内部に存する『精神的苦痛』。それは『神秘的な客』ミハイルの十四年間や。フョードルの死後「犯人は俺だ」と分に言い続けていたイワンの二か月間がそれにあたるだろう。彼らは自分一人では取り除けない『内部に存ずる』『精神的苦痛』の中にいたのだ。これはスメルジャコフも例外ではなかった。『生ける神の手』の中に落ちたことによる『真の罰』に加え、『親切な人たち』が自分に注ぐ愛にも苦しめられたのではないかと考えられるのだ。逆に言えば『嘲笑的に眺めやり、無関心にとどまった』愛というものに対し、スメルジャコフが改めて目を向けるに至ったともいえる。事実スメルジャコフはイワンとの三度目の対面時『第三の存在』として『神さま』の存在を確信しており、マルファが自分に注ぐ優しさについても触れている。グリゴーリイについては「頑固な去勢馬も同然」(第11編8)と言い放っていたが、その『去勢馬も同然』な養父が愛読した『われらが聖者イサク・シーリン神父の言葉』をテーブルの上に置き、それに向き合っていたのだ。もっといえば、彼がイワンとの二度目の対面、三度目の対面のときに『婚約者』マリアの家にいたのである。

それにしても、臆病な心でわたしは思うのだが、不可能であるというこの自覚こそ、最後には、苦痛の軽減に役に立つはずである。なぜなら、返すことはできぬと知りながら、正しい人々の愛を受け入れてこそ、その従順さと謙虚な行為の内に、地上にいたときには軽蔑していたあの実行的な愛の面影をいうべきものや、それに似た行為らしきものを、ついに見いだすはずだからである……諸兄よ、わたしはこれが明確に言えないのが残念だ。(同)

よく『スメルジャコフには何も救いがなかった』と言われるが、彼が救われる方法は本当になかったのだろうか。スメルジャコフにとっての『救い』、それは『神がなければすべては許される』という思想に基づいて殺人を犯すことでも、フランス語を学んで外国で暮らすことでもない。或いはカラマーゾフ家の兄弟として認められることでもないだろう。ゾシマ長老が言うように『正しい人々の愛』つまり『親切な人たち』が自分に注ぐ愛を受け入れることだったのではないか。
と、ここで思い出すのが『みやこ』にてイワンがアリョーシャに語ったことである。

「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなかったんだよ。俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠いものだけだ」(第5編4)

スメルジャコフもまさにこの状態に陥っていたと考えられる。『正しい人々の愛』を受け入れることは簡単のことではないのだ。自身の出自と運命を呪い、あらゆる人間を軽蔑してきたスメルジャコフにとっては尚更だろう。
そしてアリョーシャの手記は、師の自殺者に対する祈りへとつながっていく。

だが、地上でわれとわが身を滅ぼしたものは嘆かわしい。自殺者は嘆かわしい! これ以上に不幸な者はもはやありえないと思う。彼らのことを神に祈るのは罪悪であると人は言うし、教会も表向きには彼らをしりぞけているかのうようであるが、わたしは心ひそかに、彼らのために祈ることも差支えあるまいと思っている。愛に対してキリストもまさか怒りはせぬだろう。このような人々のことを、わたしは一生を通じて心ひそかに祈ってきた。神父諸氏よ、わたしはそれを告白する、そして今も毎日祈っているのだ。(第6編3I)

この文章の直前のゾシマ長老の言葉は「諸兄よ、わたしはこれが明確に言えないのが残念だ」と煮え切らない。それは編纂者たるアリョーシャも同じだったのだろう。『愛を知る人々と接触する』ことで精神的苦痛が生まれたスメルジャコフは、自ら命を絶ってしまったからだ。『正しい人々の愛』を受け入れることができず『われとわが身を滅ぼした』不幸な『自殺者』にに対してできることとは、ただ祈りを捧げることのみだったのだ。