タイトルなんのこっちゃいと思われたかもしれないが、当ブログが目指したいスタンスというか『こういう方向性で記事を書いていきたいなあ』という方針についてである。決意表明というほどでもなくかなーり緩い願望ものではあるけれど。
どういうことかというと『カラマーゾフの兄弟』の主人公、アレクセイ・カラマーゾフのようなブログを目指したなあという淡い願望である。べつに神さまを信じるとか修道院に入るとかではなく『第二の小説』の噂のアレでもない(『第二の小説』については過去記事で自分なりの解釈や考察を乗せているのでこれ以上は書かない)。
アリョーシャがどういう人物であるかは本編を読んでもらえばわかるのだが、彼の人物像の一つとして『他人を批判したり裁いたりしない』というものがある。
自分は人々の裁判官にはなりたくない、人の批判をするのはいやだし、どんなことがあっても批判したりしない、と告げ、感じとらせるような何かが、彼にはあった(そしてそれは終生を通してだった)。(第1編4)
この姿勢は放蕩の限りを尽くしていた父フョードルに対しても同じだった。
二十歳になって、文字どおり不潔と放蕩の巣となった父の家に戻ってきたあと、道程で純真な彼は、見るに堪えぬような場面に出くわしても、ただ黙って席をはずすだけで、だれに対しても軽蔑や非難の色など露ほど見せなかった。(同)
アリョーシャは基本的には誰に対しても批判や非難をしないというスタンスでいる。フョードル殺しの『犯人』スメルジャコフについても同様であることは前回の記事で書いたとおりである。とはいえアリョーシャも『生身の人間』なので、例えば子供を裸にし、母親の目の前で自分の飼い犬に銘じて無残に殺した男に対しては「銃殺です!」(第5編4)と言い放った。ここで『アリョーシャだって人を裁いているじゃないか!』とアリョーシャの破れを指摘する人もいるかもしれないが、彼だって『生身の人間』である。人間である以上は、イワンの言葉を借りれば心の中に『小さな悪魔』を飼っているのだ。なので『だれのことも裁いたり批判したりしない』というよりは『だれのことを裁いたり批判しない『ように努めている』』と言ったほうが正しいだろう。『こいつを許せない』『批判したい』『裁いてやりたい』という願望は往々にして誰しも持っているものだが、アリョーシャは自身のその『感情』を自覚しつつ、距離を置いている、置こうとしていると考えたほうがいいかもしれない。
それを裏付けるのが、エピローグでミーチャを『破滅』させたカーチャの言葉を聞いた時のアリョーシャだろう。
(前略)アリョーシャには今の彼女の苦しみの、もう一つの恐ろしい原因がわかっていた。だが、もし彼女が意を決してひれ伏し、今すぐ自分からその原因を語り始めたとしたら、なぜか彼はあまりにも苦痛だったにちがいない。彼女は法廷で自分の《裏切り》のために苦しんでいるのだった。そしてアリョーシャは、彼女の良心が涙を浮かべ、泣き叫び、ヒステリーを起し、床に頭を打ち付けながら、ほかならぬ彼アリョーシャの前で、彼女に詫びさせようとしているのを、予感していた。だが、彼はその瞬間を恐れ、苦しんでいる彼女を赦してやりたいと望んでいた。(エピローグ1)
または彼自身が編纂した『今は亡きスヒマ僧ゾシマ長老の生涯より』では師のこんな言葉を紹介している。
もし他人の悪行がもはや制しきれぬほどの悲しみや憤りとでお前の心をかき乱し、悪行で報復したいと思うにいたったなら、何よりもその感情を恐れるがよい。そのときは、他人にその悪行をみずからの罪であるとして、ただちにおもむき、わが身に苦悩を求めることだ。苦悩を背負い、それに堪えぬけば、心は鎮まり、自分にも罪があることがわかるだろう。なぜなら、お前はただ一人の罪なき人間として悪人たちに光を与えることもできたはずなのに、それをしなかったからだ(第6編3H)
この『今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より』はアリョーシャが生前のゾシマ長老の言行を自身の手記にまとめたものだ。これについての考察もいずれじっくりやりたいのだが、ここではアリョーシャの手記はゾシマ長老の言葉であると同時に『カラマーゾフの兄弟』の一連の出来事に関して、本編の出来事を『経験』したアリョーシャ自身の考察を重ねたものであり、俗世に出た彼自身への戒めであるという私なりの解釈を述べるにとどめておきたい。先ほどの「銃殺です!」に関してもアリョーシャは「ばかなことを言ってしまいました……でも……」(第5編4)と自身の『悪行で報復したいと思うにいたった感情』を恐れたに違いないのだ。
単なるアリョーシャ語りになってしまったが、結局何が言いたいかと言うと、私自身もアリョーシャのようなスタンスでいきたいし、当ブログでもその姿勢でいきたいと考えている。何かに対する批判や裁きというもの、つまり何かしらに対する『攻撃』は極力控えて、自分の好きなこと、興味のあることを中心に記事を書いていきたいと考えている。もっとも私自身はできた人間ではないのでアリョーシャみたいになるのは難しい。(どちらかと言うと私はスメルジャコフタイプである)しかしせめて、ブログの上ではアリョーシャのような姿勢でいきたいと、いろいろと反省しつつそう考えている。