月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

ブログを書く理由について語ってみた

今回ははてなスターが100超えた記念(?)ということで、考察とか手帳関係の話ではなく、自分が何故このブログを書いているのかということをちょっと頭の整理がてら書いていこうと思う。

私がこのブログを開設したのは2020年の3月。それまではnoteで『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフとアリョーシャの関係やスメルジャコフ周辺の人間関係について考察を書いていた。noteをやめてこのはてなブログに移り、拙いなりにカラマーゾフ考察のみだったのがだ、徐々に手帳やノート関係のこと、読書記録、自分が何となく感じたこと、そして『双亡亭壊すべし』考察と取り扱うジャンルも増えてきた。

何故自分がそれらのものを書こうと思ったか。それはずばり『自分が読みたいから』である。

実を言うと私は昔、ある作品の二次創作をやっていたことがある。好きな作品、好きなキャラの二次創作を読みたい、ファンアートを見たいというのはオタクならば感じる心理であろう。しかし、ジャンル自体がマイナーであったりそういう創作物がなかなか見当たらなかったりしたため、ネットの海を彷徨っていた。

そうして思い立ったことが「無いなら自分で書くしかない!」であった。私は漫画は書けないが小説は一応書いたことがある。ということでそのキャラの二次創作小説を書きまくったのである。ほとんど自己満足の世界であり、二次創作を書いたところで何の足しにもならないのだがそれでも自分の中で「こういうものが読みたいなあ」というものが形になり、作品が溜まっていくのを見るのはちょっとした喜びがあった。

このブログを書いているのも『アリョーシャはスメルジャコフに冷たいっていうけどそんなことは無いだろう』『多くのレビューと自分の感想が違っている』『よっちゃん残ちゃんの関係を掘り下げて考察したものが読みたい』…とまあ自分はこういうのが読みたいというのを書いているだけなのである。言うなれば『自家発電』だ。拙いところ、掘り下げや考察が足りなかったり頓珍漢な解釈をしている部分もかなりあるのだが、もう『自己満足』だと割り切っている。更に頭の中で「こうじゃないか」「ああじゃないか」とぐるぐるしているものを文章という形でまとめることによって頭の中の整理にもつながるのである。

ではブログという形式ではなくノートに書くなりwordで書くなりすればいいのではないか?わざわざ自分の恥をさらすような真似をしていいのか?と思われるかもしれないが、こうしてブログという形で公開するのには意味がある。それは「1人でも自分が書いたものに目を通してくれたら嬉しいから」だ。たまに大量のアクセスがあるものの、基本的にはアクセス数は片手で数えたほうが早いレベルである。だが1人でも2人でも自分が書いたものを読んでくれたら、たとえ冒頭で即ブラウザバックをしたとしても『誰か』の目に留まってくれたのであれば書き手(と名乗るにはおこがましい気もするが)としては嬉しいものなのだ。
更に『文章として形にして書くと頭がすっきりする』と前述したが、自然と他者に読まれることを意識するようになるため、単に頭の中を吐き出すだけではなく、思考が整理されて落ち着いた気持ちにもなってくるのだ。そのため「この言葉選びはちょっとまずくないかな」「この文章は判りにくいかも」「ここはもう少し言葉を足したほうがいいかな」とか更に他の人が読むということを意識することによって、文章の構成や言葉選びを考えるようになる。つまり自分が書いたものに対してある程度客観的な見方ができるようになるのだ。そのため感情と勢いに任せて書いたものや書いている途中のものも「これやっぱ違うんじゃないかなあ」とこっそり没にしたりもする。ただし誤字脱字は相変わらずある模様

とまあグダグダといろいろと語ってしまったが、当ブログもいつまで続くかわからない。もしかしたら自分の「リセット癖」が発動してある日突然ブログ自体を削除しているかもしれない。その時がいつ来るかは判らないが、それまではとりあえずゆっくりまったりマイペースに『自分の読みたいもの』=『書きたいもの』を更新していきたいと思う。

 

泥努が待っていたのは凧葉だったのではないか?という説

※今回はあくまでも「こういう解釈もできるのではないか?」という説であり「これが正しい解釈だ」というつもりはありません。

当ブログでは去年の暮から『双亡亭壊すべし』の考察を始めてきたのだが、実を言うと私自身が残花少尉推しということもあり、また泥努と残花少尉の関係が好きだということもあって、自分「好み」の考察というなの妄想解釈を垂れ流している面がある。
私は泥努にとって残花少尉がどういう存在であるかを考察し、泥努にとって残花少尉が大切な友であること、特別な存在であることも繰り返し述べてきた。
だが私の中に浮かんだある解釈がどうしても引っかかって頭から離れずにいる。

それは泥努が『竜宮城』で待っていたのは残花少尉ではなく、主人公の凧葉務そのひとではないかという解釈である。

理由は24巻の表紙が『龍宮城』を現しているからだ。

海の底にある双亡亭、そこで絵を描く二人の絵描き。もっというと二人は泥努が時空を歪めたことによって双亡亭内で10年(!)絵の勝負をしていたのだ。これが『龍宮城』でなくて何であろう。

また、双亡亭の『双』の字は『同じものが二つ並ぶ』という意味がある。双亡亭=竜宮城であるならば泥努と残花少尉か?と最初思ったのだが、絵描きである泥努と軍人である残花少尉を『同じもの』とするのは聊か無理がある。では双亡亭の主である泥努と同じものは誰なのか?と考えると、それはもう『同じ』絵描きである凧葉以外にあり得ないだろう。つまり『双亡亭』とは『二度死んだ者(=泥努)の家』であり『二人の絵描き』の『龍宮城』だと考えられるのだ。

そして最終回、凧葉は青一とともに『時の廊下』を渡って大正6年に向かった。そこで彼は由太郎と共に二か月間絵を描き続けた。その際に彼は由太郎に『双亡亭』の話をしているのだ。(第一話冒頭のモノローグがそれにあたる)凧葉と青一によって『双亡亭がない世界』が作られたわけだが、仮に泥努となった由太郎が、この時の記憶を持っていたとしたらどうだろう?双亡亭は時代と時代がくっついており『時の廊下』も泥努自身がつないだものだ。であるならば泥努が『多元宇宙』の記憶を持っていたとしてもおかしくはないのではないか。泥努はそのうっすらとした記憶をもとに双亡亭をつくり上げた可能性もありえるのだ。そう、すべては幼い頃に出会った絵描き、凧葉務に再び会うために。

そうは言っても泥努が竜宮城に行きたいと待っていたのは残花少尉だろう?と思われるかもしれないが、これも作者によるミスリードの可能性がぬぐいきれない。何故なら二十三巻で緑朗が泥努の中で出会った老人(彼の深層心理だと思われる)は残花少尉の名前を一度も出していないからだ。彼は「(うらしまたろうのことを)友達と話した」「友達が一緒に龍宮城に行ってくれる」といっただけだ。つまり「浦島太郎のことを話した『友達』」と老泥努が一緒に龍宮城に行きたい『友達』が別である可能性もあるのだ。つまり前者は残花少尉、後者は当然凧葉である。
こう解釈できる理由はほかにもある。緑朗が泥努の中に入ったのは時系列的には狙撃されて意識がなくなり、幽霊となって姉のもとへ向かい、しのたちの秘密を知った後で応尽の怖いオトーチャマ式神是光に追いかけれれたところをかくまわれた時だ。この少し前に、泥努は応尽にあることを命令していた。それは凧葉を生かして自分のもとへ連れてくることであった。彼は「あの男とはもう一度話をしてみたい」(第十六巻)とも言ったのだ。老泥努が緑朗に「友達が来てくれるんだ」と行ったのはその少し後である。つまり老泥努は凧葉のことを待っていた。同じ絵描きである彼が来てくれれば何も怖くないと考えた。そう解釈することも可能になるのだ。
泥努は凧葉から残花少尉を笑った理由の解釈を聞かされた時「すべてはお前の妄想にすぎん」(第二十三巻)と言い放ったが、「違う、私が待っていたのはお前だ凧葉」という意味だったかもしれないのだ。

追記:では泥努がうらしまたろうの童謡を歌っても残花少尉がそれを察さなかったことに怒りをあらわにしたのはどうなのか?この後泥努は双亡亭の柱や天井に使われている『侵略者』の身体を体内に吸収して腕を生やしたのだが、壁や天井が抜けたことで屋根の上に立つ帰黒の存在が明らかになった。母屋突入後は別行動をとっていた少尉と帰黒はここで再会する。であれば単に離れ離れだった二人の男女の再会を演出というシチュエーションづくりの為だった可能性もある。また泥努は残花少尉が『浦島太郎』の歌を忘れていたことよりも『帝国軍人の名のもとに銃を向けてきた』から怒りをあらわにしただけと見ることもできるだろう。友達に銃を向けられたら嫌だし怒る。ただそれだけの話だった可能性もある。

 

(ここから少しネガティブな内容になってしまうので注意)

 

もし上記の解釈通りだったら竜宮城行を決意した残花少尉がかなりピエロになってしまう。だがそれは仕方がないことだと思う。泥努が残花少尉のことを語ることがあまりにも少ない。「良い仲良し」と言ってはいたものの、姉のしのぶはもちろん、凧葉や紅に比べると泥努から矢印が向けられている描写は少なく、全巻通してみると彼の中で幼馴染の存在が軽いという印象は否めない(それでも大多数の『どうでもいい』人間よりは情を感じているだろうが)。もっと言うと最終回で由太郎は「いろんな人に自分の絵を見てもらいたい」と言っていたのだが、そこに幼馴染である残花の名前は無い。(というか坂巻家と黄ノ下家は隣同士のはずなのに全く残花が出てこない)正直読んでいて由太郎から幼馴染の存在がすっぽり抜けてしまったかのような印象を受けてしまった。もっと言うと残花少尉が帰黒と共に生き返るまで、泥努の中で少尉の存在は忘れ去られていた。泥努は「あんたにも平和な思い出の一つや二つあるだろ」と凧葉に言われて何も答えなかった。姉のしのぶはもとより、残花少尉との思い出もあるはずなのにである。彼が覚えていた竜宮城の話も、結局は温かくも平和でもない記憶、つまり『どうでもいいこと』として処理されてしまっていたのだろうか、と思った。(もっとも少尉が竜宮城に行ってやると手を挙げた理由は凧葉が泥努に龍宮城に連れていかれるのを防ぐためとも解釈できる)

私は残花少尉と泥努の関係は好きなのだが、それはそれとして二人の幼馴染設定は削ったほうが良かったのではないか?とも思う。泥努の友人ポジションならば凧葉がいるし、以前は姉しか理解者も味方もいなかったし愛する姉がおらず絵が評価されない世界に未練など何もなかった、しかし100年近くたって初めて凧葉や紅といった姉以外の他者と関わり始めて変化が起こり始める、とした方が良かったのではないかと思う。(というか残花少尉、幼馴染のくせによっちゃんに全然いい影響与えてないじゃんかよ…)
また残花少尉に関しても、部下との関係や帰黒とのロマンス、或いは女性自衛官の宿木(彼女の祖父は残花少尉の元部下)との関係で充分キャラが立っており、無理して泥努と幼馴染設定を作らなくても良かったのではないかと思う。双亡亭に再突入する理由や絵から脱出できた理由も「部下の仇を討つため」で充分だったのではないか。『幼馴染』という設定一つ無くすことで、泥努や残花少尉周りの人間関係スッキリするし仮になくしたとしても最終的には絵描き同士の対決と友情の話になるのだから本編にさほど影響もないだろう。

ちなみになんで私が今回こんな記事を書こうとしたかというと、単に頭の中をスッキリさせたかったからである。自分が考えていること、引っかかっていることをこうして文章にいて書き出すのは思考が整理されるのだ。読んでいただく方にとっては不快になるかもしれないがどうか赦していただきたい。

『絵』からの脱出方法

新年あけましておめでとうございます。
今年も色々と好き勝手書きなぐっていきたいと思います。

ということで新年早々双亡亭考察という名の妄想をしていくことにする。

双亡亭壊すべし』ではラスボスの坂巻泥努は双亡亭に侵入してきた人たちの肖像画を描いている。その絵はただの肖像画ではなく『侵略者』の身体を絵の具にして描いたものであり『侵略者』は人間を『絵』の中に引き込み、トラウマを見せて精神補崩壊させて隙間を作らせ、身体を乗っ取るのだ。序盤ではこの『絵』が強力なトラップとなっており、多くの犠牲者が出た。

そんな中、自力で『絵』から脱出できたのは主人公の凧葉と残花少尉の2人である。しかし脱出の方法はかなり異なっている。
まずは凧葉の場合だ。彼は暴力的な父親のことがトラウマになっていたのだが「とっくに過去形だ」として「父親が怖かった」ことは認めつつもトラウマ攻撃は効かなかった。しかし侵略者の攻撃は一撃では終わらず、二撃目が来た。アル中になった父親を介護していた時の記憶だった。凧葉はその時の父親の目に恐怖を抱いていた。凧葉の身体は賽の目になり、そこへヒル状になった『侵略者』が侵入を試みる…のだが完全に入りこめられる前に身体の隙間は閉じられ、入りかけた『侵略者』は凧葉の目や口から吐き出された。凧葉は既に自身のトラウマを「過去のもの」だとしていたのである。そうして絵から脱出した凧葉は、同じく絵に引き込まれた刀巫覡の紅や鬼離田姉妹を救い出したのだ。彼は彼女たち「自分を赦す」こと「これから自分がどうしたいのか」を問いかけ、トラウマ克服を促した。侵略者に侵入されかけた隙間を閉ざし、凧葉と同じように残った侵略者を吐き出したのだ。また、鬼離田姉妹の次女・雪代を救うときは三女・琴代が召喚したタコハ童子(凧葉が描いた絵を依り代にした式神)を雪代の隙間に入りこませ、侵略者をすべて追い出したりもした。

一方残花少尉の場合は「姉を絞殺する由太郎を目撃した」というトラウマ攻撃を受け、隙間を開けられ、乗っ取られかけた。そんな時、頭の中に響いた『声』により正気に戻った。少尉の頭に浮かんだものは、絵に引き込むときの泥努の『笑顔』だった。「何故嗤った坂巻!」という怒りにより隙間は閉じたが、トラウマを克服したわけではないためか無数の『侵略者』たちを断ち切ることは出来なかった。そうして彼が何をしたのかというと、自分の身体に刺さっている侵略者たちを皮膚や片目ごと引き抜いたのである。彼は絵から脱出したのだが、その代償として右目と全身の皮膚を失うという大怪我を負った(よく生きてたよなあ…)。

と、こうしてみてみると残花少尉の脱出方法があまりにも滅茶苦茶なのだが、実は凧葉たちの脱出方法にも一つ弱点があった。

それは『侵略者』が体内に一滴だけ残ってしまうことである。

実は『侵略者』は身体の乗っ取りに失敗した時、一滴だけ体内に自分の身体を残す。一見何の問題もないように見えるが、これが様々な悪影響を与える。
まず思考の乗っ取りである。前述のとおり、鬼離田姉妹は凧葉に救われて『侵略者』を断ち切り、身体から追い出した。だが彼女達に残された『一滴』が脳を汚染してしまう。他の『破壊者』たちを裏切り、双亡亭に行かせないように嘘の証言を行うなど様々な妨害工作を行ったのだ。同じことがかつて『絵』の中に取り込まれ、脱出した経験がある総理大臣の斯波敦にも及んでいた。彼は絵に取り込まれたことがあるにもかかわらず『絵を見るな』と破壊者たちに一言も忠告しなかったのだ。言うなれば体内の『一滴』により知らず知らずのうちに『侵略者』を利する言動をさせられていたのである。また、紅も泥努から彼の記憶を見せるために『侵略者』の身体を注ぎ込まれており、それによって危うく意識を乗っ取られるところであった。(ちなみに紅の弟・緑朗にも一滴残ったのだがこれはおじいちゃんの水によって失敗した)
凧葉の場合は意識を乗っ取られたわけではなかった。しかし残花少尉の元部下である樺島に刺され重傷を負った時、体内に残された『一滴』は帰黒の霊水による治療を妨害した。帰黒が霊水をかけると傷のところに移動し、かけるのをやめるとすぐに体内のどこかに素早く移動してしまうのだ。これによって『侵略者』を体内から駆除するまで凧葉の治療ができず、彼は生死の境を彷徨った。

一方残花少尉の場合は『侵略者』を汚染された部分ごと引っこ抜いた。少尉も体内に一滴は残ったのか…と思われたのだが、実は帰黒と再突入する際、彼は彼女に「絵を見るな」と忠告していた(第十九巻)。前述の斯波総理が『絵を見るなと言わなかった』ことを考えると少尉の体内には『侵略者』が残っていなかったということになる。突入前に帰黒の霊水を浴びたためとも考えられるが、少尉が浴びた霊水は真水で10倍で希釈したものであり、痛みや出血を止める、言ってみれば応急処置程度のものだった。皮膚ごと『侵略者』を引き抜いたのは無茶ではあるが『体内に侵略者を残さない』ということを考えるとあながち間違った方法でもないのである。(ただこれ普通の人はまず死にますよね)

であれば『絵』から脱出するのに一番いい方法は『体内に侵入される前に隙間を閉じること』なのだろう。大企業のCEOであるバレット・マーグとその妻であり発火能力を持つ妻のジョセフィーン・マーグも娘を失ったトラウマを突かれ、隙間ができてしまったのだが、体内に『侵略者』が侵入する前に正気に戻ったことで『侵略者』が侵入することは無かった。しかしこれは老人友達科学者であるアウグストの喝があったからこそであり、彼がいなければ二人とも『侵略者』の侵入を許してしまっただろう。

だがこの『侵入される前に隙間を閉じる』ことをたった一人でやってのけた人物がいる。それが今作のラスボス、坂巻泥努である。泥努の『トラウマ』は頼まれたとはいえ愛する姉・しのぶを殺してしまったことなのだが、同時にそれは愛する姉を詠座から連れ戻すことができた『美しい思い出』であり、彼はその記憶に触れられたことに激怒し、逆に『侵略者』を支配し返してしまったのだ。一体その精神力はどこから来るのか。生粋のものなのか、或いは精神崩壊したことで無敵の人みたいな『精神力』を身につけたのか。
ちなみに『侵略者』代表のしのは「あの男はどんな過去にも恐怖せぬ!」(第八巻)と言っていたが、泥努自身に恐怖がないわけではない。ただ泥努が恐れていたのは『辛い過去』ではなく『画業を成せず、最高の絵が描けないまま一人で老いていく』という『未来』だったのだ。しかしそれも友達が来てくれるなら『何も怖くない』という…ちょっと妄想になってしまうが90年彼が『絵』を描き続けられた理由はもしかしたら『友達が来てくれる』と信じていたからかもしれない。

と長々と書いたが、とりあえず残花少尉の真似だけは絶対してはいけないということで記事を〆ようと思う(普通は無理です)。

泥努と残花少尉の『再会』シーンを読み返す

漫画でも小説でもアニメでも映画でも、繰り返し読み返したり見返すと気づいたり見えてくるものがある。しかし自分の解釈と公式側から出された答えが違うこともあり得る。私が書いている考察や解釈も大外れである可能性が大だ。自分には読み取る力があるとは言い切れないし、以前の記事で書いた「推しフィルター」がかかっていることもあるからだ。それでもやはり自分なりの解釈を考えることは楽しいし、それを形にしてこうしてブログに載せるのは頭がすっきりする。

ということで今回も双亡亭考察もといよっちゃん残ちゃん考察をしていきたいと思う。

昭和7年5月15日。
この日は言わずと知れた「5.15事件」が起きた日である。
青年将校たちに当時の首相だった犬養毅が殺害された事件だ。
双亡亭壊すべし」の世界でもこの事件は起きており、事件の直後に犯人の逮捕のために駆り出されたのが黄ノ下残花少尉率いる帝国陸軍東京憲兵隊沼半井小隊第四分隊、通称『残花班』である。残花少尉たちは住人たちが犯人と思わしき軍人たちがとある屋敷に逃げ込んだこと証言した。その屋敷こそ『双亡亭』であった。少尉は部下たちを奇妙な屋敷の中に進めさせた。この後悲劇が待っているとも知らずに…

奇妙な屋敷を進む残花少尉たちだったが、部下たちは壁にかけられた各々の肖像画の前で立ち止まってしまう。そこへ絵描きの男が現れた。その男こそ双亡亭の主である画家・坂巻泥努であり、残花少尉の幼馴染である坂巻由太郎であった。残花少尉は泥努に犯人を目撃していないか問い詰めるが、泥努は話が通じでいない様子だった。しびれを切らして屋敷を捜索しようとする少尉だったが、泥努が少尉の肖像画を完成させた直後、部下たちの絵から無数の腕が出現し、彼らを絵の中に引き込んでしまう。そして残花少尉もまた餌食となった。絵に引き込まれる少尉に対して泥努は「ざんちゃぁん」と不気味な笑いを浮かべたのだった…

…と、ざっくりではあるが7巻8巻に描かれている残花少尉と泥努の再会の顛末を振り返ってみた。残花少尉と泥努=由太郎は幼馴染同士ではあるが、由太郎が姉・しのぶを絞殺した事件以来会うことは無かった。残花が恐怖のあまり逃げ帰り、熱を出して寝込んでいた間にしのぶの葬式は済み、坂巻家も引っ越してしまったからだ。そうして十数年ぶりに再会した幼馴染はかつての面影も友人への興味や関心も失ったかのように見えた。しかも泥努は幼馴染である残花少尉を即絵に引き込んだのである。初見でこのあたりを読むと「現在の泥努は昔の知り合い程度にしか残花のことを認識しておらず、泥努となった今はどうでもいい存在となった」と受け止めてしまう。3巻で描かれた凧葉と泥努の出会いと再会時の会話と比較するとあまりに落差がありすぎるようにも思えた。
少尉は自分を絵に引き込んだときの泥努の笑顔の真意について「あの時逃げだ自分への復讐か」と推測していたが、実際は全く別の意図であった。(少尉は由太郎から逃げてしまったことを後悔しており、ずっと謝りたかったと言っていたが、その気持ちは色が視える由太郎には伝わっていた模様)だが再会時の泥努の対応と、その後残花少尉の存在など忘れてしまっていたかのように全く言及されないのを見ると泥努の笑顔の意図が発覚する23巻の展開は唐突感が否めない。竜宮城やうらしまたろうの件もいわゆる後付け設定だったのかと思うほどだ。

しかし再会シーンをよくよく読み返してみると、この時点で泥努にとって残花少尉がどうでもいいどころか姉や凧葉、紅と同様に特別な存在だったことがうかがえる。
泥努が双亡亭に引きこもった理由は他者との関わりを一切絶ち、一人で絵を描くことを選んだためであった。基本的に彼は母屋中心のアトリエで絵を描いており、そこから出てくることは滅多にない。実際作中でもアトリエから出てきたのは4回ほどで、絵描きとして興味を持った凧葉に双亡亭内を案内するため、モデルとして目をつけた紅を攫うため、双亡亭を破壊する自衛隊を一掃するため、そしてもう1つが昭和7年の残花少尉との再会時である。

侵略者を支配した泥努は双亡亭内の出来事を自在に壁に移すことが可能であり、さらに時間や空間を歪ませることができる。突如として壁に肖像画が現れるのはおそらくそのためだ。ということは侵入者の肖像画を描くためにわざわざアトリエの外に出てくる必要がないのだ。更に言うと前述の凧葉と泥努の出会いは凧葉が絵の中に取り込まれた直後であり、絵を描いている泥努が気になって凧葉が自分から声をかけた格好である。
実は少尉と泥努が再会した場所は、のちに巨大な絵が描かれることになるアトリエではなく、母屋の廊下だった。泥努はわざわざそこで絵を描いていたのである。つまりこの時泥努は自分から残花少尉の前に姿を現したと考えられるのだ。

もし残花少尉が泥努にとってどうでもいい存在であれば、彼は姿を現すことすらしなかっただろう。残花少尉の絵も部下たちのそれを同じくいつの間にか壁にかけられていた状態のはずだ。また、仮に偶然姿を見せたとしても、泥努は残花少尉を無視して黙々と絵を描き続けたに違いない。泥努に90年近く仕えることになる五頭応尽は少年時代、応尽ではなく応吉という名前だったころ双亡亭が建つ前に彼の家に忍び込んで食べ物を漁っていたのだが、彼との出会いについては「虫けらでも見るように眺めて、どこかへ行っただけだ」(第ニ十巻)と回想している。(このあたりはなんとなくイワンとスメルジャコフの関係を思い出すなあとか思ったりもする)この応吉との出会いと比較してみても、残花少尉は泥努にとって「特別」だと言えるのだ。ちなみに応吉が泥努に仕え始めたのが昭和7年5月15日なのだが、応吉が泥努が模写した絵を持っていたことが要因だった。しかしこの時の泥努は残花少尉と再会できたことや彼を竜宮城に連れて行けると喜んでいたため、もしかしたらこの上なく機嫌が良かったことも大きかったのかもしれない。

そして泥努が描いた残花少尉の肖像画が他とは違っていることも注目すべき点であろう。凧葉や紅といった破壊者たち、或いはレポーターや当時中学生だった斯波総理たちの肖像画は本人にそっくりにであり、メタ的に言えば作者本人が描いている。だが残花少尉の場合は絵柄がまるで違っている。はっきり言って本人とはまるで似ていない。というのも少尉の肖像画は作者本人ではなく絵を提供しているはこたゆうじ氏が描いたものだからだ。はこた氏は泥努と凧葉が描いた全ての『絵』を担当している。泥努は肖像画を描く際、過去の体験を『診察』しそれを絵に練り込むらしい。他の肖像画については「診察したまま」を描いているとすれば、絵柄がまるで違う残花少尉の場合は「その限りではない」ことになる。とはいえ昔と今では絵柄が違うということもあり得るのだが、いずれにせよほかの肖像画と何らかの差別化を図っているとは思われる。その『差別化』を明確に判断する材料は残念ながら見つからない。

そういえば5・15事件で青年将校に撃たれた犬養首相の有名な言葉は「話せばわかる」である。「双亡亭壊すべし」は「対話」することの大切さを前面に打ち出しており、凧葉と泥努の最終決戦も絵を描きながらの「対話」だった。泥努と残花少尉も帰黒が時間を稼ぎ、凧葉が交通整理をして「対話」できたからこそ「和解」ができた。キレイに完結したので蛇足になってしまうが、個人的には残花少尉と再会してから彼が絵から脱出するまでの『泥努視点の5・15』が見てみたかったとは思う。

来年もほぼ日手帳続投決定

そろそろ2021年も終わるので今回は来年の手帳の話をしたいと思う。

私が今年使ってきた手帳の中で、これまで何度も挑戦し、そして挫折を繰り返してきた手帳がある。
それがほぼ日手帳である。

オリジナル、カズン、weeksと様々なタイプを使ってきた。ある時はライフログ、ある時は日記、またある時はタスク管理や仕事用と用途は年によって違うが、そのどれも途中で使わなくなるという憂き目にあった。だから自分にはそもそもほぼ日手帳が合わないのだ、必要ないのだ…と思い、今年は使わない方向で行く…はずだった。

しかし年初にふらっと立ち寄ったLOFTでなんとなくほぼ日手帳のオリジナルを買ってしまった。

その結果…なんと12月19日現在まで続いている。これまで長くても半年で書かなくなってたほぼ日手帳だが、今年は歴代最長記録を更新した。ここまでくれば大晦日の最期のページまで使い切れるだろう。

ということで、来年もほぼ日手帳オリジナルを使うことにした。

さて、これまで何度も挫折をしてきたほぼ日手帳を、何故今年は続けられたのか。理由として思い当たることを書いてみる。

①毎日持ち歩いていたから

私が今年使っているオリジナルは文庫本サイズである。厚みはあるものの文庫本を持ち歩くと思えば持ち運びはしやすい。私はこれを毎日持ち歩いた。そして何かあったら手帳を開き、書き込む。こうすることで手帳を書くことが習慣化されやすく、また、持ち歩くことで愛着がわきやすくなってくるのだ。その分汚れやすくもなるが、それもまた良しである。
そして手帳を書くにはペンが必要である。現在私が使っているのがプラチナのプレジールという万年筆だ。これをカバーのバタフライストッパーに常に挿しっぱなしにしている。こうすることで書きたいときにペンがないという事態を防ぐことができるのだ。

②書く内容を限定しないから

これまでなぜほぼ日手帳が続かなかったのかといえば「この手帳にはこれを書く!」ということを決めすぎてしまったところがある。つまり日記なら日記、予定なら予定、ライフログならライフログ「のみ」を書くといった具合だ。しかしこれだと3か月ぐらいたつと飽きるし続かなくなってくる。
そこで今年は最初「何でもいいから書いてみよう」とデイリーページをノート感覚で使うことにした。マンスリーは予定やスケジュールを書くが、デイリーページは時間軸にはその日のログや細かな予定、上のチェックボックスにはToDo、そして残りのスペースはフリーページとして何でも書くことにした。『双亡亭壊すべし』の感想や考察もちょこちょこ書いたりしていた。現在はほかに食べたものの記録をつけている。自由に使えるというのはほぼ日手帳の強みだ。読み返すと割とカオスなことになっているのだがそれはそれで楽しい。
そして

③埋まらなくてもいいんだよ

私が1日1ページ手帳が合わないと思っていた理由としてその日書けなかったら1ページ丸まる空白ができるのが嫌だというのがあった。その点ノートを使ったりウィークリーの手帳を使えば空白ができにくくなると思っていた。しかし自分は描く内容やスペースを制限されてしまうと書けなくなる傾向がある。例えば日記をウィークリーの手帳で付けようとしたときは続けることができなかったがノートならば続けられた、といった具合だ。何故こうなるのかといえば「余裕」が感じられなくなるからだ。大は小を兼ねるが小は大を兼ねてはくれないのだ。
しかしやはり丸々1ページ空白ができるのは抵抗がある。ならば何かしら書いてあればいいのだ。例えば時間軸とToDoの欄が書かれていればそれで良しとする。空白のページは、例えばその日のページに書ききれなかった場合に利用したり、或いは手帳の使い方を模索する時のお試しページとしても使える。

④ペンの色分け、使い分けはしていない

①でも触れたが私はほぼ日手帳専用のペンとして以前はプラチナのプレピー、今はプレジールという万年筆を使っている。プレピーは僅か300円ほどの安価な万年筆だが、書きやすく、キャップの構造のお陰で中のインクも乾きにくい。しかしキャップの耐久性に問題があったため、プレジールに代替わりをした。こちらは1000円ほどだが、見た目も高級感がある。この万年筆をほぼ日手帳のカバーについているバタフライストッパーに挿している。
万年筆は三色ボールペンと違って1本のペンで色分けができるわけではない。しかしほぼ日手帳はもっぱらプライベート用の手帳として使っており、仕事のことはほとんど書いていない(書類提出期限とかは書いている)。よく手帳術で仕事とプライベートでペンを色分けしようと言われているが、私の場合は手帳やノートを仕事とプライベートで分けて使っているので、色分けの必要がない。
ちなみに何故ボールペンではなく万年筆なのかといえば単純に私が使いたいからである。お気に入りのペンを手帳の相棒としておけば、おのずと手帳を書くことも増えてくるのだ。

「何故手帳が続かなかったのか」を振り返ることはあっても「何故この手帳が続けられたか」を振り返ることはあまりしない。ということでこの記事がほぼ日手帳だけでなくほかの手帳に関しても「続かない」と悩んでいる方の参考になれば幸いである。

残花少尉の『土下座』

双亡亭壊すべし』においては「赦す」ということが重要なファクターとして存在している。それは過去に過ちを犯した自分を「赦す」ことであり、そして自分に対して危害を加えた相手を「赦す」ことであった。

呪詛は身を怨念に浸し、全霊を込めて行うものじゃ。
それを解くのに、この世で一番行い難いことをせねばならんのは道理じゃろう。
すなわち、人にとって一等、難しいのは害を与えたものを――

「赦す」こと……
双亡亭壊すべし 第二十巻)

帰黒の育ての親である瑞祥は、彼女に「子腐」という言霊封印をかけていた。それは帰黒の強大な力を封じ込めるためであった。そのため瑞祥は帰黒に「お前は醜い」といい続けた。帰黒自身はかなりの美少女なのだが、瑞祥の「言霊封印」のせいで自分自身を醜いと思い込み、自己評価も低くなり、いくら周りが綺麗だとか美人だと言っても信じられなかった。育ての親にかけられた言霊で彼女はずいぶんと苦しんだ。

帰黒は瑞祥からの謝罪に対して「御赦しいたします」と涙を浮かべた。彼女は本心から瑞祥を赦したのだが、前述の瑞祥の言葉の通り「害を与えたものを赦す」というのは困難なことだ。現実には被害者は加害者を赦そうとはまず思わない。加害者側が反省し「赦してくれ」と和解を求めるのならば歩み寄れるのだが、加害側が何も反省せず、悪びれもしていないのであればなかなかそうはいかないのが普通だ。

泥努と残花少尉の場合はどうだろう。昭和7年に515事件の犯人を追って残花少尉は部下たちと双亡亭に突入した。そこで泥努との再会を果たすのだが、部下たちは泥努が描いた肖像画たちに引き込まれて人ならざる者に変容させられ、自身も絵から脱出するために全身の皮膚を失うという大怪我を負った。しかし泥努としては幼馴染に対しての悪意など一切なく、ただ幼い頃にした「一緒に龍宮城に行く」という約束を果たしてほしかっただけなのだ。だが残花少尉を絵に引き込むときの泥努の歪んだ笑みが「嗤った」ように見えたことや少尉自身が「約束」を忘れていたこともあり、彼の真意は幼馴染には通じなかった。(とはいえ二十三巻のあの件を読み返す限り大切な約束というよりは在りし日の日常の一コマのやり取りといった具合なので少尉が覚えてなくても無理もない。というかそんな雑談みたいなやり取りをずっと覚えていた泥努さんエ…)残花少尉は信頼していた部下たちを全滅させ、自身にも大けがを負わせた泥努に復讐を誓い、帰黒の霊水で傷をいやした後で彼女を相棒にして再度双亡亭に乗り込んでいったのである。

繰り返すが泥努自身には残花少尉に対して悪意があったわけではない。むしろ逆で、少尉が双亡亭にやってきたこと、彼と再会できたことが嬉しかったのだ。しかし残花少尉に与えた『害』は瑞祥が帰黒に与えたそれとは比較にならないものであろう。凧葉の「交通整理」によって泥努の笑顔を誤解していたことを知り、そして幼い日に交わした約束を思い出した残花少尉だが、大切な部下たちを全滅させて、自身に大怪我を負わせた相手を赦せるかどうかは別問題だからだ。

しかし残花少尉驚くべき行動に出た。なんと泥努にたいして「すまなかった、由太郎」(第二十三巻)と土下座をしたのである。約束を忘れ、笑顔の意図を誤解したことへの謝罪なのだろうが、客観的に見れば少尉自身は何も悪くなく、寧ろ作中においても泥努の最大の被害者といってもいい。おまけに泥努は凧葉の言葉に対して「お前の妄想にすぎん」と言い捨て、少尉が約束を思い出しても「気安く話しかけるな兵隊」と反省どころが悪びれた様子もなく、拗ねた子供のような態度を取っていた。それだけに残花少尉の土下座と幼少期で止まっているような泥努との「約束」を果たすと宣言したことが際立ってくる。幼馴染に絆された部分もあるかもしれないがそれにしたって器がでかすぎるだろうこの人。
泥努が門を開けば大量の侵略者たちが地球にやって来る。そのため残花少尉は自身が約束を果たすことと引き換えに、泥努にも侵略者の門を開かない約束を取り付けた。彼は世界を守るため、そして泥努のために瑞祥曰く「この世で一番行い難い」ことをやってのけたのだ。残花少尉は竜宮城行を止めようとする凧葉に「武士に二言は無い」とほほ笑むのだが、その時黒く塗りつぶされた目に光が戻っていた。

残花少尉は本人も自覚しているが「短気で融通が利かない」ところがあり、当初も確かにすぐに頭に血が上ってカッカしている場面が見られた。しかしきちんと説明すれば話が分かる人物でもあり、頭を狙撃された緑朗を気遣ったりする優しさを持っている。だからこそ国籍も時代も違う他の破壊者たちと共闘することもできた。少尉は最終的に帰黒と共に元の時代に帰ったのだが、このあと待っているのは第二次世界大戦である。その後彼は一体どのような運命をたどっていくのだろうか。果たして軍人として生きるのか、それともこれまでとは全く違う別の人生を歩むのか。そもそも過去の双亡亭はどうなったのか。それは今のところわからないが、いずれにせよ彼はまだ20代であり、人生これからという年齢でもある。いかなる困難が待ち受けようとも、帰黒と共に幸せになってもらいたいものである。

よっちゃん残ちゃんと縁側の家

ここ最近双亡亭考察もといよっちゃん残ちゃんの幼馴染考察しているのだが、一応断っておくとあくまでもこれは私個人の考えというか妄想である。(過去のカラマーゾフ考察もそうだけど)。作者の意図とは違う読み取り方をしている可能性もあるし、考察そのものが外れている可能性もある。後で「実はこういうことだったんだ」と公式側から明言されたら自分の考察がひっくり返ることは大いにある。ちなみに連載当時もあれこれ考察していたのだが、その半分ぐらいは残念ながら外れていた。

まあ、吐き出しがてら色々好きかって書いてしまうわけだけど…。

ということで今回もよっちゃん残ちゃんのことを書きたい。

泥努=由太郎は生まれつき物事が色で視えるという能力を持っていた。そのため周囲の人間に気味悪がられ、両親から座敷牢に入れられかけた。そこを救ったのは同じ能力を持つ姉のしのぶだった。以降由太郎にとって姉は大きな存在になった。彼に絵を描くことを教えたのもしのぶである。

そして坂巻一家は由太郎の治療という理由で岡山に引っ越した。そこで出会ったのが幼き日の黄ノ下残花であった。由太郎は能力を隠して普通の子供のふりをしていたため、残花少尉も由太郎能力についてはおそらく知らなかったと思われる。泥努はモデルとして連れてきた紅に自身の過去を語る時、残花少尉については「良い仲良しもできたしな」(第十二巻)と語っている。ちなみに泥努の目は基本ハイライトが入っていないのだが、このコマの泥努は目にハイライトが入っている。(あとは姉のことを語る時もハイライトが入っていた)
おそらく泥努(由太郎)にとって、残花少尉は初めて出来た友達だったのではないかと思われる。そしてしのぶに次いで彼が幼い頃に心を開くことができた存在だったのだろう。由太郎は幼い頃あまり笑わなかったらしく、「笑うのは己がいる時と、しのぶさんがいる時だけ」(第二十三巻)と残花少尉が回想している。(しかししれっと自分をしのぶさんと同格扱いしているようにも取れてちょっと笑ってしまう)
先述の通り、由太郎は物事を色で視る能力を持っていた。それで思っていることやその人物の過去が見えてしまうのだという。つまり残花の考えていることや感情も由太郎にはおそらく普段から筒抜けだったのだろうと思われる(実際当時彼がある女の子に恋をしていたことを見抜いていたし、姉を殺したところも目撃して逃げる残花の背中に由太郎を心配する色を見ていた)。そんな由太郎が「良い仲良し」といい、姉以外で彼が笑う存在であり、紅から「お前、友達は?」と訊ねられた時に真っ先に名前が出てくる(第十六巻)残花は本当に仲の良い「友達」だったのだ。それも双亡亭=竜宮城で共に永遠を生きたいと思うほどに。だが再会した時の笑顔が気持ち悪くてすれ違いとなる。

一方で残花少尉にとっても由太郎は大切な友達だった。残花少尉の家は代々軍人の家系であり、父親も厳しかった。家に帰れば厳しい剣術修業が待っていたこともあり、由太郎と過ごす時間は「本当に大切だった」「心の安らぎだった」(第二十三巻)という。人は生まれも育ちも性格も正反対なのだが、一体どういう経緯で仲良くなったのかは少し気になるところではある。

最終巻の249話、泥努は残花少尉やタコハとの別れの後、消滅していく双亡亭の中で「双亡亭壊す可し」と凧葉から貰った筆を構えて穏やかに言うのだが、その前に緑朗が「双亡亭が縁側のある小さな家だったら」という話をしている。それを聞いた泥努が思い浮かべるのは、自宅の縁側で絵を描く由太郎、彼を迎えに来た残花、2人のために切ったスイカを運んできた姉…という在りし日の、何気ない日常の記憶だった。由太郎が心を開き、笑顔になれる2人が傍にいる。それは確かに泥努にとっては大切な、幸せな思い出だったのだ。