月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

残花少尉のトラウマと泥努の「期待」

双亡亭壊すべし」の最大の敵である「侵略者」は主である坂巻泥努が描いた肖像画の中にその人物を引き入れ、過去のトラウマをもとに心を破壊し、その身体を乗っ取っている。泥努曰くこれらは「あいつが勝手にやったこと」らしく、こうした侵入者の排除にはあまり積極的に関わっていない(本人的には絵が描ければいいので肖像画を書いたら後は我関せずというところなのだろう)。ただし残花少尉に関しては泥努が「一緒に龍宮城に行く」という約束を果たさせるために自ら絵の中に引き込ませている為「あいつが勝手にやった」という言い訳は通用しない。

ところでその残花少尉のトラウマ、というか絵の中に引き込まれて以降の描写なのだが、読み返してみると他の破壊者たちと比べるといくつか相違点が見られる。
まずトラウマを見せられるまでの描写だ。凧葉や紅たちを見てみると、絵に引き込まれたらトラウマに至るまでの過去を追体験させられているのだが、残花少尉の場合はまず幸せだった頃(尋常小学校時代)から追体験させている。そこから年月が流れ、由太郎の姉しのぶが東京に行くことになり、由太郎が泣きじゃくる場面に遭遇した残花。この後に彼は「あの夜(由太郎がしのぶを絞殺した夜)」の記憶を見せられるのである。幸せな夢は終わり、地獄を見せられるのだ。

ただこれは残花少尉に限った話ではなく『侵略者』が相手の心を壊すための揺さぶりの一つと言える。というのも実は同じことを10巻で青一もやられている。まず家族との幸せな記憶を見せられ、そこから異星で45年戦った記憶、母親が溶けて消える記憶を見せられる。そこから家族たち(侵略者)が「お前のせいだ」と攻め立て、彼の心は壊されて行ってしまうのだ。
余談だが青一を救おうとして絵に飛び込んだ残花少尉を『侵略者』たちは動けないようにがんじがらめにし、口や目から侵入することを試みるのだがこれはかつて「乗っ取ろうとしたら皮膚ごと引っこ抜かれた」ことを踏まえての対応なのだろう。ちゃんと学習していて偉い(?)。

二つ目の相違点は「トラウマの恐怖が一切増幅されていない」ことだ。『侵略者』は過去のトラウマを抉って心を壊すのだが、ただ『事実としてのトラウマ』を見せるのではなく、それを増幅させて相手に恐怖を与えるのである。例えば自衛官の宿木の部下である森田のトラウマが「増水した雨で流されそうになっていた子犬を見棄てた」ことだったのだが、子犬は少年だった森田の足を掴み「よくも己を殺したな…」(第三巻)と巨大化し、暗闇の洞窟のような眼を森田に向けた。森田の心はこれで壊されてしまい『侵略者』に乗っ取られてしまった。森田は作中でも「いい人」だと言われており「侵略者」はその子犬を見棄てたという罪悪感を突きトラウマを増幅あるいは脚色させ、恐怖を与えたのだ。(森田に限らずこの「トラウマ増幅」は作者の絵の迫力もあってものすごくホラーなことになっている)
この「トラウマ増幅」は前述した青一の家族に侵略者が擬態し、責め立てていたのもそれにあたる。しかし残花少尉の場合はそれらが一切なく、ただ「友人が姉の首を絞めていた」という「過去の事実」をそのまま見せられていたのだ。由太郎が姉の首を絞めた真相は12巻で明かされることになるのだが、首を絞めたのも「のうざんちゃん、幸せそうじゃろう」(第八巻他)と歪んだ笑みを浮かべたことも『侵略者』の脚色が一切ないのである。『侵略者』側がその必要がないと判断したのか泥努側が偽の由太郎やしのぶを演じさせることを是としなかったのはか定かではない。

三つ目はトラウマの「種類」である。「双亡亭壊すべし」の登場人物が抱えるトラウマは「自身に降りかかった災厄」や「過去に行ってしまった行為や言葉への罪悪」に大きく分けられる。前者は父親から虐待を受けていた凧葉や父親としては『毒親』となってしまったアウグストの娘ナンシー、かくれんぼで狭い場所に閉じ込められた修験者の朽目、「化け物の子」と言われつづけきた鬼離田姉妹がそれにあたる。後者は不注意で緑朗に火傷を負わせてしまった紅や、仕事優先で娘をないがしろにしてしまったことで娘を火事で失ったマーグ夫妻、前述の子犬を見棄てた森田もそれだ。青一の場合は前者なのだが『侵略者』は家族のふりをして罪悪感と自責の念を植え付けさせていった。汚い流石しのちゃん汚い。またモブではあるが「大事な場面でバントをしなかった」ことで乗っ取られてしまった警官もいる。

残花少尉の場合はどうだろう。そもそも彼が由太郎の「姉殺し」を目撃してしまったのは偶然のことである。残花は由太郎を夏祭りに誘おうとしただけなのだ。残花はあまりの恐怖に逃げ帰ってしまうのだが、彼自身はそのことをずっと悔いており、いつか由太郎に謝りたいと思っていたことが後に判明した。そう考えると後者よりと言えるだろう。子供のころは喜怒哀楽がはっきりしておりよく笑っていた残花は軍人になって無駄に笑わなくなった。もっと言うと作中でも「怒り」以外の感情の起伏が抑えられており、下手をすれば泥努の方が顔芸表情豊かである。軍人になって矯正されたのもあるだろうが、こうした過去のトラウマ、つまり「恐怖に負けて友を見棄てて逃げた」こともやはり影響を与えていたかもしれない。(ところでいろいろ書いていたらふと少尉と紅って似ているのでは?と思ったのだがこれはまた次回の記事で書いてみたい)

とこのように残花少尉の「トラウマ」は実質「坂巻泥努の過去:出題編」なところがある。泥努は「絵」に引き込まれる残花少尉に対して「お前はただ絵の中に行って帰って来るだけさ」「前と違うお前になってな。ただそれだけだよ」(第八巻)と言っていたのだがいくら少尉に「一緒に龍宮城に行く」という約束を果たしてもらいたいからといってわざわざトラウマを見せて『侵略者』に乗っ取らせるのはどうなんだ?と疑問に思う。おそらくだが泥努としては残花少尉にも自分と同じように『侵略者』を支配して不老不死の身体を手に入れてもらいたかったのではないだろうか。仮に残花少尉『侵略者』に乗っ取られた場合、中身は残花少尉らしく演じている『侵略者』でしかなくなってしまうため、「違う!」と癇癪を起し、場合によっては「お前は死のうか」(第九巻)と「処分」された可能性もある。泥努が描いた幼い姉を模した「しの」のひどいパワハラじみた扱われ方や二十三巻で泥努に対する対し怒りと憎しみの色しか視えなくなっていた残花少尉を「ただの兵隊に成り下がった」(第二十三巻)と吐き捨てているところを見ると、見た目だけが残花で中身が別物では意味がないのだろう。おそらく泥努にとっては「子供のころと変わらない『色』を持った幼馴染の残ちゃん」のままでなければ駄目だったのだ。泥努が残花少尉との「約束」を承諾したのは「あの頃の残ちゃんのままだった」と泥努が思い直したからだと考えられるのだ。(だけど少尉が死んだ後に侵略者で生き返らせようとしたがそれは中身が侵略者の別物にならないか?と思わなくもない。泥努は残花の人格を保ったまま生き返らせる自信があったのだろうか)

最終決戦後、泥努は双亡亭を消滅させることを最終的に選び、残花少尉を帰黒と共に元の時代に帰ることを促した。残花少尉は敬礼と共に現代と友に別れを告げ、泥努は彼と凧葉が去ったのちに緑朗に看取られる形で「あと一筆」を残して消滅した。幼い日の一緒に龍宮城へ行くという約束は果たされなかったが、それでも二人の友情が消えたわけではない。どこかの世界では縁側で絵を描く由太郎と彼の隣でそれを見ている残花がいるかもしれない。

『醜い』泥努と『龍宮城』

最終決戦にて泥努が自分を醜い、大嫌いだと思っているとタコハは看破した。彼が双亡亭に閉じこもったのは大嫌いな自分を他者から隠すためであると。
そうなると何故泥努があのようないかにも売れなさそうな絵しか描かなくなったのかが見えてくる。最初は詠座やしのぶの言う「あったかい絵」を否定するためかと思っていたのだが、それだけではないのかもしれない。それは自分自身が嫌いで醜いと思っているからこそ、つまり双亡亭に閉じこもっている「醜い自分」からしか生み出せないからこそ自分一人ではあのような絵しか描けなくなってたのであり、最後の大作であるあの二人の男女が向かい合っている絵も思うように描けず、応尽も90年待たされていたのではないかと考えられる。

だからこそ、同じように自分を「醜い」と思っている凧葉に彼の作品が刺さったのでは無いだろうか。そして凧葉の絵は同じく自分が「嫌い」だと言う緑朗に刺さった。泥努、凧葉、緑朗、この3人は「自己否定」という点では一致しているのである。(余談だが緑朗は青一以外の友達がいなさそうである)凧葉は「あいつはオレなんだ」(第二十四巻)と言っていたが同じ絵描きであると当時に自分を醜悪だと思っている者同士とも言えるかもしれない。そして二人の対決を見守ったのは自分が嫌いだという緑朗なのである。泥努は最後に自分を否定する緑朗に「自分を、誇れ」(第二十五巻)と言っていたが、自己を嫌悪していた男が同じく自己を否定する「弟」に言うのが実にエモいのである。(ちなみに凧葉は大正6年の由太郎を救ったのだが、最終決戦の泥努の逆カウンセリングを受ける前の空っぽで自己否定ばかりしている凧葉だったら由太郎と傷をなめ合うだけで終っていた可能性もあるので『もっと早く出会っていれば』とはならなかったのではないかと思う)

そう考えると泥努が残花少尉に執着した理由も見えてくる。残花少尉は幼い頃、由太郎と過ごす時間が大切なものであり「心の安らぎだった」(第二十三巻)と回想している。その心は色が視える由太郎に当然伝わっているはずなのである。由太郎は少年のころは内気で大人しい性格であり、声も小さく自信なさげだった。彼は色が視える能力のせいで周囲から気味悪がられ、父親から座敷牢に入れられかけた過去があり、そこを姉のしのぶに救われた。そんな過去もあり、泥努は由太郎だったころから、つまり姉を絞殺する前から自分が嫌いだったと考えられる。そのために普段からあまり笑わない子供だったのではないだろうか。もしかしたら自分の能力も内心好きではなかったのかもしれない。何故なら由太郎の能力は美しいものだけでなく見たくないもの、醜悪なものまで見えてしまうからだ(帰黒の味智覚とちがうところは知りたい事象のみを知るということができないところだと思われる)。

そんな由太郎にとって、幼馴染の残花は姉以外で初めてできた「自分を肯定してくれる」存在だったのだろう。哀れみや同情、義理なのではなく本心から自分に友情を抱いてくれている、自分を好きでいてくれる存在だった。悪い奴に苛められたら守ってくれるし、自分が姉の首を絞めているところを目撃し恐怖で逃げ帰っても自分のことを心配してくれる。(能力を打ち明けていたかどうかは定かではないが)自己肯定感が低い由太郎にとって、残花の存在は凧葉とはまた違った意味で救いとなっていたに違いないのだ。そんな残花が由太郎に「オレとよっちゃんと二人で龍宮城に行ったらええんじゃ」(同)などと(たとえ軽口同然であっても)言ったものだから由太郎はたいそう嬉しかっただろう。君と一緒なら龍宮城で何百年経って老いても構わないと言っているのだから。これ相手が女の子だったら俺と結婚しようって言っているようなものですよ。また、物事が色で視えてしまう由太郎にとって、「裏表がない」(byタコハ)残花の『色』は視ていて心地よかったのかもしれない。

だからこそ泥努は自分との約束を思い出さず「怒りと憎しみの色」しか視えなかった残花少尉に激昂したのだろう。残花少尉は二度ほど泥努を「化け物」と呼んだのだが、泥努はそれに対して同じように「何だと?」と怒りをあらわにしている。やっていることは人間離れしているし他者を「人間ども」と言うくせに自分が化け物呼ばわりされたらキレるのかと首をかしげたくなるが、かつて自分を肯定し、好いてくれていた友達が自分を否定するようなことを言えば怒りたくなるのも当然と言えるだろう。(とはいえ泥努は泥努で少尉の部下を全滅させたり少尉に重傷負わせたりと憎まれて当たり前のようなことを散々しているのだが)

ところで泥努にとって『龍宮城』とは何なのだろうか。由太郎が笑うのは残花としのぶがいる時だけだったことを考えるとやはり由太郎にとってはしのぶがいて残花と遊んでいられた尋常小学校時代が一番幸せだったと考えていいだろう。249話で泥努が思い浮かべたあの坂巻家の縁側——絵を描く由太郎とスイカを出すしのぶと彼の家に遊びに来た残花――こそが泥努の『龍宮城』だったのではないだろうか。泥努が双亡亭を消滅させるに至った理由は「絵を描くのに必要のない家だから」だったのだが、同時に自分の『龍宮城』があの縁側にあったことに気付いたからこそ、自作の歪んだ龍宮城でもある双亡亭は壊れても構わなかった、と考えたのではないだろうか。とすれば由太郎は既に残花と二人で『龍宮城』に行っていたのである。
そう考えたら確かに『龍宮城』へ行くのは凧葉でも紅でもなく残花と二人で、でないとダメだったもしれない。残花少尉が泥努を庇って重傷を負った時「お前が死んだら行けぬだろう」(同)とか言っていたので、泥努にとってはほかのだれも彼の代わりにはならなかったのではないか(と言いつつ最終決戦の絵描きバトルみるともう凧葉と龍宮城に行ったようなものだけれど)。

…と、今回もまた好き勝手妄想ばっかりしてしまった。あくまでこれ私の解釈なので作者や公式の解釈とは違っている部分が多々あると思う。本誌で完結してから半年たったので、やはりファンブックみたいなものを出してほしい(n回目)。

双亡亭がない世界と幼馴染二人の関係について

最終回で凧葉と青一は大正6年の世界へと向かった。凧葉は13歳の由太郎と二か月間絵を描き続けた。その結果由太郎は泥努にはならず、双亡亭は作られない未来ができた。本編世界の泥努は消滅したが別世界の由太郎は救われた。落としどころとしてはうまいとは思う。

だが実のところ私はこれに3つのモヤモヤを抱えてしまっている。(※あくまで個人の感想です)

一つは月橋詠座の前妻と子供の件である。しのぶの恋は実ったようだが、詠座は元妻と離婚した。見方を変えれば詠座は愛人と一緒になるために妻と子供を捨てたも同然なのである。もちろん詠座と妻との関係が冷え切っていた可能性もある。そもそも詠座がしのぶに惹かれたのは「絵が好きだったから」(第十二巻)だ。ということは詠座は妻とはそのあたりの価値観がまるで合わなかったのではないだろうか。妻から三下り半を突き付けられた、或いは最初から妻と別れていた、とかであればまだ擁護できるのだが…。

2つ目は「おじいちゃんの星」だ。青一が双亡亭が建つ予定地(?)である沼を掘り返したため、そこにいた「侵略者」が消滅した。だが彼らの本姓は遠い宇宙のかなたにあり、そこでは健在のはずなのだ。そして彼等が「食料」としていたのが「おじいちゃんの星」である。青一の家族は旅客機ごと「侵略者」の星に飛ばされた。彼等を救ったのが「おじいちゃんの星」であるが「おじいちゃん」はもともと感情を持たない(昔はあったらしい)液体生命で静かに滅びを待っていた。そこに青一が怒りの感情を教えたことで「おじいちゃん」たちは「侵略者」と戦うことになったのだ。
双亡亭のない世界で青一たちは平和に暮らすだろう。しかし「おじいちゃん」は「侵略者」に一方的に食われるのみとなってしまうのではないだろうか。その「侵略者」側も寿命を迎えていたようなので滅びる運命かもしれないが。

そして3つ目は残花と由太郎の関係である。しのぶの件がなければ二人はずっと親友同士でいられるではないか?と私も思った。しかし本当にそうだろうか。寧ろ私は逆になってしまうのではないかという懸念がある。

改変世界の残花と由太郎の友情は自然消滅するのではないか?と

というのも普通に考えて趣味も価値観も違う二人が大人になっても友人であり続けられるのは難しいと思うからだ。幼少期はよかったかもしれないが、成長するにつれて幼い頃は目立たなかったお互いの「ズレ」が生じてくるだろう。現実でも子供のころ仲良かった友達と大人になるにつれて疎遠になることなどよくある話だ。つまり姉の件があろうとなかろうと由太郎と残花の友情は子供時代で終わりを告げていた可能性の方が大なのだ。下手をすれば高等小学校を卒業すればお互いに二度と会わないかもしれない。

現に最終回で由太郎は自分の絵を見てもらいたい相手に友人であるはずの残花の名前を挙げていない。この時点で二人の距離は既に遠くなったのでないか?と穿ってしまう。由太郎に絵描き友達ができるにつれ、由太郎の中で残花の存在は外へ追いやられる。由太郎に残花という存在は必要なくなり、残花は自分以外の友達ができた由太郎のことを嬉しく思いつつも遠巻きに見ながら寂し気に距離を置いていく。そんな未来を想像してしまうのである。
だがそうだとしても仕方がないことだろう。凧葉風に言えば「人なんかいなくなるものだよ」(第二十五巻)だからだ。そうやって人は古い人間関係と別れ、新しい人間関係を築き、そしてまた別れを繰り返すのだ。たとえ古い友人との友情が消滅したとしても、それは互いの懐かしい思い出となって生き続ける。絵描きではない旧友に執着するよりも、同じ絵描きである新しい友人と出会うことの方が大切なのだろう。絵描きと分かり合えるのは同じ絵描き以外にあり得ない…ということなのかもしれない。
ちなみに「龍宮城」の話は尋常小学校のころなので大正6年より前の話なのだが、これも由太郎的には「そんなことも言ってたなあ」で終る話になったかもしれない。残花と何らかの形で再会した時に昔を懐かしむ話のネタになるかもしれないが、それだけで終わるだろう。というかそれが普通なので本編世界の泥努が執着しすぎだし残花少尉が馬鹿真面目に「約束」を果たそうとすること自体がおかしかったのだと思う。…うん、好きだけどね。

創作物にしろ歴史にしろ古今東西同性の幼馴染というのは大人になってから最終的に決別ないし死別していることが多い。それは泥努と残花少尉も例外ではなかった。しかしもしかしたらどこかの世界では、縁側で絵を描く由太郎の横で、それを見守る残花少尉の姿があったかもしれない。

坂巻しのぶの子供考と泥努の幸せな時代

当ブログの双亡亭考察は主に双亡亭の主坂巻泥努と彼の幼馴染黄ノ下残花の関係についてなのだが、それにあたってwikipedia先生にもかなりお世話になっている。

例えば学校制度も現代と昔ではずいぶんと違っている。1904年生まれの由太郎と残花の時代では、尋常小学校は6年、高等小学校は2年である。つまり現在と同じように12歳で小学校を卒業し、中学校にあたる高等小学校に進学する(残花少尉が小学校六年生の緑朗を指して「尋常小学校の子供」と言っていたことを考えると泥努と残花少尉が通っていた当時は六年制と二年制で合っていたとは思う)。しのぶの件は由太郎が13歳の出来事だったので、高等小学校1年生の時ということになる。現代でもそうだが小学校から中学校に入ると環境がそれまでのものと激変する。残花は軍人になるための修業が本格化し「由太郎と遊ぶことが少なくなった」(第八巻)。由太郎の姉、しのぶは「絵が上手くなりたい」と東京の学校へ行くことになった。由太郎にしてみれば仲のいい友人とはほとんど遊べず、姉は遠くへ行ってしまった。この環境の変化は多感な思春期の由太郎にはだいぶストレスになったに違いない。更に姉は画家である月橋詠座と恋に落ちた。父は姉を連れ戻したが、姉は病にかかり酷くやつれてしまっていた。その姿に由太郎はショックを受け、詠座に激しい怒りと憎悪を向けるようになった。その憎き月橋詠座の子孫が『双亡亭壊すべし』の主人公、凧葉務である。

さて、一部では詠座の子孫である凧葉についてある憶測がされていた。それは「凧葉が姉しのぶと詠座の子供の子孫」だという説だった「しのぶは産後の肥立ちが悪くて病気になり、赤ん坊も実家に取り上げられた」という説が連載当時まことしやかに語られていた。確かに昔であれば出産後に母親が命を落とすということも珍しくないだろう。また、詠座の子供である月橋龍彦(青一とマコトの『おじいちゃん』が彼に当たると見られている)は凧葉家に養子に入ったために凧葉龍彦になったのだという。(名前に龍宮城の『龍』が入っているのは果たして偶然だろうか…)養子に出された有名画家の子供というのは色々と訳ありな匂いがする。妾となったしのぶの子供だから養子に出された、と考えることもできるだろう。

しかしこの説は果たして成立するのだろうか。前述のとおり、由太郎が姉を殺したのは13歳の時だ。8巻にて残花が東京へ行く姉に対して悲痛な声を上げて引きとめようとする現場を目撃したのは父親による厳しい剣術修業の後である。このころ残花は高等小学校に進学している。泥努の生れは1904年であり、姉の件は大正6年、1917年の出来事である。つまりしのぶが東京へ行ったのは由太郎が高等小学校に入学して間もないころだと考えられる。大正6年の7月に由太郎が余命幾ばくも無くなったしのぶに会いに来た詠座を刺した。しのぶが父親に連れ戻されるのはその少し前である。しのぶから来た手紙を読む由太郎のページには、蝉が鳴き、向日葵の花が咲いているコマがあった。
ということはしのぶが東京へ行ってから父親に連れ戻されるまでの期間は多く見積もっても三か月程度ということになる。この間に子供を作って出産するなど先ず不可能だ。実はしのぶは前々から詠座にあっていたという可能性もあるがそれでも子供は産んでいないだろう。何故ならそれならばしのぶのお腹はだいぶ大きくなっているはずだからだ。つまり『凧葉=しのぶの子孫』説は成立しないのだ。

ところで第十二巻で紅が泥努に見せられた記憶だと、絵を破られ、ぼろぼろになって泣いている由太郎がいる。声をかけるしのぶに「上級生に殴られた」(第十二巻)と泣く由太郎。だがこのコマ、完結した後に読み返すとある疑問が浮かぶ。残花がいないのだ。
残花は昔、いじめられていた由太郎を助けるために、一人いじめっ子たちに立ち向かった。残花は由太郎を痛めつける彼らを下駄で殴り飛ばした。いじめっ子たちは退散したが、多勢に無勢ということもあって残花も無傷ではすまず、怪我だらけとなった。残花は泣いていた由太郎に手を差し伸べ「あんな奴らおれがまた、やっつけてやるわい」(第二十三巻)と笑顔を浮かべた。
十二巻の回想でも由太郎は虐められていた。しかし彼の近くに残花の姿は無かった。由太郎が苛められたら裸足で助けに来るような残花が、である。何故だろうか。

それはおそらく二十三巻で泥努が回想した記憶が尋常小学校時代、十二巻で紅に見せた記憶が高等小学校のころだったからではないかと考えられる(姉のしのぶがまだ坂巻家にいたことを考えるとおそらく高等小学校に入学して間もない頃だろう)。前述のとおり残花は高等小学校に上がったころから父親からの剣術修業が苛烈を極めるようになり、由太郎と遊ぶ時間も減っていった。もしかしたら実のところクラスも分かれていたかもしれない(残花が由太郎を夏祭りに誘うために坂巻家を訪れた時「ひっさしぶりに」と言っていたが本当に滅多に遊ぶ時間ができなかったのだろう)。それでも登下校は一緒にいたであろうが、下校中に原っぱに行ったり虫を取りに行ったり神社の境内で相撲を取ることも無くなっていったのだろう(現代でも塾や習い事があるために友達と遊ぶ時間が減ることはよくある)。これは私の想像だが、あの時残花は剣術修業のために先に帰ってしまい、残された由太郎は独り孤独に姉の絵を描いていたのではないだろうか(姉の絵を描きたかったのはもちろんだが、ひょっとしたら残花と遊べない寂しさを紛らわしたかったかもしれない)。そこを上級生に見られてしまい、由太郎は絵を破られ、殴られてしまった。いつも自分を助けてくれた残花は傍におらず、由太郎は独り孤独に泣きじゃくった。しのぶがあの場に来たのはもしかしたら帰ってこない由太郎を心配したのかもしれない。…まあ妄想なんですけどね。

余談だが十七巻と十八巻で残花少尉は母屋に突入後に残花班との最後の戦いに挑むのだがその舞台が尋常小学校の教室を逆さまにした場所だった。そこに佇む憲兵隊はかなりのホラーな絵である。残花少尉の居合と殺陣があまりもカッコよすぎるのでそこばかり目が行ってしまうが、私としてはなぜ泥努がわざわざ双亡亭内にこんな部屋を作ったのかを考えてしまう。それは大好きな姉や仲良しの友人と一緒にいられた尋常小学校時代は泥努にとっても幸せな時代だったからではないだろうか。残花少尉は「由太郎との時間は本当に大切だった」(第二十三巻)と回想しているが、泥努にとっても残花との時間はかけがえのないものだったことは間違いない。何せ幼い由太郎が笑うときは幼馴染の残花か姉のしのぶが一緒にいる時だけだったのだ。小学校の教室が残花との思い出の場所の象徴でもあるとすれば、上下逆さまにしたのはその幸せだった思い出が姉を殺したことをきっかけに反転してしまったからではないか、と深読みしたくなる(単純に絵を描くために脳を揺らしたいからかもしれないが)。

…と、話がわき道にそれてしまった。

今回当時の学校制度や作中で判明している時系列をもとに考察してみたが一つ問題がある。『双亡亭壊すべし』はあくまでもフィクションの漫画であるため、過去の出来事や制度も必ずしも史実通りとは限らないという点だ。現に作中でも5・15事件で襲撃された犬養首相以後の総理大臣は戦前の大日本帝国時代から架空の人物となっている。(流石に実在の総理を絵の犠牲者にするわけにもいかないだろうから当然だが)もしかしたら由太郎と残花の時代の学校も、1908年から施行された六・ニ制ではなくそれより前の四・四制を採用している可能性もある。そうなるとしのぶが東京へ行って帰ってくるまで少なくとも一年は余裕ができる。この間なら子供を作って産むのは可能だ。しかししのぶは精神が病んでいたとはいえ子供のことなど一切口にしておらず、由太郎も色でそれを見た様子がない。また、実は本誌において五頭応尽に関する時系列がごちゃごちゃになっていた経緯がある(単行本でその後修正された)。

うん、やはり公式ファンブックを出してもらえないものかと思う。

凧葉真琴と坂巻泥努

双亡亭壊すべし』における最大の伏線回収はおそらく黒子衣装に身を包む少女、帰黒の正体に関することだろう。
詳しいことは本編を参照にしてもらいたいのだが、青一の『キョウダイ』である『マコト』の容姿が泥努そっくりだったこともあり、マコト=泥努ではないかという考察がなされたことがある。私も正直最初はそうかなとは思ったが読み進めると「あー!」となった。

ということで青一のキョウダイもとい妹、帰黒(本名:凧葉真琴)と坂巻泥努に関する考察記事を書いてみたいと思う。実はこの二人、容姿もさることながら、様々な共通点を持っていることに気付かされる。それを一つ一つ見ていきたい。

共通点①全身黒の衣装
帰黒はもともと白水白城教の巫女であったが、残花少尉と共に双亡亭に突入する際は前述のとおり、黒子衣装に身を包んでいる。しかもぴっちりしているのでその分巨乳や尻が強調されてエロい。泥努も黒のタートルネックに黒のパンツという全身タイツみたいな服を着ている。

共通点②名前が二つある
帰黒という名は彼女の育ての親である白城瑞祥がつけたものであり、本名は凧葉真琴だ。坂巻泥努も本名は『由太郎』であり『泥努』はおそらく彼自身がつけた雅号だと思われる。ちなみにこの名前が二つある登場人物は帰黒と泥努、そして五頭応尽(本名:応吉)の3人であり、この本名を呼ぶのはいずれも彼等と近しい人物である(マコト→兄の青一、由太郎→幼馴染の残花、応吉→父親の是光)。

共通点③色や味で物事を知る
泥努は昔から物事が色で視える体質であり(姉しのぶは音楽も聞こえるらしい)この能力のために座敷牢に入れられかけた。帰黒も味智覚という能力を持っており、空間を舌で舐めることで様々なことを知る。帰黒の味智覚は霊能力の類ではないというが、いつごろからこの能力が使えるようになったのかも不明だ。いわゆる『共感覚』の一種である可能性がある。

共通点④年の離れた兄や姉の存在
泥努には7歳年上の姉、しのぶがいた。帰黒も6歳年上の兄、青一がいる(青一が12歳で成長が止まっている為外見的には年齢が逆転してしまっている)。泥努は弟であり、帰黒は妹だ。泥努が姉に対して重い愛情を抱いていたが、帰黒も青一のことが大好きであり、兄が無抵抗に傷つけられた時は激しい怒りをあらわにしていた。ちなみにおしとやかなお姉さんのような振る舞いを見せる帰黒だが、記憶が戻った後は青一の前では幼い妹に戻るというギャップを見せる。年上の妹あざとすぎる。

共通点⑤自分を醜いと思っている
帰黒は育ての親である瑞祥から(彼女の強大すぎる力を封印するためとはいえ)「お前は醜い」という「子腐」の呪いをかけていた。そのため帰黒は誰もが綺麗だと認める美少女であるにもかかわらず自分を「醜い」と思い込んでおり、頭巾で顔を隠していた。一方泥努はそのような素振りを見せでいないが(寧ろ帰黒と違って自信に満ち溢れているように思えた)凧葉から「アンタも自分のコト醜いって思っているハズなのさ」(第二十五巻)と看破された。泥努は「嫌いで嫌いで嫌いな自分を隠すために〈双亡亭〉に引きこもった」(同)と。帰黒は自分の顔を隠していたが、泥努は自分そのものを世界から隠したのだ。
ちなみに泥努の顔立ちは繊細な美青年といった感じなのだが凧葉から「男前」と指摘されるまでは自身の容姿についてはまるで自覚がなかった。このあたりも帰黒と共通しているといえる。

共通点⑥黄ノ下残花の存在
過去の記憶を失い、白水白城教の巫女として瑞祥に12年間育てられた帰黒は18歳の誕生日を迎えた夜、血濡れの残花少尉と出会い、彼と共に双亡亭に行くことを決意した。そしてともに行動するうちに、彼に対して恋愛感情を抱くようになる。その想いを自覚した帰黒は「子腐」の呪いを解かれて力を取り戻した後、残花少尉と泥努が話し合う時間を作るため、たった一人で自衛隊の艦砲射撃を受け止めた。
他方泥努は幼馴染である残花少尉に対して興味なさげ…かと思いきや幼い頃に話した『一緒に龍宮城に行く』(第二十三巻)という約束を90年近く覚えており、それを心の支えとしていた。かつて世界を周り戦争や飢餓と言った現実を見てきた泥努は「この世界は醜悪なのだ」(第二十五巻)と言い、更に凧葉曰く自分を醜いと思っていた。そのた愛する姉であるしのぶを殺めた後、凧葉や紅と出会うまで泥努にはかつて龍宮城に行こうと約束した(たとえそれが軽口レベルであっても)幼馴染しかいかなったのだ(おそらく残花が逃げた時に自分を心配した色を発していたのも大きいだろう)。泥努は残花少尉が幼い時に話していた黄ノ下家の家訓「散るを追うことなかれ 残りし花を愛でるがよし」(同)を覚えていたのだが、泥努にとっても残花は「残りし花」だったのかもしれない。

余談だが第248回で双亡亭を消滅させることを決めた泥努に、残花少尉は「己と共に、元の時代に帰らぬか?」(同)と誘った。しかし泥努は「あの時代はすでに生きた」(同)と穏やかにほほ笑んだ。その後に泥努の口から出てきたのが上記の家訓である。友と龍宮城で永遠に生きることを望んでいた彼は、最終的にその友の手を離すことを選んだのだ。一方帰黒は兄青一に背中を押され、元の時代に帰っていく残花少尉を追いかけた。去っていく相手を追う者と手放す者、この対比を考えるとなかなか面白い。
ちなみにだが巻末の描きおろしで残花少尉は帰黒から「ジンギスカン食べたかった」という心の中を味智覚でばれている。泥努は幼い頃、おそらく色で残花がミッちゃんという女の子に恋をしていたことを見抜いていた。残花さん、心の中読まれすぎだろうと思うが、彼自身は「裏表のない人」「真っ直ぐな気骨の人」(byタコハ)であるため、心が読める2人にとっては居心地がよかったのかもしれない。

と、話が少しそれたが、帰黒と泥努は作中でも絡みが少ないが、こうして見ていくと様々な共通点がある。帰黒自身は絵のことはどうなのかわからないが、兄を持つ妹と姉を持つ弟という似た立場である2人は意外と話してみると仲良くなれたのではないか?とも思う。

泥努と『時の廊下』

以前「泥努が本当に待っていたのは凧葉ではないのか?残花少尉との幼馴染関係はいらなかったのでは?」という記事を書いたのだが、そうなると昭和7年、泥努が残花少尉と再会し、絵に引き込んだときの『笑顔』の理由が説明つかなくなる。某所ではペンネームを名乗ったのに空気読まずに本名ばらされたからとかネタで言われていたが素直に読めば本編で凧葉が泥努に言った通りの解釈でいいのだと思う。…やっぱり公式でファンブックとか出してもらえないだろうか。

双亡亭という場所は外と時間の流れがおかしくなっており、また時代と時代が繋がっている。この時代と時代をつないでいるものが作中では『時の廊下』と呼ばれていた。
この『時の廊下』が出てくるのは第十九巻であり、母屋に突入する破壊者たちが陽動作戦を行っているうちに、凧葉と帰黒の2人が『時の廊下』で一度昭和7年に行き、また同じ道をたどって現代に戻ることで泥努がいるアトリエに直接上がろうというものである。

この『時の廊下』について再度触れられるのは最終巻の249回。凧葉は残花とともに蘇生した帰黒に「泥努がもっとも後悔していたりする『時』に伸びている『時の廊下』」を探すように頼む。凧葉は『時の廊下』について『泥努の思いの強い時間から今へとつながっている』(第二十五巻)と推測した。その泥努が強く後悔している『時』とは大正6年、由太郎が病気になって帰ってきた姉、しのぶに会いに来た月橋詠座を刺した時だった。この時のしのぶは精神にも異常をきたしており、愛する詠座に会いたがっていた。おそらく泥努は姉と詠座を会わせなかったことを強く後悔していたと思われる。

さて、作中で出てきた『時の廊下』でつながっている『時代』(つまり、泥努の思いが強い『時間』)は2つ。一つは最終回で凧葉が青一とともに向かった大正6年、もう一つが昭和7年である。
昭和7年といえば残花少尉と帰黒の時代であり、2人は双亡亭に再突入する際、この『時の廊下』を通って90年後の双亡亭にタイムスリップしてしまった。大正6年が「泥努が強く後悔している時」ならば昭和7年は何か。515事件とか応吉(のちの五頭応尽)が仕え始めた時とかあるのだが、一番大きいのは泥努と残花少尉の再会であろう。つまり泥努的には「幼馴染と再会できてうれしかった」時である。泥努は残花と幼い頃に話した「うらしまたろう」の話、更に「オレと由ちゃんと二人で龍宮城に行ったらええんじゃ」(第二十三巻)という雑談レベルの『約束』をずっと覚えていた。そのため「これで漸く一緒に龍宮城に行ける!」と絵に引き込みながら笑ったのだった。

だがそんな泥努の喜びは長くは続かなかっただろう。何故ならば残花少尉が絵から脱出してしまったからである。
皮膚を失った残花少尉は朦朧としながら双亡亭から出た後、病院に運び込まれた。その後(おそらく病院から脱走して)霊水を求めて帰黒がいる白水白城教に乗り込み、霊水で傷を癒したのち帰黒を相棒として再度双亡亭に乗り込んだ。2人が『時の廊下』を通って現代へ飛ばされたのは、双亡亭母屋玄関(過去と現在が交わる場所)に踏み込んだ時だった。

一方泥努にしてみればようやく一緒にいられると喜んだのにその幼馴染が自分の前から姿を消してしまったことになる。残花少尉が『逃げた』のは実は二度目で、一度目は少年のころ、由太郎が姉しのぶを絞殺した時であった。残花は由太郎を夏祭りに誘うために坂巻家を訪れたのだが(おそらく姉に付きっきりな由太郎の気晴らしの為であるとも思われる)、偶然その現場を目撃してしまったのだ。「何やっとるんじゃ由っちゃん!」(第八巻他)と叫ぶ残花に由太郎は「のうざんちゃん、幸せそうじゃろう」(同)と歪んだ笑みを浮かべた。残花はあまりの恐怖に逃げ帰ってしまい、本人はそのことを強く後悔していた。(七巻で再会した時にはそのことについて触れていなかったが、これは残花少尉が『親友に謝りたい』という個人の事情よりも憲兵隊長として『屋敷に逃げ込んだらしい犯人を逮捕する』という任務を優先したからだと考えれる)泥努はそのことを残花の背中に見えた『薄紫色』(由太郎を心配する色)で理解しており、泥努本人も残花が逃げたことに関しては恨んではいなかった。だが彼は最終回にて自分は「私は二度死んだ」(第二十五巻)と言っており、その二度目とは「姉を殺した時」であった。それを考えると恐怖に混ざった「心配」の色を把握しつつも残花が「自分を見棄てて逃げた」ことはやはり思うところがあったのではないかと思う。

それはともかく、せっかく再会できた友は幼い頃の『約束』を忘れており、果たしてもらえないばかりか自分への怒りと共に(泥努の自業自得ではあるが)目の前からいなくなってしまい、泥努にしてみればその後90年近く再会できないことになってしまった。もしかしたら「あいつは死んだのでは」と思ったかもしれない。というのも第三巻で凧葉と初邂逅した時「戻ってきたら私と絵の話をするのだ」(第三巻)と約束を取り付けたが、凧葉が去っていたあと、彼は小さく溜息をつき「多分、あの男も死ぬ」(同)と独りごちていた。凧葉は作中唯一色が視えない人物であり、つまり心が見えない。ということは「あいつも残花や姉さんみたいに私の前から永遠にいなくなるだろう」と内心諦めに近い感情を抱いていたかもしれない。だが凧葉は『侵略者』の支配をほぼ無傷ではねのけ、その後絵に取り込まれた紅や鬼離田姉妹の救出した。泥努は双亡亭内部の出来事を壁に映すことができるため、凧葉の行動も択一把握していた。

その後大量の窒素をアポーツしたアウグスト博士の養女・フロルをおんぶしながら双亡亭の外に出た凧葉だが、フロルを自衛隊に預けた直後、黒い腕たちによって双亡亭内に引き戻されてしまう。泥努は凧葉に「絵の話をする」という約束を果たしてもらいたかったのだ。どんだけ凧葉好きなんだよと思うが、これも過去に姉であるしのぶが詠座に奪われたことや残花少尉に『約束を果たしてもらえずに逃げられた』体験を踏まえると致し方ない部分もあるだろう。おまけに自分と同じ絵描きであり、理解者や友になり得る人物だった。泥努にしてみれば「今度こそ逃がさん!」という気持ちだったかもしれない。

さて、十九巻の帰黒の説明によれば双亡亭内の時間の乱れの中から何本かの『廊下』のような道が、昭和7年の世へと繋がっていたという。つまり昭和7年に繋がる廊下が双亡亭内にはいくつも存在していると考えられる。凧葉の推測通りだとすれば「様々な時代の泥努の『今』から昭和7年の『時』に繋がっている」ことになる。これが何を意味するのかというと、泥努は昭和7年に残花少尉が絵から脱出してから現代にいたるまで90年間絵を描き続けながらずっと彼を待っていたということなのだ。(ちなみに泥努は双亡亭内の時代と時代が交わっていることについて「私に、不都合は、ない」(第十二巻)と言っている)重いよ坂巻泥努…。まあ廊下をつながなかったらすぐに再会できただろうとも思うのだけれど「ゆるさんぞ坂巻!」(第八巻)状態だった残花少尉と話ができるとは思えないので凧葉がいる90年後に廊下が繋がったのはよかったかもしれない。また、以前は姉と幼馴染以外心を開ける人間がいなかった泥努が新たに凧葉や紅と出会い、関わり合うことで泥努に変化を与える必要もあった。やはり90年待ってもらったほうが良かったのだろう。

ところで一つ疑問があるのがだ、泥努は残花少尉を龍宮城に連れて行ったあとはどうするつもりだったのだろうか。泥努は深層心理で「老いても最高の絵が描けなかったら怖い」(第二十三巻)と「画業を成せないまま独り孤独においていく」ことに対して泣くほど恐怖を抱いていた。それでも「友だちが一緒に龍宮城に行ってくれるんだ」「何にも、こわくない」(同)と残花少尉が一緒に来てくれるなら恐怖は和らぐと考えていた。しかし凧葉ならば絵の話をしたり一緒に絵を描く。紅ならば彼女をモデルにして絵を描く、緑朗は自分の作品を見てもらう…とわかるのだが、残花少尉の場合は絵の話ができるわけではないし、由太郎の絵は好きだったようだが今の泥努の絵を残花少尉が気に入る保証はない(多分あの絵柄じゃ無理だろう…)。それは幼馴染である泥努もよく知っているはずだ。しかしそれでも、自分の孤独と恐怖を癒すために龍宮城で永遠に傍にいてもらいたかったのか。残花少尉への恋心を凧葉に見抜かれた帰黒が「黄ノ下少尉のお傍にいられるだけでも…」(第十九巻)と赤面しながら言っていたのだが、案外泥努もこれに近かったのかもしれない。重いわ坂巻泥努。

泥努は気に入った人間、心を赦せる人間に対しては重い感情を抱く傾向があり、彼の対人感情は0(どうでもいい)か100(めちゃくちゃ重い)か-100(死ぬるがよい!)に振り切れているフシがある。これは多分姉であるしのぶの件があったからだろう。このために自分の大事な存在を束縛し、傷つけ、最悪失ってしまうのだ。だが凧葉の介入により泥努にならなかった世界の由太郎は姉や残花以外の様々な人間と関わり、絵描き友達もできたことだろう。そのため特定の誰かに重い感情をぶつけて束縛することなく、誰に対してもちゃんとした健全な人間関係を築けることだろうと思う。