月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

ショーペンハウアー『読書について』①

岩波文庫版だと『ショウペンハウエル』表記になっているが、『ショーペンハウアー』のほうが一般的っぽいので当ブログでもショーペンハウアーでいきます。

この本は『思索』『著作と文体』『読書について』の3編が収録されているのだが表題の『読書について』の記述は実は『著作と文体』よりも少ない。ここでは『読書について』を主に取り上げていきたい。

正直、これを読む前は『アンチ読書』的なことが書かれているイメージがあった。というのもいきなりこんなことが書かれているからである。

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程をたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、生徒の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことはあっても、ほとんど丸一日多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。(読書について)

いきなり辛辣である。そしてこの後も辛辣な文が続く。というか訳のせいもあるかもしれないが、この方の文章はどこを取っても辛辣だ。これを見て『本を読むと馬鹿になる』『本を読まないほうがいいんだ』と考える人もどうやら多いらしい。
しかし結論からいうと、ショーペンハウアーは読書というものを否定していない。

 したがって、読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が必要である。技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。たとえば、読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版に増版を重ねるような政治的パンフレット、宗教宣伝用のパンフレット、小説、詩などに手を出さないことである。このような出版物の寿命は一年である。むしろ我々は、愚者のために書く執筆者が、つねに多数の読者に迎えられるという事実を思い、つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。彼らの作品の特徴を、とやかく論ずる必要はない。良書とだけ言えば、だれにも通ずる作品である。このような作品だけが、真に我々を育て、我々を啓発する。(同)

現代でこんなことを書いたら炎上必至か『意識高い系』と揶揄されるに違いない。あるいは文筆業の人間がかいたとなれば読み手側から『自分の本が売れないから妬んでいるんだろう』ととられかねない。しかしこれは結構重要なことではないかと思う。というもの、昨今のベストセラー本で、例えば十年後も読まれ続けている本というのは何作あるだろうかか。本屋大賞を受賞、ノミネートされた作品の中で、十年後二十年後、更には百年後も読まれる著書というのはいくつあるだろうか。今は確かに出版不況と言われているし、作家も出版社も『売れるための本』を出版するのに必死だろう。ツイッターSNSでフォロワー数が何万人いて、いいねが何万ついて、それに目を付けた出版社がそれらを本にして、というパターンも少なくない。だがそれらが十年後、二十年後、もっといえば一年後も残っているかどうか、と言われると難しいのではないか。言い換えればいかなるベストセラー本であっても、長く読み継がれるのはほんの一握りではないかとも思う。そう考えるとドストエフスキーはやっぱりすごい作家なんだなあ。

それはともかくとして、著者は読書を否定していない。先に引用した『読書は、他人にものを考えてもらうことである』というのは『読書とはこういうものである』という前提を述べているにすぎないのだ。言い換えれば読書というものがはらむ『本質』と言っていいだろう。実際私たちが読んでいる『本』というのは、エッセイにしろ小説にしろ学術書にしろ、結局は『自分以外の誰か』によって書かれたものであり、私たちはそれにお金を払って読んでいるのだ。
だからこそ、著者はどうせ読むなら『悪書』をたくさん読むのではなく、少なくても『良書』を読めと言っているのである。

良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。(同)

この『良書』というのは著者の定義で言えば『古典』である。もっとも著者が『悪書』と切り捨てる本の中にも、良い本はあると思うので全面的には同意はできない。ともかく本を読むなら『良書』に限るというのが著者の主張である。何故なら人間、時間にもお金にも限りがあるからだ。

書物を買いもとめるのは結構なことであろう。ただしついでにそれを買いもとめることができればである。しかし多くのばあい、我々は書物の購入と、その内容の獲得を混同している。(同)

経済学の言葉で『機会費用』というものがある。この場合だとその一冊を読み終えるまでに費やした時間、本屋まで足を運び、帰宅するまでの時間、レジに並ぶ時間というものが挙げられるだろう(今はAmazonあたりポチって終わりだろうけど)。しかしその時間をほかのことに費やすこともできたはずだ。その本が面白かった、自分にとってためになった、何度も読み返したいと思ったならば十分な便益があったといえるだろうが、逆ににその本がつまらなかった、駄作だと感じた場合は、本の購入代金だけでなく、本を読むことに費やした時間も、本屋まで足を運んだ時間も無駄になってくる。その時間でほかの有益なことができたはずだからだ。レシートにあらわれない『目に見えない費用』はかなり重要なのだ。『時は金なり』とはいったものである。
とはいえ本というのは『読んでみないと判らない』という部分があるのだが……。

「反復は研究の母なり。」重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりがより良く理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象を受けるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである。(同)

これは読書に限った話ではなく、わりとやってしまいがちだが「読み終えた。はい、次の本」では駄目ということだろう。ただそれは『重要な書物』に限った話である。逆に言えば『何度も読み返したい本』は著者の定義通り『古典』に限らなくても『良書』と言えるかもしれない。(そして『カラマーゾフの兄弟』は間違いなく『良書』である)。

文学はつねに二つある。この二つはほとんど無縁の関係にあって、並行の道を歩む。すなわち文学には、真の文学と単なる偽の文学の区別がある。真の文学は永遠に持続する文学となる。それは学問のため、あるいは詩のために生きる人々によって営まれ、静かに厳粛に歩む。しかしその歩みは極端に遅く、一世紀の間にヨーロッパで一ダースの作品を生み出すか、出さぬかである。けれどもその作品は持続する。偽の文学は、学問あるいは詩によって生きる人々に営まれて疾走する。その当事者たちは大いに叫びちらす。それは毎年数千の作品を市場に送り出す。しかし、二、三年たてば、人は問う、いったいあの作品はどこへ行ったのか、あれほど早くから大声でもてはやされていたのに、その名声はどこへ去ったのかと。だからこのような文学を流れる文学、真の文学をとどまる文学と呼ぶことができる。(同)

ショーペンハウアーは『著作と文体』でも後者の書き手については辛辣なことを書いている。とはいえ、それを言ってしまったら出版業は成り立たないだろう。たとえ『流れる文学』であっても自分が書いたものは売れたいと思うだろうし、また出版社も商売でやっているので本が売れなければ存続できない。たとえ『良書』であって売れなれれば切られて埋没するだけなのが現状だ。しかしそれがかえって出版不況を招いている面もありそうだけど……現代にも通じる難しい問題であるといえる。

ついでに私が個人的に、著者が私の『代り』に考えてくれたところ――読んていて「ああ、そうだ!その通りだよ!よくぞ言ってくれました!」と思ったところを抜き出してみたい。

作品は著者のエキスである。したがって作品は、著者がいかに偉大な人物であっても、その身辺事情に比べて、つねに比較にならぬほど豊かな内容を備えており、本来その不足をも補うものであるはずである。だが、それだけではない。作品は身辺事情をはるかに凌ぎ、圧倒する。普通の人間が書いたものでも、結構読む価値があり、おもしろくでためになるという場合もある。まさしくそれが彼のエキスであり、彼の全思索、全研究の結果実ったものであるからである。だがこれに反して、彼の身辺事情は我々になんの興味も与えることができないのである。したがってその人の身辺事情に満足しないようなばあいでも、その人の著書は読むことができるし、さらにまた、精神的教養が高まれば、ほとんどただ著書にだけ楽しみを見いだし、もはや著者には興味をおぼえないという高度な水準に、しだいに近づくこともできる。(同)

例えば日本の文豪なんか、人物像を追いかけてみると「この人とは絶対に友達になりたくない」と思うような人が多い。『ザ・人間の屑』として有名なのが太宰治だが、それでも太宰治の作品は今でも読まれるし、作品の価値自体が下がることはない。(と言いつつ私は『人間失格』しか読んでないのだけれど)ドストエフスキーだってググってみると政治犯として逮捕されてシベリア送りになったりギャンブル中毒で夫人に金の無心の手紙を送ったりと結構アレな人だが、作品の価値が損なわれることはない。某有名漫画家もある出来事で逮捕されたが、彼の書いた漫画は読まれ続けている。というかそもそもクリエイターに清廉潔白を求めるのが間違いです(きっぱり)。
とにかく優れた作品というものに関しては著者の人格や人物像はおまけでしかない。誤解を恐れず言えば、著者自身がオマケでしかない。作品が『主』で作者が『従』だ。作者が『主』になってはいけないし、作品が『従』となっている作品はもはや『作品』とは呼べないだろう。

と、いろいろと引用しながら長々と書いてきたが、次回は『思索』『著作と文体』について取り上げていきたい。特に『著作と文体』は文筆業で生計を立てたい方や文章を書くのが好きな方には必読……かもしれない。