月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

ショーペンハウアーと『大審問官』

以前当ブログではショーペンハウアーの『読書について』(岩波文庫版)について記事を書いた。個人的に『2020年読んでよかった本大賞』一位かもしれない本である。なんせ訳の問題もあるかもしれないが、著者の辛辣ぶりが癖になる……というものあるのだが、読書は「ただ本を読めばいい」「本の冊数を重ねればいい」ものではないということが繰り返し書かれており、自分の読書に対する姿勢を改めて考えさせられる本だった。

さて、以前の記事では触れなかったが、本の最初に収録されている『思索』で、個人的にはっとなった箇所があった。その個所を丸々引用してみたい。

世間普通の人たちはむずかしい問題の解決にあたって、熱意と性急のあまり権威ある言葉を引用したがる。彼らは自分の理解力や洞察力のかわりに他人の物を動員できる場合には心の底から喜びを感ずる。もちろん動員したくても、もともとそのような力に欠けているのが彼らである。彼らの数は無数である。セネカの言葉にあるように「何人も判断するよりはむしろ信ずることを願う」からである。したがって論争にのぞんで言い合したように選び出す武器は権威である。彼らはそれぞれ違った権威を武器にして互いに戦いを交える。たまたまこの戦いに巻き込まれた者が、根拠や論拠を武器にして自力で対抗しようとしても得策とは言えない。この論証的思考に対抗する彼らはいわば不死身のジークフリードで、思考不能、判断不能の潮にひたった連中だからである。そこで彼らが畏敬の念をいだく論拠として、この論証的人間の前に持ち出すのが彼らのいただく権威ということになり、続いてただちに勝鬨をあげるという始末になる。(『思索』)

 何故私がこの一節にはっとしたのかというと『カラマーゾフの兄弟』にてカラマーゾフ家の次男、イワンが末弟アリョーシャに聞かせる叙事詩『大審問官』にて似たような記述があったからである。『大審問官』の詳しい内容についてはここでは触れないが、老審問官は目の前に突如現れたイエス・キリストに対して、自身の考えや苦悩といったものをぶつけるのである。(それに対してイエスは決して口を挟まないので、大審問官に対してイエスが論破されていると解釈する人もいるがそれはさておく)

自分で判断してみるがいい。お前と、あの時お前に問いを発した悪魔と、どっちが正しかったか? 第一の問いを思い出すのだ。文字通りでこそないが、意味はこうだった。《お前は世の中に出て行こうと望んで、自由の約束とやらを土産に、手ぶらでいこうとしている。ところが人間たちはもともと単純で、生れつき不作法なため、その約束の意味を理解することもできず、もっぱら恐れ、こわがっている始末だ。なぜなら、人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつで何一つなかったからなのだ! この裸の焼け野原の石ころが見えるか? この石ころをパンに変えてみるがいい、そうすれば人類は感謝にみちた従順な羊の群れのように、お前のあとについて走りだすだろう。もっとも、お前が手を引っ込めて、彼らにパンを与えるのをやめはせぬかと、永遠に震えおののきながらではあるがね》ところがお前は人間から自由を奪うことを望まず、この提案をしりぞけた。服従がパンで買われたものなら、何の自由があろうか、と判断したからだ。(『カラマーゾフの兄弟』第5編5)

何故人間にとって『自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つなかった』のか?それは人間が『永遠の悩み』を持っているからであった。

その悩みとは《だれの前にひれ伏すべきか?》ということにほかならない。自由の身であり続けることになった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探し出すことくらい、絶え間ない厄介な苦労はないからな。しかも人間は、もはや議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。なぜなら、人間と言う哀れな生き物の苦労は、わしなり他のだれかなりがひれ伏すべき対象を探し出すことだけでなく、すべての人間が心からひれ伏すことができるような、それも必ずみんながいっしょにひれ伏せるような対象を探し出すことでもあるからだ。まさにこの跪拝の統一性という欲求こそ、有史以来、個人たると人類全体たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみにほかならない。統一的な跪拝のために人間は剣で互いに滅ぼし合ってきたのだ。(同)

もう一度ショーペンハウアーを引用してみる。

したがって論争にのぞんで言い合したように選び出す武器は権威である。彼らはそれぞれ違った権威を武器にして互いに戦いを交える。たまたまこの戦いに巻き込まれた者が、根拠や論拠を武器にして自力で対抗しようとしても得策とは言えない。この論証的思考に対抗する彼らはいわば不死身のジークフリードで、思考不能、判断不能の潮にひたった連中だからである。そこで彼らが畏敬の念をいだく論拠として、この論証的人間の前に持ち出すのが彼らのいただく権威ということになり、続いてただちに勝鬨をあげるという始末になる。

この『議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意する』存在というのは、まさにこの『権威』ことだろう。これはどんな神を信じるかとかどんな宗派に属しているかとかそういった宗教対立だけの話ではない。

例えばテレビに出ている有名な教授が、ワイドショーか何かで発言をしたとする。すると視聴者は「この先生が言っていることならば正しいのだろう」と思いこむ。ところがその教授の言っていることは、その分野に詳しい人間から間違いを指摘されるものだった。だが多くの人は間違いを指摘した人物よりも、有名教授の言うことを信じてしまう……といった具合だ。或いはSNSでフォロワーが万単位でいる人の投稿に万単位のいいねがつき、さも真実であるかのように拡散される。ところがやはり詳しい人から見ればその投稿は誤りである。けれども一度バズった投稿は真実として拡散され続ける……。

これらは形は違えど『議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意する』『権威』である。他にはアマ〇ンレビューや動画サイトの再生回数、他にも『〇万部突破』のベストセラー本なんかもそうだろう。『高評価がたくさんついているから良いものなのだろう』『いいねがたくさんついているから真実なのだろう』『○○で有名な人が言っているから正しいのだろう』といった具合である。逆パターンとしては『低評価がたくさんついているから良くないものだろう』『こいつが言っているからこれは間違いなのだろう』である。意外と日常的に、私たちは中身を精査しせずに数字や肩書きや人気といった『権威』を見て『これはいいもの』『これは悪いもの』『これは正しい』『これは間違っている』と判断してしまうのだ。有名芸能人が「これ愛用しています」というと途端にそれが品切れになってしまうのもそんな『議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意する』『権威』によって判断したからにほかならない。

これの何がまずいかと言うと、『権威』に『ひれ伏した』手前、自分自身が「これおかしくないか」「なんだかいまいちだな」「思ったよりいいのに何で評価低いんだろう」と思ってもそれを言い出しにくいというのもある。

とはいえ「自分で考えて判断する」ことは言うは易しだが実際は簡単なことではない。まずある程度の知識や判断材料がそろっていなければ判断を誤りかねない(人の話を聞かずに自己流でやって取り返しのつかないことになる、なんてよくある話)。『権威』に『ひれ伏』していれば失敗した時のリスクも少なく済むし、気持ちの上でも楽なのだ。悪魔が言うように『権威』に『ひれ伏』すことがない、『自由』というものは確かに人間と人間社会にとって『堪えがたい』ものであり大きなリスクを伴うものなのである。

そういうわけで、あまりこのブログで社会情勢について扱わないつもりだったのだが、今のコロナ禍の世の中をドストエフスキーショーペンハウアーが見たらどう思うかな、ということをちょっと考えてしまうのであった。。