月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

アリョーシャの『不幸』とスメルジャコフ

臨終の間際、ゾシマ長老はアリョーシャにこう語っていた。

「お前はこの壁の中から出ていっても、俗世間でも修道僧としてありつづけるだろう。大勢の敵を持つことになろうが、ほかならぬ敵たちでさえも、お前を愛することになるだろうよ。人生はお前に数多くの不幸をもたらすけれど、お前はその不幸によって幸福になり、人生を祝福し、他の人々にも祝福されるようになるのだ」(第6編1)

 長老の予言は13年後(第二の小説)のアリョーシャの運命に関するものとも取れる。しかしアリョーシャは長老の死後、『第二の小説』を待つことなく、様々な『不幸』に直面することになる。
最初の『不幸』はゾシマ長老の亡骸から腐臭が出たという騒動が起きたことだった。もっとも腐臭だけならばまだ良かったのだが、長老は『心正しきものの堕落と恥辱を好む』(第六編2D,第七編1)人たちによって貶められた。

しかし、彼が渇望していたのは正義、あくまで正義で会って、単に奇蹟だけではなかった! ところが、彼の期待では全世界のだれよりも当然高くたたえられるべき、ほかならぬその人が、ふさわしい栄光の代りに、突然おとしめられ、恥ずかしめられたのである! 何のために? だれが裁いたのか! だれがそんな判断を下しうるのかー―これが彼の世間ずれしていない無垢な心を苦しめた疑問だった。行い正しき人の中でももっとも正しい人が、はるか下に位する軽薄な群集のあんな嘲笑的な、悪意に満ちた愚弄にさらされたことを、彼は侮辱と、内心の憤りなしには堪えられなかった。(第7編2)

語り手の言葉を借りれば『心が血を流した』アリョーシャだったが、グルーシェニカから与えられた《一本の葱》によって『復活』し、ガリラヤのカナの夢と大地への接吻を経て修道院を出る。(それにしてもアリョーシャのゾシマ長老への傾倒ぶりがすさまじくて若旦那を尊敬していると言われている某下男は果たしてここまでするだろうか?という疑問が湧いてきたりもする)

俗世に出たアリョーシャを待ち受けていたものは、父フョードルの死と長兄ミーチャへの冤罪だった。アリョーシャはミーチャの無実を信じていたが、裁判の結果ミーチャに言い渡されたのは懲役20年というシベリアへの流刑だった。更に次兄イワンは発狂して精神崩壊を起し、アリョーシャが深く関わり合いになり、父スネギリョフとともに寄り添い続けた少年イリューシャも、病気のためこの世を去った。(リーザとの婚約解消とかマスコミに中傷まがいのことも書かれたとかもあるけれど)
余談だがアリョーシャは本編内で、ゾシマ長老(病死?)フョードル(他殺)スメルジャコフ(自殺)イリューシャ(病死)と4人の人間の死と対面している(フョードルとの遺体と対面した描写はないが、葬儀はやったようなのでおそらく遺体を見ていると思われる)。しかもいずれも自身の身近にいた人間である。作者がアリョーシャを『人間の死』と対面させた意味もいろいろと考察できるかもしれない。

さて、アリョーシャの身近に起きた『不幸』のうち、フョードルの死とミーチャの冤罪はスメルジャコフが関わっている。スメルジャコフはフョードルを殺害し、ミーチャに罪を着せたのだ。更にイワンが発狂に至る原因の一つがスメルジャコフであると言える。
カラマーゾフ家の人たちだけではない。スメルジャコフはイリューシャを唆し、犬のジューチカにピン入りパンを食べさせたのだ。このあと『垢すりへちま』事件を経てイリューシャは病気になる。病気とジューチカの件との因果関係は不明だが、イリューシャがジューチカ殺しの罪に苦しんでいたのは事実だ。

「本当の話、あの子は病気になってから。僕のいる前で三度も、涙を浮かべてお父さんにくりかえして言ってましたよ。『僕が病気になったのはね、パパ、あのときジューチカを殺したからなんだよ、神さまの罰が当たったんだよ!』って」(第10編4)

ジューチカの一件はコーリャが詳しく語ってくれるのだが、アリョーシャは(スメルジャコフが関わっていたかまで把握していたかは定かでないが)ジューチカのことをコーリャが語る以前から知っていたと思われる。

ということで、アリョーシャからすれば、スメルジャコフは父親を殺し、兄に無実の罪を着せ、幼い友人を唆して苦しめた――つまり彼の愛する人たちを殺し、貶め、苦しめた張本人なのである。よく『アリョーシャはスメルジャコフに冷淡』と言われるが、こうしてみると恨むとまではいかなくても『冷淡』どころかスメルジャコフに対して憤りを覚え、彼に対して批判を投げつけてもおかしくないだろう。他人を批判したり裁いたりしないというスタンスのアリョーシャではあるが、実際は『憤り』を見せたりすることもある。

「僕、誓います」アリョーシャは叫んだ。「兄はたとえその同じ広場にひざまずいてでも、真心をこめて、衷心から後悔の気持ちをあなたに示すはずです……僕がそうさせます、それをしないようなら、もう兄じゃありません!」(第4編7)

コーリャがイリューシャに黙ってジューチカにペレズヴォンと名を与え、芸を仕込み、ずっと隠し続けていたことが発覚した時は、こう叫んだ。

「それじゃ、ほんとに君は、犬に芸を仕込むためだけに、今までずっと来なかったのですか!」(第10編5)

 そしてミーチャの裁判の時

しかし、例の三千ルーブルがミーチャの頭の中で何かほとんど偏執(マニヤ)に等しいものと化し、兄がそれを父に欺しとられた遺産の不足分と見なしていたことや、まったく私欲のない兄だったのに、この三千ルーブルのことを話すときだけは、必ず気違いのように怒ったことなどを認めしたものの、兄が盗みの目的で殺したかもしれぬという仮定を、アリョーシャは憤りを込めて否定し去った。(第12編4)

アリョーシャがスメルジャコフに『無関心』ならば、フョードルはおろかミーチャやイリューシャ、更にはイワンに対しても『無関心』ということになりかねないが、決してそんなことはない。そういうわけで、彼がミーチャの言葉を信じて(基本的にミーチャは嘘をつけない人間なのも踏まえて)スメルジャコフを『犯人』として名指しするのももっともだと言える。ただ、アリョーシャは『犯人』スメルジャコフを批判したり裁いたりすることはない。スメルジャコフを『名指し』したことについても、彼はこう答えている。

「予審では僕は質問に答えただけです」アリョーシャは低い声で冷静に言った。「自分からスメルジャコフを告発したわけじゃありません」(同) 

とにかく何が言いたいのかというと、アリョーシャがスメルジャコフに『無関心』なのはあり得ないし、父を殺し兄を嵌め幼い子供を唆した『真犯人』に対して『冷淡』だったとしても無理もないだろうという話である。もっともこれまでも当ブログで主張してきたように、アリョーシャがスメルジャコフに『冷淡』だったとは思えない。もし『冷淡』だったとすれば、スメルジャコフの『婚約者』であるマリアが、恋人の自殺を『だれにも知らせず』『真っ先に』アリョーシャの下へ駆けつけることなどありえないだろうからだ(マリアとマリア母はスメルジャコフのことを『自分たちより偉い人』だと尊敬している)。もっとも二人の関係がフョードル殺害前と殺害後、或いは『ギターを持つスメルジャコフ』(第5編2)以前とそれ以降でマリアを介して『変化』していった可能性はある。以前は全く関わり合いのなかった二人が(スメルジャコフはアリョーシャを軽蔑しているし、アリョーシャ自身もスメルジャコフに近づけなかったと思われる)フョードル殺害後に(例えばアリョーシャがマリアと接触したことを機に)何かしらの『交流』を行ったとしてもおかしくはないだろう。このあたりは想像の域を出ないので何とも言えないが、引き続きあれこれ考察していきたい。

 

『カラマーゾフの兄弟』読了一年

私が『カラマーゾフの兄弟』という作品に出会ったのは昨年の五月末だった。
以前も触れたがドストエフスキーは名前こそ知っていたもののまともに読んだことはなく、おそらく一生手を出すことはないだろうと思っていた。しかし当時読んでいた読書術的な本に『カラマーゾフの兄弟』のことが書かれていたこともあり「難しい長編古典に挑戦だ!」という気持ちでまずは新潮文庫版の上巻だけ買ったのである。何故上巻だけだったのかというと「上巻で挫折してしまうようなら読むのをやめよう」と思っていたからだ。個人的には例えば何巻かに分かれている長編場合はすべて一気に買わずに「最初の一巻だけ読んでみよう」と試みるのが作品を読み切るコツだと今でも思っている。

それはともかくとして、私は『カラマーゾフの兄弟』という作品と最初に出会い、今でもツイッターやnoteを経て、こうして所々読み返したり考察を続けたりしている。読み返しているうちに「これはどういうことだろう」という疑問や「ああ、これはそういうことだったのか」という気づきが発見されていく。そして自分なりの考察や解釈が強化されたり「あ、これ違ったわ」と気づかされることもある(じつはこっちの方が多いかも)。まあ、実を言うとすべて自力で考察しただけではなく。実態はほかの人の考察や意見を参考にした部分もかなりあるのだけれども……。何にせよ多分この作品とは一生付き合っていくことになるんだろうなあと思う。弊害は『カラマーゾフの兄弟』を読み終えてから『読書量が減った』ことだが、一応本代の節約になるし『本当に自分にとって読みたいと思う本』に向き合う時間が増えたのはいいことかもしれない。

さて、当ブログでもっぱら扱っているのはカラマーゾフ家の下男であると同時に主フョードルの私生児とされる『犯人』スメルジャコフと、カラマーゾフ家の三男である主人公アリョーシャ。この二人の関係についてである。二人の関係や交流を扱っている理由としては「アリョーシャはスメルジャコフに対して無関心」ないし「冷淡」という解釈を目にするたびに「いやそんなことはないだろう」という気持ちが蓄積されていったのが要因である。

そしてもう一つがスメルジャコフを取り巻く『親切な人たち』(第11編6)。スメルジャコフがギターを弾いてやり、病気のスメルジャコフを『婚約者』として自身の家に住まわせたマリア、「あの人はわたしが生れてからいつもやさしくしてくださっていたんです」(第11編8)スメルジャコフ自身が語る養母マルファ、母リザヴェータが産み落とした赤子を「神の御子」と呼び、スメルジャコフに対して粗暴な言動をとりつつも彼が自殺した時は十字を切ってその死を悼んだ養父グリゴーリイ。ここから見えたのは、スメルジャコフがただ『虐げられていた』『だれからも愛されない人間だった』わけではないということだった。

と、下手に風呂敷を広げずに当ブログでは上の二つのテーマを中心に扱っていこうと思ったのだが、スメルジャコフ関係の考察をしていくと『カラマーゾフの兄弟』という作品全体にやっぱり考察の風呂敷は広がってしまう。というのも多くの人が考察している通りスメルジャコフは影の主役であり、彼抜きには『カラマーゾフの兄弟』を語ることができないだろうからだ。当ブログでもスメルジャコフ関係の記事が多いのはそのためである。スメルジャコフは作品の『影』あるいは『負』の存在、または『影』や『負』を背負わされた存在であるといえるだろう。逆にアリョーシャは『影』に対する『光』であり『負』に対する『正』の存在であると言える。つまり二人の直接記されていない『本当の関係』を読み解くことが『カラマーゾフの兄弟』というこの強大な作品への理解につながっていく……んじゃないかと思う。

 

 

それぞれの『父親殺し』

「お互いにしらを切りやがって。嘘つきめ! だれだって父親の死を望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いをしているだけさ……父親殺しがなかったら、あいつらはみんな腹を立てて、ご機嫌斜めで家へ帰ることだろうよ……とんだ見世物さ!『パンと見世物』か。もっとも俺だって立派なもんだ! 水がありませんか、飲ませてください、おねがいだから!」(第12編)

ミーチャの裁判にて、裁判の傍聴席に向かって言い放つイワン。このイワンのシーンは鬼気迫るものがる。個人的に私が好きなシーンの一つである。

カラマーゾフの兄弟』のテーマは『父親殺し』とされていることが多い。確かに事件として起こるのはカラマーゾフ家の父親フョードルの殺害だ。この『父親殺し』については様々な考察がされているし、ドストエフスキー文学の象徴みたいな言われ方もされる。では一体『父親殺しとは何なのだろうか。
『犯人』スメルジャコフにとっての『父親殺し』とは、自身を『スメルジャーシチャヤの父なし子』として生まれさせたことへの、自身の運命と出自に対する反逆と言えるものであった。イワンは帰郷後から父親に対する軽蔑と嫌悪を次第に募らせ、瞬時殺意を抱くまでに至り、スメルジャコフに『許可』を与えてしまった(というかスメルジャコフによって『許可』を与えるように仕向けられたといえる)。ミーチャは結果的にフョードルを殺さなかったが、母親の遺産とグルーシェニカをめぐる『毒蛇同士の食い合い』を行い、スメルジャコフに色々と仕込まれて『父親殺し』を決行しかけた。アリョーシャの場合は悲劇を止めることができなかった。彼はゾシマ長老の死後に起きた腐臭事件で絶望し、グルーシェニカから与えられた『一本の葱』で復活した。しかしラキーチンと別れた後で修道院に戻らず、カラマーゾフ家の屋敷に向かっていれば『父親殺し』が防げた可能性はある。(ただそうなると『ガリラヤのカナ』の夢や大地への接吻はなかったし、今後アリョーシャが俗世で『実行的な愛』を行うためには『ガリラヤのカナ』の夢を見させ、や大地への接吻を行うことのほうが重要だったのかなとも思う)

だがイワンが言うには「あいつらは親父を殺したくせに、びっくりしたふりをしてやがるんだ!」(同)つまり『父親殺し』の罪は『犯人』スメルジャコフやイワン自身、或いはカラマーゾフ家の全員にとどまらないことを指していたのである。

これで思い出されるのは、裁判前日のアリョーシャとリーザのやり取りである。ここで『父親殺し』のことが語られていいる。

「あたし、自分を台無しにしたいの。この町にいる男の子で、レールの間に伏せていた子がいるんですってね。幸せな子だわ! だってね、今あなたのお兄さまは父親殺しの罪で裁かれようとしているでしょう? ところがみんなは、父親殺しという点が気に入っているのよ
「父親殺しという点が気に入っている、ですって?」
「そうよ、みんな気に入っているわ! 恐ろしいことだなんて、だれもが言っているけど、内心ではひどく気に入っているのよ。あたしなんか真っ先に気に入ったわ」(第11編3)

この直前のやり取りは以下のものだった。

人間には犯罪を好む瞬間がありますからね」アリョーシャが考え込むように言った。
「そう、そうよ! あたしの考えをぴたりと言ってくださったわ。人間は犯罪が好きなのよ。だれだって好きなんだわ。そういう《瞬間》があるどころか、いつだって好きなのよ。ねえ、このことになると、まるでその昔みんなで嘘をつこうと申し合わせて、それ以来ずっと嘘をついているみたいね。悪事を憎むなんてだれもが言うけれど、内心ではだれだって好きなんだわ」(同)

法廷でイワンが傍聴席に向かって言い放った言葉とまるで同じではないだろうか
ここでいう『犯罪を好む』というのは直接自身が犯罪に手を染めることだけにとどまらないだろう。何か恐ろしい事件が起きれば「怖いですねー」とか言いながら内心はそれ自体を娯楽として楽しむし、それが起きることを期待する。ワイドショーでは毎日凄惨な事件やスキャンダルが取り上げられることが多いが、何も関係ない第三者にしてみればそういった事件やスキャンダル自体が『パンと見世物』だ。事故であっても明らかなヒューマンエラーが強ければ強いほど人は興味を惹かれるし、自殺もたとえばその背景にあるものがいじめやパワハラといったものなら興味を集めやすいし。病死とされた死も『何者かに殺されたのではないか』という『犯罪』を見出したがる。陰謀論が尽きないのもそういう『犯罪を好む』ことから起きているのかもしれない。

で、父親殺しの話の戻るが、父親を殺した相手が実の息子とただの召使、どちらが興味をひかれやすいかをちょっと考えてみたい。この場合、明らかに前者の方がインパクトがあるだろう。ミーチャとフョードルという『毒蛇同士の食い合い』があったからなおさらだ。しかもフョードルという男の評判は世間的には好いものとは言い難い。この『毒蛇同士の食い合い』の先に、人々が『父親殺し』という『犯罪』が起ることを期待していたのだ。事実この『父親殺し』の事件は作中ではロシア中が注目した事件とされている。イワンが法廷で暴露したのも、リーザがアリョーシャに語ったのも、そういった『パンと見世物』としての『犯罪を好む』人たちの、いわば人間の本質というか原罪性を暴き出したものと言える。これは『天使』アリョーシャも理解していることではあった。

一週間後に彼は死んだ。町じゅうの人が彼の柩を墓地まで送った。司祭長がまごころのこもった弔辞を述べた。だれもが彼の人生を断ち切った恐ろしい病気を嘆き悲しんだ。だが、葬儀を終えると、町じゅうがわたしを白い目で見るようになり、自分の家に招ずることさえやめた。もっとも、最初はごくわずかだったが、彼の自白の真実性を信ずる者もいて、その数はしだいに増えていき、わたしを訪ねてきては、たいそうな好奇心と嬉しさを示しながら、あれこれを質問するようになった。それというのも、人間は正しい人の堕落と恥辱を好むからである。(第6編2D)

若ゾシマのもとを訪れた『神秘的な客』ミハイルは、殺人を犯したことを14年間隠し通してきた。しかし『生ける神』の手に落ちていたことを気づいたミハイルは、ついにその罪を自身の誕生パーティーの場で告白した。このミハイルが犯した『犯罪』もまた、人々にとっては『正しい人の堕落と恥辱』という『パンと見世物』だったのである。っそしてミハイルを踏襲するように『正しい人の堕落と恥辱』は亡きゾシマ長老にも及んだ。死んでから一日もたっていないのに遺体から腐臭が出たのである。(これについてはアリョーシャの考察も併せてまた後日記事を書きたい)

そういうわけで『父親殺し』の罪はだれにあるのか?と問われた場合『傍聴人を含めた全員』だと言えるだろう。何故なら『正しきものの堕落と恥辱を好む』人々は『パンと見世物』として『犯罪を好』んでいたからである。そしてゾシマ長老やマルケルの言葉を借りれば各人物が『すべてに対して罪がある』からだ。

おまけとして冒頭に引用したイワンの台詞をちょっと言い換えてみたい。

「お互いにしらを切りやがって。嘘つきめ! だれだって心正しき人の堕落と恥辱を望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いをしているだけさ……堕落と恥辱がなかったら、あいつらはみんな腹を立てて、ご機嫌斜めで家へ帰ることだろうよ……とんだ見世物さ!『パンと見世物』か。もっとも俺だって立派なもんだ! 水がありませんか、飲ませてください、おねがいだから!」

もう一つ

「お互いにしらを切りやがって。嘘つきめ! だれだって皇帝殺しを望んでいるんだ。毒蛇が互いに食い合いをしているだけさ……皇帝殺しがなかったら、あいつらはみんな腹を立てて、ご機嫌斜めで家へ帰ることだろうよ……とんだ見世物さ!『パンと見世物』か。もっとも俺だって立派なもんだ! 水がありませんか、飲ませてください、おねがいだから!」

 『父親の死』と『父親殺し』の部分を言い換えてみるといろいろとあてはまるものがありそうである。

ノート好きによるノートへのこだわり

わたしはノートが好きである。これまでもいろいろなノートを使ってきた。今回はそんな中でこういうノートが私にとってベストだ!という条件をちょっと書いていきたい。

①サイズはA5がベスト
ノート術の本を読んでいると、ノートのサイズについて『思いついたことをすぐにメモできるように小さめのものがいい』あるいは『発想やアイデアを広げるためにA4サイズがいい」とかいろいろと書いているのだが、私にとってのベストサイズはA5サイズである。これ以上でもこれ以下でも駄目なのだ(日記として使う場合は例外としてB6サイズがちょうどいいと思っているけども)。
理由はこのA5というサイズが、『鞄に入れて持ち歩くのに適し、尚且つ机に広げて広々と書ける最大サイズ』であると考えているからである。
持ち歩くのならば小さいノートのほうがいいのでは?と思われるかもしれない。私もA6サイズの小さめのノートを使ったことがある。確かに持ち歩く分にはこのサイズのほうがかさばらない。小さければ上着のポケットに入れることもできる。しかし私には使いにくかったのだ。理由はサイズが小さければその分紙面が狭くなるからである。あくまでも私の場合だが、そうなると自然とノートに書くときに変なブレーキがかかってしまい、自由に書くことができなくなるのだ。また私は1冊のノートに何でも書いているため、その分紙面もページ数も足りなくなってくる。
かといってこれがB5サイズやA4サイズと言った大きさになると、今度は気軽に持ち運びがしづらくなる。また紙面が広すぎると逆に何もないところに放り込まれたような気持になり、書くことに対して何だか臆してしまう。そういうわけで私にとってはA5サイスというのが大きすぎず且つ小さすぎない、ベストなサイズなのである。

②主張しすぎない方眼
ノートは罫線、方眼、無地、ドット方眼といったレイアウトがある。以前は罫線ノート派であり、またドット方眼に鞍替えしたこともあるが、最近は方眼が好きである。
理由は罫線と比べると自由度が高く、無地ほど無秩序ではないからだ。罫線は罫線でいいところもある。文字をちゃんとそろえて書くことができるのは罫線のいいところだ。しかし自由度という観点で言えば、罫線はあまり高くない。線を無視してしまえば問題ないのだが、なんだか絵とか図とかを書きづらいし、行間もあまり自由にできない。かといって無地は自由と言えば聞こえはいいがわりと無秩序である。文字を書くときにだんだん斜めになっていくこともあるし、図を書くときに線がゆがんだりもする。これが方眼の場合、自由の中にある程度の秩序ができる。方眼の線を頼りに線を引いたり文字を書いたりすればいいからだ。これはバレットジャーナルでマンスリーログやトラッカーを作っている人ならわかると思う。。なんだかんだでマス目があるのは非常に便利なのだ。
だがこれは『主張しすぎない』というのが前提である。方眼の線が濃いと、書いた文字が見えづらくなり、自由度が一気に減ってしまう。そういうわけで、あまり主張しない、自分が書いた文字を邪魔しない方眼が望ましいのだ。

③万年筆で裏ぬけしない
仕事のときは油性ボールペンを使うが、プライベートのノートの場合、私は万年筆を使っている。といっても高い万年筆ではなく、安価なものだ。ガシガシと遠慮なく使うには安価なものがちょうどよかった。しかもかなり書きやすい。やはり万年筆は使っていて楽しい。ちなみに現在使っているのはPILOTから出ているkakunoという可愛らしい万年筆である。
ということでノートも万年筆で裏ぬけしないというのが条件になってくる。万年筆のインクというのは紙によっては裏ぬけしてしまうのだ。そういうわけでモレスキンはやっぱり駄目である(好きなんだけどね、モレスキン……)

④ページ数がそこそこある
①でも書いたが、私はノートの消費がわりと早い。そのため薄いノートの場合、二週間足らずで一冊使い終わってしまう。かといって何百ページもあるとさすがに分厚すぎるし持ち運ぶのにも重くなる。だいたい80~100枚ぐらい(160~200ページ)ぐらいがちょうどいい。これならば2か月ぐらいは一応もつ。

⑤180度パタンと開く
ここから先は『絶対ではないがあると便利』な条件を書いていく。
ノートを開いていると、片側のページが盛り上がって書きにくくなることがある。ノートを抑えないとページがめくれてしまうこともある。これを解決しているのが糸がかり製法でつくられたノートだ。これのおかげで、完全ではないにしろノートを180度、フラットに開くことができるのだ。これの利点はノートをより広く使えるという点である。私が好きなA5サイズのノートは、開くとA4サイズになる。つまりA4サイズの紙を横向きに使っている感覚になるのだ。そのためノートを広々と使える。左ページに書いたことを右ページにつなげることも可能だし、見開きでイラストや図を描くこともできる。
リングノートを使えばいいじゃないかと思われるかもしれないが、私は基本的にリングノートが得意ではない。昔は好きだったんだけども……。

⑥しおりひもがついている
これは単純にノートを開くときに便利だからである。……うん、本当にこれだけ。でもあると便利ですよ。

と、いろいろ書き連ねてきたが、要はノート沼は深いという話である。ああでもないこうでもないとノートを次から次へと買ってしまって後悔することもしばしばあった。未使用のノートが溜まっていくにつれ(これどうやって使い切るんだろう……)とノートの使い道に悩むこともあった。しかし自分にとってどんなノートが合っているかを見出した時、その沼を脱することができる……と思う。

スメルジャコフ、最期の一か月間④

スメルジャコフが自殺に至るまで、彼がフョードルを殺害してから『神秘的な客』ミハイルと同じように『生ける神』の手の内にあり『真の罰』を受けていたこと、彼を赦し、彼のために祈ってくれる『親切な人たち』の存在があったこと、だが彼自身が『親切な人たち』から注がれる愛を受け入れることができなかったこと……というようなことを『今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より』を引用しながらあれこれ考察しつつ書いてきた。

二度目と三度目の対面の間に、スメルジャコフには健康面もだが、自身の心境についても変化があった。わかりやすのが、これだろう。

「わたしだって、教養を伸ばすために、フランス語の単語をおぼえちゃならんという理由はございませんでしょうが。わたし自身だって、ことによると、ヨーロッパのああいう幸福なところに行けるようになるかもしれない、と思いましてね」(第11編7)

一方三度目の対面時、イワンに三千ルーブルを返したスメルジャコフはこういっている。

わたしにはこんなもの、全然必要ないんです」片手を振ると、スメルジャコフは震える声で言った。「前にはそういう考えもございましたよ。これだけの大金をつかんで、モスクワか、もっと欲を言えば外国で生活をはじめよう、そんな考えもありました。それというのは、『すべては許される』と考えたからです。これはあなたが教えてくださったんですよ。あのころずいぶんわたしに話してくれましたものね。もし永遠の神がないなら、いかなる善行も存在しないし、それにそんなものはまったく必要がないって。あなたは本気でおっしゃっていたんです。だからわたしもそう考えたんですよ」(第11編9)

ついでに、フョードル殺害の前日にマリアに語ったことも抜き出しておきたい。

「でもあの人はわたしのことをいやなにおいをたてる下男なんて言ったんですからね。あの人は、わたしが謀反を起しかねないと思ってるんでさあ。とんだ誤解ですよ。わたしはまとまった金さえ懐にしてりゃ、とうの昔にこんなところにいませんよ」(第5編2)

スメルジャコフはいつかは町から離れ、モスクワか、あるいは外国で暮らすことを夢見ていた。これは彼自身がずっと抱いていた夢でもあっただろう。しかし彼は手に入れた三千ルーブルを『全然必要ない』と言った。彼が自殺を決めていたからとも取れるが、ミハイルのことを考えれば、主であり父かもしれない相手を殺し、無実の人間に罪をかぶせて奪った三千ルーブルを持ちづつけることは『生ける神の手』の中に落ち『真の罰』を与えられていたスメルジャコフにはできなったのかもしれない。(もしイワンが来なかったら三千ルーブルをどうするつもりだったのかという疑問が湧くが……)

また

結婚一か月目から彼は『こうして妻は愛してくれているけれど、もし知ったらどうなるだろう?』という思いにたえず心を乱されるようになったのだ。妻が最初の子を身ごもり、それを告げたとき、かれはふいにうろたえた。『一方では生命を与えているのに、同じそのわたしが人の生命を奪ったのだ』次々に子供が生れた。『このわたしが、どうして子供たちを愛し、教育し、しつけられるだろう。どうして子供たちに善を語れよう。わたしは人の血を流したのだ』子供たちは愛らしく育ってゆき、思わず愛撫したくなる。だが『わたしはその子たちのあどけない、晴れやかな顔を見ることができない。そんな資格はないのだ』やがてついに、殺された犠牲者の血が、滅ぼされた若い生命が、復讐を叫ぶ血が、不気味に、陰鬱に、目にうかぶようになった。恐ろしい夢を見るようにもなった。(第6編2D)

 『神秘的な客』ミハイルは殺人を犯し、その罪を隠した。その罪が露見することはなかったが、彼は14年の間、幸福を得つつも苦しみを与えられていた。スメルジャコフもこれと似たような心境にあったとしても不思議ではないだろう。彼が二度目と三度目の対面時にいた場所は自分を愛してくれる『婚約者』マリアの家であり、三度目の対面時にはグリゴーリイの愛読書だった『われらの聖者イサク・シーリン神父の言葉』があったからだ。(ちなみにイサク・シーリン神父については『シリアのイサアク』或いは『シリアの聖イサク』で検索すると出てくる)。
それを物語りそうなアイテムが三度目の対面時に出てくる。

彼は、マリヤにレモネードを作らせて届けさせようと、立って戸口から声をかけに動こうとしかけたが、彼女に札束を見られぬよう、金を覆い隠すものを探しにかかり、最初ハンカチを取り出してかけたものの、ハンカチがまたしても洟で汚れていることがわかったため、部屋に入るなりイワンが目にとめた、だった一冊だけテーブルの上に乗っている黄色い本をとった。本の表題は『われらの聖者イサク・シーリン神父の言葉』とあった。(第11編8)

このハンカチなのだが、二度目の対面時にも出てくる。

 イワンは跳ね起きるなり、力まかせに相手の肩を拳で殴りつけたため、相手は壁のあたりまでよろけた。とたんにその顔が涙に濡れ、「かよわい人間を殴るなんて、恥ずかしくありませんか、若旦那!」と口走ると、彼はさんざ洟をかんだ、青い縞模様のハンカチで目を覆って、低い声でめそめそと泣きはじめた。(第11編7)

流石に一か月も汚れたハンカチを放置していたとは考えにくい。ということは、スメルジャコフは三度目の対面の前に、泣いていた可能性がないだろうか。自身に襲い掛かる『真の罰』と、彼に対する『親切な人たち』への愛、『裁き』と『赦し』、その両方によって彼が苦しんでいたとしてもおかしくはないだろう。(※ところが読み返したら、ぢうやらイワンに殴られていた時はもともとハンカチ自体が洟で汚れていたっぽい。わたしの読解力ポンコツすぎる……)

余談だがスメルジャコフがイワンに殴られたとき「かよわい人間を殴るなんて」と言っていたが、当初「あれだけイワンをこてんぱんにしたのに自分のことをかよわいとか言っちゃうのか」と突っ込みたくなったが、よくよく考えてみてばこの『かよわい人間』という言葉、実はイワンが創作した『大審問官』の中に出てくる。

それとも、お前にとって大切なのは、わずか何万人偉大な力強い人間だけで、残りのかよわい、しかしお前を愛している何百万の、いや、海岸の砂粒のように数知れない人間たちは、偉大な力強い人たちの材料として役立てばそれでいいと言うのか? いや、われわれにとっては、かよわい人間も大切なのだ。彼らは罪深いし、反逆者でもあるけれど、最後には彼らとて従順になるのだからな。(第5編5)

ということで「かよわい人間を殴るなんて」発言は『大審問官』の作者イワンに対する痛烈な皮肉とも取れるのである(そういえばスメルジャコフのことを『最前線の肉弾』とか言ってたよね、イワン兄さん……)。しかしこの『大審問官』の聞き手はアリョーシャだった。イワン曰くアリョーシャが最初の聞き手らしいので、イワンの悪魔を除けば『大審問官』の話はアリョーシャしか知らないはずだ。イワンがスメルジャコフに語って聞かせていたとは思えないので、もしスメルジャコフが『大審問官』を想起したのだとしたら、アリョーシャがスメルジャコフのもとを訪れていた可能性は大いにありそうである。

さて、以前の記事でも引用した『今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より』の最終章『地獄と地獄の火について。神秘的な考察』の最後の一節を再度引用したい。

ああ、地獄に落ちて、すでに反駁の余地ない真理を明確に知り、観察しているにもかかわらず、傲慢な怒り狂った態度を取りづづけている者もいる。サタンとその傲慢な精神にすっかり共鳴した恐ろしい人々もいるのだ。こういう人々にとって地獄はもはや空くことを知らぬ自発的なものとなり、彼らはすでに自発的な受難者にひとしいのである。なぜなら、彼らは神と人生を呪った結果、我とわが身を呪ったことになるからだ。ちょうど荒野で飢えた者が自分の身体から血をすすりはじめるように、彼らは憎悪に満ちた傲慢さを糧にしているのである。それでいて永遠に飽くることを知らず、赦しを拒否し、彼らに呼びかける神を呪う生ある神を憎悪なしに見ることができず、生の神がいなくなることを、神が自分自身と自己のあらゆる創造物を絶滅することを、彼らは要求するそして、おのれの怒りの炎で永遠に身を焼き、死と虚無を渇望し続けるだろうしかし、死は得られないだろう。(第6編3I)

『今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より』はここで終っている。となるとアリョーシャが最終章の最後の一節にゾシマ長老のこの言葉を持ってきた意図を考える必要があるだろう。
アリョーシャの手記でつづられているゾシマ長老の説法は問題提起→「この場合は○○するとよい」という手順をだいたい踏んでいる。後半の説法部分であるE~Hについては少なくともそうだ。しかし最終章の(I) については違う。「○○するとよい」がないことを含めて他の章と比べるとかなり異色なのだ。(例えばこれが他の章だったら自殺者の話についても『哀れな自殺者を祈ってやるがよい』みたいな説法があると思う)。そしたタイトルの『地獄と地獄の火について。神秘的な考察』。地獄は普通生前『罪人』であった『死者』が行くものだ。章の中にある自殺者の話だけでなく、やはりこの章自体が自ら死を絶った『罪人』スメルジャコフを想起した、というか彼のことを考察した、彼のために書かれた章と言えるだろう。或いは各章がこの最終章に結ぶことを考えれば、手記自体がスメルジャコフのために書かれたといっても過言ではないかもしれない。何故ならアリョーシャはフョードル殺しの犯人をスメルジャコフだと確信していていたからだ。逆に言えばほかの章は『第一の小説』でアリョーシャが関わった人たち、手記を編纂している時点で『生きている人たち』を想起しているともいえる(※もしスメルジャコフが犯人じゃなかったらこの『考察』が根本的に崩れることになるけれども……)。

で、以前の記事でも書いたが、『サタンとその傲慢な精神にすっかり共鳴した恐ろしい人々』とは『神がなければすべては許される』を本気で考えたスメルジャコフのことと言えるだろう。そして思い出したのが、裁判の前日のアリョーシャの祈りである。

『真実の光の中に立ちあがるか、それとも、自分の信じていないものに仕えた恨みを自分やすべての人に晴らしながら、憎悪の中で滅びるかだ』(第11編10)

 アリョーシャはこの時イワンのために祈っているのだが『自分の信じていないものに仕えた恨みを自分やすべての人に晴らしながら、憎悪の中で滅びる』というのはスメルジャコフに当てはまる(以前私は『これをスメルジャコフのことだというのは無理があるだろう』とか言っていたけども……)この『自分の信じていないもの』が具体的に何であるかは不明だが、スメルジャコフ自身が口にした『神さま』、元主であり実父(かもしれない)フョードル、或いは自分を『蠅ぐらいにしか見ていない』(第11編8)と断じた『若旦那』イワン……と様々な考察ができそうである。アリョーシャはマリアとともにスメルジャコフの遺体と対面し、彼が遺した遺書を読んでいる。もしかしたらこの時点では、スメルジャコフの自殺について『自分の信じていないものに仕えた恨みを自分やすべての人に晴らしながら、憎悪の中で滅び』たと考えたのかもしれない。彼が自身に対する『赦しを拒否』し『呼びかける神を呪』ったとも。

こう考えるとやはりスメルジャコフの自殺の動機とは一切の赦しを拒否し、自分自身を裁いたと考えるほうがしっくりくる気もする。ただ、これらはあくまでアリョーシャの視点から見たスメルジャコフ像にすぎない。言ってみれば単なる『解釈の一つ』にすぎないのである。実際に彼の内部でどのような変化が起きたのか、それを知るのは命を絶ったスメルジャコフだけなのだ(ドストエフスキーも知ってるじゃないかというメタなことは置いておく)。ということはよく言われているように単純にイワンに対して失望したからかもしれないし、訪問してきたカテリーナから何か決定的なことを言われたかもしれないし、或いはカラマーゾフ家に対する復讐の総仕上げの意図だったかもしれない。はたまた『真犯人』が他にいた場合、何者かよって殺されたのかもしれない。ありとあらゆる解釈が可能であり、作中における最大の謎としてこの先もいろんな説が出たり論じられることになるだろう。

 

ショーペンハウアー『読書について』②

表題の『読書について』は前回の記事で触れたので、今回はほかの二編『思索』と『著作と文体』について書いていきたい。これ本当に面白い。何度も読み返したくなる。まあ、書かれていることは『読書について』と大隊同じではあるが、ここでは読書そのものよりも、読書と並んで重要なことが書かれている。

数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の整理はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情は全く同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量は断然見劣りしても、幾度も考えぬいた知識であればその価値は断然高い。(思索)

ショーペンハウアーは決して読書を否定しているわけではない。しかしこの『思索』で書かれていることは自分で考えることを放棄してはいけないということである。

読書は思索の代用品にすぎない読書は他人に思索誘導の務めをゆだねる。たいていの本の効用といえばその指導をうける人の前に、いかに多くの迷路が走っているが、いかにその人がはなはだしい迷いの道に踏みこむおそれがあるかを示すだけである。だが自らの天分に導かれる者、言い換えれば自分で自発的に正しく思索する者は正しい路を発見する羅針盤を準備している。そこで読書はただ自分の思索の湧出がとだえた時のみ試みるべきで、事実、もっともすぐれた頭脳の持ち主でもそうしたことはよく見受けられる事実であろう。しかしこれとは逆に本を手にする目的で、生き生きとした自らの思想を追放すれば、聖なる精神に対する叛逆罪である。そういう罪人は植物図鑑を見、銅版画の美しい風景をながめるがめに、広々とした自然から逃亡するのである。(同)

ここまで辛辣だとかえって気持ちいいぐらいである(叛逆罪って……)。繰り返すが、著者は決して読書を否定しているではなく、読み方や読む本をを誤ればよくないということを言っているのだ。(でもそうなると本が好きとか趣味が読書という人はどうすればいいんだという疑問はある……)
そしてこれは、インプットばかりしてないでアウトプットもちゃんとやれ、ということでもあるだろう(多分)。実際アウトプットすることはとても重要だとされている。読書の中で自分が得た気付きをまとめたりするのもその一環だ。また、ビジネス書を読んでそれを実践してみるのもアウトプットにあたる。そうすることで読書で得た知識を自分のものにすることができるし、『自らの思想』に昇華させることも可能だろう。

ちなみに著者は『読書』だけでなく『経験』についてもこんなことを言っている。

読書と同じように単なる経験もあまり思索の補いにはなりえない。単なる経験と思索の関係は、食べることと消化し同化することの関係に等しい。いろいろなことを発見して人知を促進したのが自分であると大言壮語するならば、肉体を維持しているのは自分だけの仕事であると口が高言しようとするようなものである。(同)

ナントカのセミナーに通うだけ通っても大して身にならないようなものだろうか(違う?)。

このほかにも辛辣ながらも色々重要なことが書いてあるのだが、次に『著作と文体』について書いていきたい。実は三編の中でこれが一番長い。そしてやっぱり書き出しから辛辣だった。

 まず第一に著作家には二つのタイプがある。事柄そのもののために書く者と、書くために書く者である。第一のタイプに入る人々は思想を所有し、経験をつんでいて、それを伝達する価値のあるものと考えている
 第二のタイプに入る人々は金銭を必要とし、要するに金銭のために書く。彼らは書くために考える。彼らの特徴は彼らはできるだけ長く思想の糸をつむぐ。真偽曖昧な思想や歪曲された不自然な思想、動揺常ならぬ思想を次々と丹念に繰り広げて行く。また多くは偽装のために薄明を愛する。したがってその文章には明確さ、非の打ちようのない明瞭さが欠けている。そのため我々はただちに、彼らが原稿用紙をうずめるために書くという事実に気がつく。我々の愛読するもっともすぐれた著作家にさえもこのような例を見いすことがある。(著作と文体)

 それを言ってしまったら何も書けないじゃないですかというのはさておき、

 さらにまたおよそ著者には三つのタイプがあるという主張も成り立つ。第一のタイプに入る者は考えずにかくつまり記憶や思い出を糧にして、あるいは直接他人の著書を利用してまで、ものを書く。この種の連中は、もっともその数が多い。第二のタイプはものを書きながら考える彼らは書くために考える。その数は非常に多い。第三のタイプの者は執筆にとりかかる前に思索を終えている。彼らが書くのはただすでに考え抜いたからにすぎない。その数は非常に少ない。(同)

私はこうしてブログを書いており、昔から趣味で小説を書いたりもしているが、三つのタイプで考えるなら『考えずに書く』と『考えながら書く』の両方である。ハイ、スミマセン。
あとこのブログを書く上で個人的に自戒しなきゃなと思ったところが、ここである。

 文筆家たちはまったくあきれるほど誠意に乏しい。その明白な証拠は、彼らがでたらめに他人の著書を引用して、少しの良心のとがめも感じないことである。私の著作も一般的に誤ったでたらめきわまる引用を受けている

一部分、つまり『点』のみを切り取って引用し、解釈することの危うさというのもをことごとく身につまされる。これは小説に限った話ではなく、漫画やアニメといった創作物、マスコミの報道、週刊誌のトンデモ記事なんかもそうだろう。点ではなく『線』を見ることはとても重要なのだ。本の場合であれば『文脈』と言い換えられるだろう。
私はブログで作品考察や読書感想を書くときに本の一節や文章を引用している。しかしその引用が『でたらめ』になっていないか、自分の中の結論ありきで都合のいい部分のみを抜き出していないか、わたしの読み取りが誤っているために、そもそも引用そのものが書き手の意図と誤っていないか……ということを気を付けなければならないと改めて思う。

さて、前回の記事でも触れたのだが、この『著作と文体』は、物書き志望の方にはかなり重要なことが書かれていると思う。

 文体は精神の持つ顔つきである。それは肉体に備わる顔つき以上に、間違いようのない確かなものである。他人の文体を模倣するのは、仮面をつけるに等しい。仮面はいかに美しくても、たちまちそのつまらなさにやりきれなくなる。生気が通じていないためである。だから醜悪この上ない顔でも、生きてさえいればその方がまだましということになる。そのためラテン語で書く著作家も、古人の文体を模倣するかぎり、実際何といっても仮面をつけた人間同然である。つまり、彼らの言葉は聞こえてくる。だがさらに、その言葉に必要な彼らの顔つき、すなわち文体は見えないのである。(同)

私は読むときも書く時も『文体』というものをこれまであまり意識したことがなかった。せいぜい『ですます』調か『だ、である』調かの違い、一人称と三人称のちがい、あるいは児童向けとそれ以外ぐらいしか考えたことがなかった。なので『文章が上手い』『文章が下手』と言われても実を言うと深く考えたことがなかったのである。(それでこんなブログを書いているのだからアホではないかと自分でも思う )
しかし考えてみれば、漫画には絵柄や画力というものがある。著書では『絵柄』にあたるものが『文体』で『画力』にあたるものが『文章力』だろう。漫画でも絵柄が作者によって違うのと同じように『文体』も書き手によって違って当たり前なのだ。ということで『文体』はものを書くときにとても重要なのである。
著者はものを書く時の『文体』の重要性をかなり説いている。

ところでこの「いかにどのように」は言い換えればその人の思索にそなわる固有の性質であり、それを常にすみずみまで支配している独自性である。思索のもつこの性質を精密に写し出しているのが、その人の文体である。つまり文体を見れば、ある人の思想をことごとく決定している形式的な特徴、固有の型がわかるわけで、その人が何について何を考えようとそれは常に変わってはならぬものである。こういう点に注目すれば、文体をもつということは原料のねり粉を持つようなもので、あらゆる形のパンをこね上げることができる。その形の別は問題ではない。

 わりと本を読むときは『どんなことが書かれているか』(内容)に注目しがちだが『どのように書かれているか』(文体)も重要で、書く側も『何を書くか(内容)』だけでなく『どのように書くか(文体)』を意識して文章を書かなくてはならない、ということか。

こういうわけでこの『著作と文体』では『どのように書くか』『どのように書けばいいのか』という、ものを書く時の姿勢を学ぶ上でかなり大切なことが書かれている。『文章の書き方』の本はたくさん出回っているが、ショーペンハウアーの本に書かれているのは読書にしろ思索にしろ著作のことにしろもっと本質的なことであると私は思う。そういうわけで将来もの書きになりたい方にはお勧めの本だと思う。辛辣だし思い当たる節がありすぎて「うっ!」ってなることもあるだろうが、に読んでいくうちにだんだんその辛辣さが癖になっていくし、何より『面白い』。本当はもっといろいろと引用したいのだがきりがないので、あとは本屋で買って読んでください。

 

ショーペンハウアー『読書について』①

岩波文庫版だと『ショウペンハウエル』表記になっているが、『ショーペンハウアー』のほうが一般的っぽいので当ブログでもショーペンハウアーでいきます。

この本は『思索』『著作と文体』『読書について』の3編が収録されているのだが表題の『読書について』の記述は実は『著作と文体』よりも少ない。ここでは『読書について』を主に取り上げていきたい。

正直、これを読む前は『アンチ読書』的なことが書かれているイメージがあった。というのもいきなりこんなことが書かれているからである。

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程をたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、生徒の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことはあっても、ほとんど丸一日多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。(読書について)

いきなり辛辣である。そしてこの後も辛辣な文が続く。というか訳のせいもあるかもしれないが、この方の文章はどこを取っても辛辣だ。これを見て『本を読むと馬鹿になる』『本を読まないほうがいいんだ』と考える人もどうやら多いらしい。
しかし結論からいうと、ショーペンハウアーは読書というものを否定していない。

 したがって、読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が必要である。技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。たとえば、読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版に増版を重ねるような政治的パンフレット、宗教宣伝用のパンフレット、小説、詩などに手を出さないことである。このような出版物の寿命は一年である。むしろ我々は、愚者のために書く執筆者が、つねに多数の読者に迎えられるという事実を思い、つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。彼らの作品の特徴を、とやかく論ずる必要はない。良書とだけ言えば、だれにも通ずる作品である。このような作品だけが、真に我々を育て、我々を啓発する。(同)

現代でこんなことを書いたら炎上必至か『意識高い系』と揶揄されるに違いない。あるいは文筆業の人間がかいたとなれば読み手側から『自分の本が売れないから妬んでいるんだろう』ととられかねない。しかしこれは結構重要なことではないかと思う。というもの、昨今のベストセラー本で、例えば十年後も読まれ続けている本というのは何作あるだろうかか。本屋大賞を受賞、ノミネートされた作品の中で、十年後二十年後、更には百年後も読まれる著書というのはいくつあるだろうか。今は確かに出版不況と言われているし、作家も出版社も『売れるための本』を出版するのに必死だろう。ツイッターSNSでフォロワー数が何万人いて、いいねが何万ついて、それに目を付けた出版社がそれらを本にして、というパターンも少なくない。だがそれらが十年後、二十年後、もっといえば一年後も残っているかどうか、と言われると難しいのではないか。言い換えればいかなるベストセラー本であっても、長く読み継がれるのはほんの一握りではないかとも思う。そう考えるとドストエフスキーはやっぱりすごい作家なんだなあ。

それはともかくとして、著者は読書を否定していない。先に引用した『読書は、他人にものを考えてもらうことである』というのは『読書とはこういうものである』という前提を述べているにすぎないのだ。言い換えれば読書というものがはらむ『本質』と言っていいだろう。実際私たちが読んでいる『本』というのは、エッセイにしろ小説にしろ学術書にしろ、結局は『自分以外の誰か』によって書かれたものであり、私たちはそれにお金を払って読んでいるのだ。
だからこそ、著者はどうせ読むなら『悪書』をたくさん読むのではなく、少なくても『良書』を読めと言っているのである。

良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。(同)

この『良書』というのは著者の定義で言えば『古典』である。もっとも著者が『悪書』と切り捨てる本の中にも、良い本はあると思うので全面的には同意はできない。ともかく本を読むなら『良書』に限るというのが著者の主張である。何故なら人間、時間にもお金にも限りがあるからだ。

書物を買いもとめるのは結構なことであろう。ただしついでにそれを買いもとめることができればである。しかし多くのばあい、我々は書物の購入と、その内容の獲得を混同している。(同)

経済学の言葉で『機会費用』というものがある。この場合だとその一冊を読み終えるまでに費やした時間、本屋まで足を運び、帰宅するまでの時間、レジに並ぶ時間というものが挙げられるだろう(今はAmazonあたりポチって終わりだろうけど)。しかしその時間をほかのことに費やすこともできたはずだ。その本が面白かった、自分にとってためになった、何度も読み返したいと思ったならば十分な便益があったといえるだろうが、逆ににその本がつまらなかった、駄作だと感じた場合は、本の購入代金だけでなく、本を読むことに費やした時間も、本屋まで足を運んだ時間も無駄になってくる。その時間でほかの有益なことができたはずだからだ。レシートにあらわれない『目に見えない費用』はかなり重要なのだ。『時は金なり』とはいったものである。
とはいえ本というのは『読んでみないと判らない』という部分があるのだが……。

「反復は研究の母なり。」重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりがより良く理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象を受けるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである。(同)

これは読書に限った話ではなく、わりとやってしまいがちだが「読み終えた。はい、次の本」では駄目ということだろう。ただそれは『重要な書物』に限った話である。逆に言えば『何度も読み返したい本』は著者の定義通り『古典』に限らなくても『良書』と言えるかもしれない。(そして『カラマーゾフの兄弟』は間違いなく『良書』である)。

文学はつねに二つある。この二つはほとんど無縁の関係にあって、並行の道を歩む。すなわち文学には、真の文学と単なる偽の文学の区別がある。真の文学は永遠に持続する文学となる。それは学問のため、あるいは詩のために生きる人々によって営まれ、静かに厳粛に歩む。しかしその歩みは極端に遅く、一世紀の間にヨーロッパで一ダースの作品を生み出すか、出さぬかである。けれどもその作品は持続する。偽の文学は、学問あるいは詩によって生きる人々に営まれて疾走する。その当事者たちは大いに叫びちらす。それは毎年数千の作品を市場に送り出す。しかし、二、三年たてば、人は問う、いったいあの作品はどこへ行ったのか、あれほど早くから大声でもてはやされていたのに、その名声はどこへ去ったのかと。だからこのような文学を流れる文学、真の文学をとどまる文学と呼ぶことができる。(同)

ショーペンハウアーは『著作と文体』でも後者の書き手については辛辣なことを書いている。とはいえ、それを言ってしまったら出版業は成り立たないだろう。たとえ『流れる文学』であっても自分が書いたものは売れたいと思うだろうし、また出版社も商売でやっているので本が売れなければ存続できない。たとえ『良書』であって売れなれれば切られて埋没するだけなのが現状だ。しかしそれがかえって出版不況を招いている面もありそうだけど……現代にも通じる難しい問題であるといえる。

ついでに私が個人的に、著者が私の『代り』に考えてくれたところ――読んていて「ああ、そうだ!その通りだよ!よくぞ言ってくれました!」と思ったところを抜き出してみたい。

作品は著者のエキスである。したがって作品は、著者がいかに偉大な人物であっても、その身辺事情に比べて、つねに比較にならぬほど豊かな内容を備えており、本来その不足をも補うものであるはずである。だが、それだけではない。作品は身辺事情をはるかに凌ぎ、圧倒する。普通の人間が書いたものでも、結構読む価値があり、おもしろくでためになるという場合もある。まさしくそれが彼のエキスであり、彼の全思索、全研究の結果実ったものであるからである。だがこれに反して、彼の身辺事情は我々になんの興味も与えることができないのである。したがってその人の身辺事情に満足しないようなばあいでも、その人の著書は読むことができるし、さらにまた、精神的教養が高まれば、ほとんどただ著書にだけ楽しみを見いだし、もはや著者には興味をおぼえないという高度な水準に、しだいに近づくこともできる。(同)

例えば日本の文豪なんか、人物像を追いかけてみると「この人とは絶対に友達になりたくない」と思うような人が多い。『ザ・人間の屑』として有名なのが太宰治だが、それでも太宰治の作品は今でも読まれるし、作品の価値自体が下がることはない。(と言いつつ私は『人間失格』しか読んでないのだけれど)ドストエフスキーだってググってみると政治犯として逮捕されてシベリア送りになったりギャンブル中毒で夫人に金の無心の手紙を送ったりと結構アレな人だが、作品の価値が損なわれることはない。某有名漫画家もある出来事で逮捕されたが、彼の書いた漫画は読まれ続けている。というかそもそもクリエイターに清廉潔白を求めるのが間違いです(きっぱり)。
とにかく優れた作品というものに関しては著者の人格や人物像はおまけでしかない。誤解を恐れず言えば、著者自身がオマケでしかない。作品が『主』で作者が『従』だ。作者が『主』になってはいけないし、作品が『従』となっている作品はもはや『作品』とは呼べないだろう。

と、いろいろと引用しながら長々と書いてきたが、次回は『思索』『著作と文体』について取り上げていきたい。特に『著作と文体』は文筆業で生計を立てたい方や文章を書くのが好きな方には必読……かもしれない。