月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

イワンとスメルジャコフ

スメルジャコフを語るうえで外すことができないのが、カラマーゾフ家の次男イワンとの関係だろう。
スメルジャコフは三度目の対面の時、フョードルの元から盗み出した三千ルーブルをイワンに返しながら、こんなことを話している。

「わたしにはこんなもの、全然必要ないんです」片手を振ると、スメルジャコフは震える声で言った。「前にはそんな考えもございましたよ。これだけの大金をつかんで、モスクワか、もっと欲を言えば外国で生活をはじめよう、そんな考えもありました。それというのは、『すべては許される』と考えたからです。これはあなたが教えてくださったんですよ。あのころずいぶんわたしに話してくれましたものね。もし永遠の神がないなら、いかなる善行も存在しないし、それにそんなものは全く必要ないって。あなたは本気でおっしゃっていたんです。だからわたしもそう考えたんですよ」(第11編8)

スメルジャコフがいかにイワンを尊敬し、彼の『すべては許される』に傾倒したかがよくわかる。そしてスメルジャコフの言う『あの頃』というのは、イワンが町に帰ってきたばかりの時だろう。

あのころイワンはスメルジャコフに対してふいに何か一種の特別な関心をいだきかけたし、彼を極めて特異な人間と見なしさえした。自分と話すように仕込んだのは当のイワンだったが、いつも相手の思考の支離滅裂さ、というより思考の落ちつきのなさにおどろかされ、いったい何が《この瞑想家》をこれほど執拗に不安にかりたてうるのか理解できなかった。二人は哲学的な問題も語り合ったし、さらには天地創造のとき、太陽や月が四日目になってやっと作られたというのに、なぜ第一日に光があったのか、これをどう解釈すべきかということさえ話した。(第5編6)

『スメルジャーシチャヤの父なし子』という出自ゆえに自分の運命を呪っているスメルジャコフにとって、イワンとは自分を救い出してくれるかもしれない『救世主』に見えただろうことは想像できる。またイワン自身も、スメルジャコフに対して『一種の特別な関心』を抱きかけたほどだった。二人の出会いとは、アリョーシャがゾシマ長老と出会って修道僧になったように、正しく運命的なものであったのだろう。

イワンを尊敬し、絶対的な忠誠を誓っており、彼のためならば何でもする(殺人すらも?)という印象で語られることが多いスメルジャコフだが、正直わたしはこのスメルジャコフ像に対して疑問がある。果たして本当に彼は、一途にイワンをただただ尊敬しつづけていたのか。というのもスメルジャコフは、マリアとの会話の中で、イワンについてこういっているのである。

「あなたはイワン・フョードロウィチをとても尊敬してるって、ご自分でおっしゃったじゃないの」
「でもあの人はわたしのことを、いやなにおいをたてる下男だなんて言ったんですからね。あの人は、わたしが謀反を起こしかねないと思ってるんでさあ。とんだ誤解ですよ。わたしはまとまった金さえ懐にしてりゃ、とうの昔にこんなところにいませんよ」(第5編2)

一方のイワン自身はというと。

「スメルジャコフなこのごろ、食事のたびにここへ入り込んでくるが、あれはお前にひどく好奇心を燃やしてるんだぞ、どうやってあんなに手なずけたんだ?」
「べつに何も」相手は答えた。「僕を尊敬しようって気を起こしたんですよ。あれはだたの召使で、下種野郎です。もっとも、時期が来れば最前線の肉弾になるでしょうがね」(第3編8)

 これを見ると、スメルジャコフがイワンに対してただ一途に、盲目的に尊敬しているだけではないことがわかる。彼はイワンが『ただの召使で、下種野郎』としか見ていないことをよくわかっていたのだ。

「それというのも、今までずっと、わたしを人間とみなさず、どうせ蠅ぐらいにか見ていないからなんだ」(第11編8)

スメルジャコフは三度目の対面時にこう言っていたが、それを裏付けるように、イワンは意識的にも無意識的にもスメルジャコフに様々な蔑称を投げつけ続けている。二度目の対面時はスメルジャコフを殴りつけもした。(第11編7)そして皮肉にも、そんなスメルジャコフのことをよくよく理解していたのが、頭を割られることになるフョードルだった。

「あのな、俺にはちゃんとわかっているんだ。あいつはみんなに対するのと同じように、この俺にも我慢できないのさ、おまえだって『尊敬しようって気を起した』なんて、いい気になっているけど、同じことだぞ。アリョーシカにいたっては、なおさらだよ。あいつはアリョーシカを軽蔑しているからな」(同)

しかし先ほど引用したように、イワンは当初、スメルジャコフのことを『極めて特異な人間と見なしさえした』し 『自分と話すように仕込んだ』のだ。ところがあることをきっかけに、イワンはスメルジャコフに対して嫌悪を募らせることになる。

だが、間もなくイワンは、太陽や月や星などはまるきり問題ではなく、太陽や月や星はたしかに興味深い対象ではあるものの、スメルジャコフにとっては全く第三義的な者であり、彼に必要なのは全然別のことであるという確信に達した。それはともかく、いずれにせよ、計り知れぬ自尊心が、それも傷ついた自尊心がちらちらと顔をのぞかせるようになってきた。イワンはこれがひどく気に入らなかった。嫌悪が生じたのも、これがきっかけだった。(第5編6)

 思い出すのは、同じ第5編で料亭『みやこ』にて彼が弟アリョーシャに語ったことである。

「人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」(第五編4)

 この『人間の顔』というの『カラマーゾフの兄弟』においてはよく出てくる言葉なので、いずれまた、考察なり解釈なりを書いてみたい。とにかくイワンがスメルジャコフに興味を示したのは、まだ互いに相手の『顔』が見えていなかったからだった。ところが彼の『測り知れぬ自尊心』『傷ついた自尊心』という『顔』が見え始めたとたんに『ひどく気に入らな』くなりしまいには『嫌悪が生じた』のだ。イワンは『相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまう』という自身の持論を、身をもって証明してしまったのである。
もっとも、これはスメルジャコフを相手に限ったことでもないので、イワン一人に責任を負わせてしまうのも酷ではあるけれど、彼はスメルジャコフの『顔』と最後まで。正面から向き合うべきだったのではないかとも思うのである。

人はだれの審判者にもなりえぬことを、特に心に留めておくがよい。なぜなら当の審判者自身が、自分も目の前に立っている者と同じく罪人であり、目の前に立っている者の罪に対してだれよりも責任があるということを自覚せぬかぎり、この地上で罪人を裁くものはありえないからだ。それを理解した上なら、審判者にもなりえよう。一見いかに不条理であろうと、これは真実である。なぜなら、もし自分が正しかったのであれば、目の前に立っている罪人も存在せずにすんだかもしれないからだ。目の前に立って、お前の心証で裁かれるものの罪をわが身に引き受けることができるならば、ただちにそれを引き受け、彼の代わりに自分が苦しみ、罪人は咎めずに放してやるとよい。たとえ法がお前を審判者に定めたとしても、自分にできる限り、この精神で行うことだ。なぜなら、罪人は立ち去ったのち、みずからお前の裁きよりも厳しく自分を裁くにちがいないからである。(第6編3H)

 アリョーシャが編纂した『今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より』でのゾシマ長老の説法の一節だが。この部分を読んでいると、イワンとスメルジャコフの三度の対面を思い起こさせる。イワンがもしもこの姿勢でスメルジャコフと向き合うことができていれば、結果は変わっていたかもしれない。

「イワン・フョードロウィチ!」彼は不意にまた、イワンのうしろ姿に声をかけた。
「何の用だ?」もはや歩きながら、イワンは振り返った。
「さようなら!」
「明日までな!」イワンはまた叫んで、小屋を出た。

このあと、スメルジャコフは遺書を残して自ら命を絶ってしまう。『罪人(スメルジャコフ)は立ち去ったのち、みずからお前(イワン)の裁き(法廷への出廷)よりも厳しく自分を裁』いてしまったのである。『すべては許される』という思想の下、師弟であり主人と召使であり、もしかしたら異母兄弟かもしれない二人は、致命的にすれ違ったままで終わってしまったのだった。