月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

スメルジャコフ自殺に関する私的解釈

『だれにも罪を着せぬため、自己の意志によってすすんで生命を絶つ』(第11編10)

 ミーチャの裁判の前日、イワンとスメルジャコフの三度目の対面が終わった後、フョードル殺害の『犯人』スメルジャコフは謎めいた遺書を残して自殺をする。
スメルジャコフの自殺の動機については様々な考察や解釈がされているが、私の解釈はずばり単純に「自分で自分を罰した」である。

「この遺書に、殺したのは自分であり、カラマーゾフではないと、書き加えるくらい何ほどのことがあるでしょう。ところが彼はそれを書き加えなかった。つまり、一方に対しては責任を感じるほどの良心がありながら、もう一方に対してはそれがないのでしょうか?」(第12編8)

これは裁判でのイッポリートの弁論の一部だが、私は書く必要がなかったのではないかと思っている。というのも、彼の自殺は、おそらくミーチャやイワンに対する謝罪、或いは裁判に集まった聴衆たちに対する告白や懺悔等は含まれていないだろうからだ。むしろ彼の遺書にあるものとは「自分自身の罪はほかならぬ自分自身の手で裁く」という絶対的な『自己の意志』ではないかと思う。

 

だがスメルジャコフが『すすんで生命を絶つ』に至るまでは、おそらく相当の葛藤や分裂というものがあったに違いない。それを物語るのが、三度目の対面時のスメルジャコフの様子だろう。

寝床にスメルジャコフが、相変わらず例のガウンを着て坐っていた。テーブルがソファの前に移されたため、部屋の中がひどく狭苦しくなった。テーブルの上には黄色い表紙の分厚い本がのっていたが、スメルジャコフはその本を読んでいたわけではなく、坐って何もせずにいたらしかった。無言の長い眼差しで彼はイワンを見つめ、明らかにイワンの訪問をいささかも不思議に思っていない様子だった。すっかり顔が変り、ひどくやつれて、色が黄ばんでいた。目は落ちくぼみ、下まぶたが青かった。(第11編8)

ちなみにこの一か月前に行われた二度目の対面時はこうだ。

スメルジャコフの顔を見て、イワンはすぐに、病気がすっかり癒ったのだなと押しはかった。顔がずっと生きいきしていて、太り、前髪もきれいにふくらませて、小鬢の毛がポマードで撫でつけてあった。彼は派手な綿入れのガウンを着ていたが、それはかなり着古したもので、かなりぼろぼろになっていた。これまでイワンが見たこともなかった、眼鏡まで鼻にかけていた。(第11編7)

 

このスメルジャコフの尋常ではない憔悴ぶりを見る限り、彼はイワンとの二度目の対面から何かしらの変化会ったことは明白である。ではその『変化』とは何か。

「おい、お前が夢じゃないかと、俺は心配なんだ。俺の前にこうして坐っているお前は、幻じゃないのか?」彼はたどたどしく言った。
「わたしたち二人のほかに、ここには幻なんぞいやしませんよ。それともう一人、第三の存在とね。疑いもなく、それは今ここにいます。その第三の存在はわたしたち二人の間にいますよ」
「だれが、それは? だれがいるんだ? 何者だ、第三の存在とは?」あたりを眺めまわし、その何者かを探して急いで隅々を見わたしながら、イワンは怯えきって叫んだ。
「第三の存在とは、神ですよ。神さまです。神さまが今わたしたちのそばにいるんです。ただ、探してもだめですよ、見つかりゃしません」
「お前が殺したなんて、嘘だ!」イワンは気違いのようにわめいた。「お前は気が狂ったのか、でなけりゃこの前みたいに、俺をからかってやがるんだ!」(第11編10)

 「え、スメルジャコフって神を信じてたの?」とここで私も驚いた。というのものちの発言で、彼はこうも言っているのである。

「してみると、金を返すからには、今度は紙を信じたってわけだな?」
「いいえ、信じたわけじゃありません」スメルジャコフはつぶやいた

 

「疑いもなく、それは今ここにいます」と断言した「神さま」の存在をスメルジャコフは信じているのか、いないのか。そもそも彼が口にした「神さま」とは何者なのか。
おそらくだが、スメルジャコフは確かに「神さま」の存在を確信している。しかしその「神さま」を信仰しているわけではない、ということだろう。つまり自分はあくまでも「神さま」に対して「赦し」を乞うたり「祈り」を捧げたり「救い」を求めたりはしない、という意思表示だったのではないかと思う。ここでスメルジャコフは、もはや「神さま」であろうイワンであろうと三千ルーブルであろうと、或いは『親切な人たち』(第11編6)であろうと、自分に対する一切の「救い」や「赦し」を拒否しているのではないかと私は思う。それはひとえに『だれにも罪を着せぬため、自己の意志によってすすんで生命を絶つ』(第11編10)ことを決めていたからではないだろか。
そしてもう一つきになるものが、三度目の対面時に、スメルジャコフの部屋に置いてあった『黄色い分厚い本』である。その本とは『われらの聖者イサク・シーリン神父のことば』であった。

じつはこの本が作中で登場するのはこれが初めてではない。スメルジャコフの育ての親であるグリゴーリイの愛読書でもあったのだ。彼はようやくわが子を授かったのだが、その子供は六本指であり、病のため早世してしまった。

マルファの指摘によると、彼はこの墓所のとき以来、もっぱら《神さまのこと》を学ぶようになり、たいてい一人で黙々と、そのつど大きな丸い銀縁眼鏡をかけて『殉教者列伝』を読んでいた。大斎期の時をのぞいて、声を上げて読むことはめったになかった。ヨブ記を好んで読み、またどこからか《われらが神の体得者イサク・シーリン神父》の箴言・説教集を手に入れてきて、何年も根気よく読みつづけ、そこに書いてあることはほとんど何一つわからなかったが、たぶんそれだからこそこの本をいちばん大切にし、愛読したのにちがいなかった。(第3編1)

 グリゴーリイが愛読していた本をスメルジャコフが持っている。スメルジャコフは旧約聖書について「神さまが世界を創ったのは最初の日で、太陽や月や星は四日目なんでしょ。だったら最初の日にはどこから光がさしたんですかね?」(第3編6)とグリゴーリイを小ばかにしたり、またグリゴーリイが持ち帰った『アジヤ人の捕虜になり、ただちに虐殺すると脅迫されながら、キリスト教を捨てて回教に改宗することを迫られたのに、信仰を裏切るのをいさぎよしとせずに苦難に甘んじて受け、皮を剥がれ、キリストを賛美したたえながら死んでいった』ロシア人兵士の話(第3編7)についてスメルジャコフは薄笑いを浮かべてこういった。

「その兵士の英雄的な行為が、たいそう偉大だとしましても、ですね。わたしの考えでは、かりにもそんな不慮の災難にあって、キリストの御名と自分の洗礼とを否定したとしても、ほかならぬそのことによって苦行のために自分の命を救い、永年の間にそれらの善行で臆病を償うためだとしたら、やはり何の罪もないだろうと思うんです」(同)

 彼の話は続くのだが、スメルジャコフは神がかり的な信仰心を持つグリゴーリイとは真逆と言っても過言ではない。そのスメルジャコフの部屋にあったものが『われらの聖者イサク・シーリン神父のことば』なのだ。私はグリゴーリイが他ならぬスメルジャコフのためにこの本を持ってきたのではないかと見ている。しかしイワンが訪れた時、スメルジャコフが本を読んでいる様子は無かった。彼が本を読んだのかは定かでないが、イサク・シーリンの本と静かに向き合っているように見えなくもない。それは言い換えれば「神さま」と向き合っていたのではないかと考えられる。そうして彼は『救い』も『赦し』も拒否し『だれにも罪を着せぬため、自己の意志によってすすんで生命を絶つ』ことを決めたのではないか。とりあえず私の解釈はざっとこんなところである。彼が残した遺書や自殺の動機については引き続き考えていきたいと思う。

永年の間に印象を貯えた結果、ことによると、彼は突然すべてを棄てて、巡礼と魂の救いのためにエルサレムへおもむいたり、あるいはふいに故郷の村を焼き払ったりするかもしれないし、ひょっとすると、その両方がいっぺんに起こるかもしれない。(第3編6)