月宮の日記

読んだ本の解釈とか手帳とかだらだらと自分の考えを好き勝手語っていくだけのブログ。作品のネタバレも普通にあるので注意。※2024/2/29 更新再開

ショーペンハウアーと『大審問官』

以前当ブログではショーペンハウアーの『読書について』(岩波文庫版)について記事を書いた。個人的に『2020年読んでよかった本大賞』一位かもしれない本である。なんせ訳の問題もあるかもしれないが、著者の辛辣ぶりが癖になる……というものあるのだが、読書は「ただ本を読めばいい」「本の冊数を重ねればいい」ものではないということが繰り返し書かれており、自分の読書に対する姿勢を改めて考えさせられる本だった。

さて、以前の記事では触れなかったが、本の最初に収録されている『思索』で、個人的にはっとなった箇所があった。その個所を丸々引用してみたい。

世間普通の人たちはむずかしい問題の解決にあたって、熱意と性急のあまり権威ある言葉を引用したがる。彼らは自分の理解力や洞察力のかわりに他人の物を動員できる場合には心の底から喜びを感ずる。もちろん動員したくても、もともとそのような力に欠けているのが彼らである。彼らの数は無数である。セネカの言葉にあるように「何人も判断するよりはむしろ信ずることを願う」からである。したがって論争にのぞんで言い合したように選び出す武器は権威である。彼らはそれぞれ違った権威を武器にして互いに戦いを交える。たまたまこの戦いに巻き込まれた者が、根拠や論拠を武器にして自力で対抗しようとしても得策とは言えない。この論証的思考に対抗する彼らはいわば不死身のジークフリードで、思考不能、判断不能の潮にひたった連中だからである。そこで彼らが畏敬の念をいだく論拠として、この論証的人間の前に持ち出すのが彼らのいただく権威ということになり、続いてただちに勝鬨をあげるという始末になる。(『思索』)

 何故私がこの一節にはっとしたのかというと『カラマーゾフの兄弟』にてカラマーゾフ家の次男、イワンが末弟アリョーシャに聞かせる叙事詩『大審問官』にて似たような記述があったからである。『大審問官』の詳しい内容についてはここでは触れないが、老審問官は目の前に突如現れたイエス・キリストに対して、自身の考えや苦悩といったものをぶつけるのである。(それに対してイエスは決して口を挟まないので、大審問官に対してイエスが論破されていると解釈する人もいるがそれはさておく)

自分で判断してみるがいい。お前と、あの時お前に問いを発した悪魔と、どっちが正しかったか? 第一の問いを思い出すのだ。文字通りでこそないが、意味はこうだった。《お前は世の中に出て行こうと望んで、自由の約束とやらを土産に、手ぶらでいこうとしている。ところが人間たちはもともと単純で、生れつき不作法なため、その約束の意味を理解することもできず、もっぱら恐れ、こわがっている始末だ。なぜなら、人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつで何一つなかったからなのだ! この裸の焼け野原の石ころが見えるか? この石ころをパンに変えてみるがいい、そうすれば人類は感謝にみちた従順な羊の群れのように、お前のあとについて走りだすだろう。もっとも、お前が手を引っ込めて、彼らにパンを与えるのをやめはせぬかと、永遠に震えおののきながらではあるがね》ところがお前は人間から自由を奪うことを望まず、この提案をしりぞけた。服従がパンで買われたものなら、何の自由があろうか、と判断したからだ。(『カラマーゾフの兄弟』第5編5)

何故人間にとって『自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つなかった』のか?それは人間が『永遠の悩み』を持っているからであった。

その悩みとは《だれの前にひれ伏すべきか?》ということにほかならない。自由の身であり続けることになった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探し出すことくらい、絶え間ない厄介な苦労はないからな。しかも人間は、もはや議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。なぜなら、人間と言う哀れな生き物の苦労は、わしなり他のだれかなりがひれ伏すべき対象を探し出すことだけでなく、すべての人間が心からひれ伏すことができるような、それも必ずみんながいっしょにひれ伏せるような対象を探し出すことでもあるからだ。まさにこの跪拝の統一性という欲求こそ、有史以来、個人たると人類全体たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみにほかならない。統一的な跪拝のために人間は剣で互いに滅ぼし合ってきたのだ。(同)

もう一度ショーペンハウアーを引用してみる。

したがって論争にのぞんで言い合したように選び出す武器は権威である。彼らはそれぞれ違った権威を武器にして互いに戦いを交える。たまたまこの戦いに巻き込まれた者が、根拠や論拠を武器にして自力で対抗しようとしても得策とは言えない。この論証的思考に対抗する彼らはいわば不死身のジークフリードで、思考不能、判断不能の潮にひたった連中だからである。そこで彼らが畏敬の念をいだく論拠として、この論証的人間の前に持ち出すのが彼らのいただく権威ということになり、続いてただちに勝鬨をあげるという始末になる。

この『議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意する』存在というのは、まさにこの『権威』ことだろう。これはどんな神を信じるかとかどんな宗派に属しているかとかそういった宗教対立だけの話ではない。

例えばテレビに出ている有名な教授が、ワイドショーか何かで発言をしたとする。すると視聴者は「この先生が言っていることならば正しいのだろう」と思いこむ。ところがその教授の言っていることは、その分野に詳しい人間から間違いを指摘されるものだった。だが多くの人は間違いを指摘した人物よりも、有名教授の言うことを信じてしまう……といった具合だ。或いはSNSでフォロワーが万単位でいる人の投稿に万単位のいいねがつき、さも真実であるかのように拡散される。ところがやはり詳しい人から見ればその投稿は誤りである。けれども一度バズった投稿は真実として拡散され続ける……。

これらは形は違えど『議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意する』『権威』である。他にはアマ〇ンレビューや動画サイトの再生回数、他にも『〇万部突破』のベストセラー本なんかもそうだろう。『高評価がたくさんついているから良いものなのだろう』『いいねがたくさんついているから真実なのだろう』『○○で有名な人が言っているから正しいのだろう』といった具合である。逆パターンとしては『低評価がたくさんついているから良くないものだろう』『こいつが言っているからこれは間違いなのだろう』である。意外と日常的に、私たちは中身を精査しせずに数字や肩書きや人気といった『権威』を見て『これはいいもの』『これは悪いもの』『これは正しい』『これは間違っている』と判断してしまうのだ。有名芸能人が「これ愛用しています」というと途端にそれが品切れになってしまうのもそんな『議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意する』『権威』によって判断したからにほかならない。

これの何がまずいかと言うと、『権威』に『ひれ伏した』手前、自分自身が「これおかしくないか」「なんだかいまいちだな」「思ったよりいいのに何で評価低いんだろう」と思ってもそれを言い出しにくいというのもある。

とはいえ「自分で考えて判断する」ことは言うは易しだが実際は簡単なことではない。まずある程度の知識や判断材料がそろっていなければ判断を誤りかねない(人の話を聞かずに自己流でやって取り返しのつかないことになる、なんてよくある話)。『権威』に『ひれ伏』していれば失敗した時のリスクも少なく済むし、気持ちの上でも楽なのだ。悪魔が言うように『権威』に『ひれ伏』すことがない、『自由』というものは確かに人間と人間社会にとって『堪えがたい』ものであり大きなリスクを伴うものなのである。

そういうわけで、あまりこのブログで社会情勢について扱わないつもりだったのだが、今のコロナ禍の世の中をドストエフスキーショーペンハウアーが見たらどう思うかな、ということをちょっと考えてしまうのであった。。

ノートのゴムバンドについて

最近読書というものを全然していないので本の感想を書けない。そしてカラマーゾフ考察も全然進んでいない。かといって社会情勢のあれやこれやを語るにはいろいろと知識が不足し手織り考えもまとまっていないので書けない。そろそろ来年の手帳が並び始める季節になったのでそれについても書きたいのだが、自分の中で使い方が定まっていない(今ちょっと試運転中)のでこれについては後日改めて書きたい。

そういうわけで今回のテーマはノートについてである。このブログでも何度かノートの話はしてきた。今現在の私のノートはミドリのMDノートである。相変わらずバレットジャーナル兼なんでもノートとして使っているのだが、最近はその使い方をちょっと変えた。これについてはもう少し使い方が定まってからまた後日……。

元々私はバレットジャーナルにはロイヒトトゥルムというノートを使ってきた。ハードカバーでゴムバンドが付いている、カラーバリエーションも豊富でなかなか使いやすく、見た目もおしゃれなノートだった。難点は入手のしづらさと値段である。MDノートはこの辺りをクリアしているが、ハードカバーでもなければゴムバンドもついていない。コロナ禍でなかなか外出できない(というか緊急事態宣言時あたりは軒並み店が閉まっていた)こともあって、ノートをロイヒトトゥルムからMDノートに切り替えたのだが、このあたりが使う上での不安要素だった。しかしMDノートを2冊使い終え、3冊目に突入した今「別にゴムバンドって必要なくね?」という結論に至ったのである。(※あくまで私の場合です)

まずノートにゴムバンドが付いていることについての利点である。

・ノートが勝手に開かない
ノートを鞄の中に入れると勝手に開いてしまう、或いはノートが鞄の中でぐしゃぐしゃになる、ということがある。これがゴムバンドがあることで解決される。ゴムバンドでしっかり留めることでノートが鞄の中で開かず、多少乱暴に扱ってもぐしゃぐしゃにならないのだ。
また、ノートにたくさん貼物をしている場合、貼った分だけノートが分厚くなる。するとノートが閉じられにくくなる。ゴムバンドを使えば、ノートの閉じられにくさを解消することができるのだ。

・ペンホルダー代わりになる
バレットジャーナル考案者のライダー・キャロル氏がやっているのだが、ゴムバンドを斜め掛けにすると、そこにペンをひっかけることができる。こうすることで即席ペンホルダーが出来上がる。ノートとペンを一緒に持ち歩きたいけどペンホルダーがない! というときは割と重宝する。

・手帳を挟める
手帳とノートを一緒に持ち歩きたいけど片方は忘れがち……と言う方には、ゴムバンドの間に手帳を挟んで持っていくと忘れない

・見た目がおしゃれ
ゴムバンドが付いているノートはそれだけで見た目がおしゃれである。ノートの見た目がおしゃれだと気分が上がる。それだけで無駄にノートを使いたくなる。

 

と、私自身もこのような理由もあってゴムバンドが付いたノートを使ってきた。だがなんでもそうだが長所もあれば短所もある。

・アクションが追加
普通のノートの場合は
ノートを取り出す→ノートを開く→ペンを取り出す→書く
というプロセスを踏むのだが、ゴムバンドついている場合は、アクションが一つつくことになる。
ノートを取り出す→ゴムバンドを外す→ノートを開く→ペンを取り出す→書く
で、ノートをしまうときもゴムバンドをつけるというアクションが追加される。つまりノートを取り出してから仕舞うまでアクションが2つ増えることになる。一秒でも早くメモりたいという人にとってはこの1アクションないし2アクションは手間になってしまう。

・ゴムバンドが引っかかる
収納の仕方に気を付けないと、鞄の中でゴムバンドが他のもの引っかかることがある。鞄からノートを取り出すときもそうだが、他の者を取り出すときも物がゴムバンドに引っかかってストレスになってしまうことがある。

・ものによってはゴムが劣化する
これはものによるが、ノートを長期間使っているとゴムが劣化して伸びっぱなしになることもある。こうなるとおしゃれどころかかっこ悪いし、かえって邪魔になってしまう。

・付箋やインデックスを貼る位置に気を遣う
小口にインデックスや付箋を貼りたいとき、ゴムバンドがかかるところには貼りづらい。これに関しては貼る位置を工夫すれば解決する。

以上、自分が思うゴムバンド付きノートの利点と欠点を並べてみた。最終的には好き好きだし、欠点も工夫すれば解消できるものも多いのでゴムバンド付きのノートは駄目だということではない。しかし、自分がノートに何を求めているか、と言うことを考えることもノート選びの重要な点ではないか、とは思う。

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自負心の悪魔

ここ一か月ぐらいうだる暑さと仕事のストレスと自身の体調不良でブログを更新する気力をすっかり無くしていた。
そして先延ばしにすればするほどやる気と言うものが削がれていき、次第に面倒になっていく始末である。考察ネタもいろいろと書きたかったのだが、記事にすることができなくなっていた。
別に仕事で書いているわけではないし内容など大したことない、ただの個人の自己満足趣味ブログなのだが『鉄は熱いうちに打て』とはその通りだとつくづく思う。『思い立ったら吉日』ともいう。私みたいになんでもずるずる先延ばししたがる人間はやっぱり駄目なのかもしれない。

と、そんなことを考えていて思い出したのが、これである。

倦むことなく実行するがよい。夜、眠りに入ろうとして、『やるべきことを果たしていなかった』と思いだしたなら、すぐに起きて実行せよ。(『カラマーゾフの兄弟』第6編3H)

……と、言うのは簡単だが、実際はかなり難しいことである。例えばこんな風に。

 さながら喜びに似た気持が彼の心に湧いた。彼は自己の内部に限りない意志の堅固さを感じた。最近なんなにひどく自分を苦しめていた迷いも、いよいよこれで終わりなのだ! 決意はできたし『もう変わることはない』―—幸福な気持ちで彼は思った。(第10編8)

スメルジャコフとの三度目の対面を終えたばかりのイワンである。彼は翌日行われるミーチャの裁判で何もかも証言することを心に決めていた。しかし、

わが家に帰りつくと、彼は突然、唐突な疑問をいだいて立ち止まった。『今すぐ、これから検事のところへ行って、すべてを申し立てる必要はないだろうか?』彼はふたたびわが家の向きを変えて、この疑問を解決した。『明日、全部ひとまとめにしよう!』彼は心につぶやいた。と、奇妙なことに、ほとんどすべての喜びが、自分に対する満足が、一瞬のうちに消え去った。(同)

この少し前に、スメルジャコフからはこんなことを言われている。

「そんなはずはありません。あなたはとても賢いお方ですからね。お金が好きだし。わたしにはわかっています。それにとてもプライドが高いから、名誉もお好きだし、女性の美しさをこよなく愛していらっしゃる。しかし、何にもまして、平和な満ち足りた生活をしたい、そしてだれにも頭を下げたくない、これがいちばんの望みなんです。そんなあなたが、法廷でそれほどの恥をひっかぶって、永久に人生を台無しにするなんて気を起すはずがありませんよ。あなたは大旦那さまそっくりだ。ご兄弟の中でいちばん大旦那さまに似てきましたね、心まで同じですよ」

イワンには酷だが、彼の『欠点』かなり凝縮されていると思う。自分は常に安全地帯にいたい、恥をかきたくない、失敗したくない、こっちが損をするようなことは一切したくない――という安定化志向に取り付かれていると言ってもいいかもしれない。『安全地帯』を抜けたくない、或いは抜けることを恐れているのがイワンといえるだろう。だからこそ彼は検事のところへ行かず『明日、ひとまとめにしよう』と行動を『先延ばし』してしまったのである。

ここ、もしイワンが取って返して検事のところに言っていたら何か変わっていただろうか? ミーチャの有罪自体は変わらない、イワンの言うことなど信じてくれない。しかしこの直後に悪魔の幻覚によって苦しめられることもなかったのではないかとも思う。

『君が善を信じたのは結構なことさ。話を信じてもらえなくたってかまわない。俺は主義のために行くんだから、というわけか。しかし、君だってフョードルと同じ子豚じゃないか、君にとって善が何だというんだ? 君の犠牲が何の役にも立たないとしたら、いったい何のためにのこのこ出頭するんだね? ほかでもない、何のために行くのか、君自身もわからないからさ! ああ、何のために行くのか自分にわかるなら、君はどんな値でも払うだろうにね! まるで君は決心したみたいだな? まだ決心していないくせに。君は夜どおし坐って、行こうか行くまいかと、迷い続けることだろうよ。でも、とにかく君はいくだろうし、自分が行くってことも知っている。君がどう決心しようと、その決心が君の遺志によるものじゃないってことも、自分で承知しているはずだよ。君が行くのは、行かずにいる勇気がないからさ。なぜ勇気が出ないか、これは自分で推察するんだね。これは君に与えられた謎だよ!』(第11編10)

このイワンと『悪魔』の『対決』で思い出されるのが、自身をこっけいだという少年コーリャに対するアリョーシャの台詞である。

「そんなことを考えるのはおやめなさい、全然考えないことです!」アリョーシャが叫んだ。「それに、こっけいがどうだというんですか? 人間なんて、いったい何度こっけいになったり、こっけいに見えたりするか、わからないんですよ。それなのに、この節では才能をそなえたほとんどすべての人が、こっけいな存在になることをひどく恐れて、そのために不幸でいるんです。(中略)この節では子供にひとしい人たちまで、その問題で悩みはじめてますよ。ほとんど狂気の沙汰ですね。悪魔がそうした自負心の形を借りて、あらゆる世代に入りこんだんです、まさしく悪魔がね」(第10編6)

 アリョーシャの言葉を借りれば、イワンの『自負心』は裁判にで証言することによって『こっけいに見える』ことを恐れていると言えるだろう。だからこそ彼は『だれにも頭を下げたくない』のだ。その『こっけいに見える』ことへの『恐れ』が『自負心』の形を借りて悪魔の幻覚を生み出していると考えられる。

そしてこの『自負心』の『悪魔』に取り付かれた人物が、もう一人いる。若き日のゾシマ長老が出会った『神秘的な客』である。

「それに、そんな必要があるでしょうか?」彼は叫んだ。「必要ですかね? だって、だれひとり有罪になったわけじゃないし、わたしの代りに流刑になった者もいないんですよ。それに、わたしの話なぞ全然信じてもらえませんよ。わたしのどんな証拠だって信じてくれるものですか。それでも告白する必要があるでしょうか、必要なんですか? 流した血にたいしてわたしはこれからも一生苦しむ覚悟です、ただし妻や子供たちにショックを与えたくないのですよ。妻子を道連れにするのが、果たして正しいことでしょうか? われわれは間違ってやしませんか? それならどこに審理があるのです? それに世間の人たちにその真理がわかるでしょうか、その真理を正しく評価し、尊敬してくれるでしょうか?」
『ああ!』わたしはひそかに思った。『こんな瞬間に、まだ世間の尊敬などと考えているのだ!』(第6編2D)

 『神秘的な客』は最終的に『悪魔』に打ち勝った。イワンは発狂したが、彼がいずれ『復活』することが示唆されている。

「なあ、イワンはだれよりも偉くなるぜ。生きていなけりゃいけないのは、あいつだよ、俺たちじゃない。あいつはきっと快くなるとも」(エピローグ)

『第二の小説』では『自負心』の形を借りた『悪魔』に打ち勝ち『復活』をはたしたイワンがいたかもしれない。

……というかイワン考察ネタにするつもりはなかったんだけどな。まあいいや。

2020年の手帳事情(2020.7現在)

前回上げた『未成年』の記事の続きを書こうと思ったが、いつの間にやら2020年も残り半分を切ってしまったことに気が付いて絶望中。
そして今年はいろいろありすぎてもう何がなんだかわけがわからないよ状態。
まあ、こんな年もあるよね。

というわけで今年の手帳事情について改めて振り返ってみたいと思う。

2020年現在、私の手帳事情はこうなっている。

・MDノートA5サイズ→バレットジャーナル兼なんでもノート
・Edit方眼ノートA5サイズ→仕事用バレットジャーナル
・ロルバーンダイアリー→日記
・マンスリーの手帳→長期的な予定管理

……で、私が前にあげた手帳はこんな感じだった

・A5サイズノート→バレットジャーナル兼なんでもノート
ほぼ日手帳weeks→仕事用手帳
・ロルバーンダイアリー→日記

……って増えとるやん!そしてほぼ日手帳はどこへ行った!

いや、これにはいろいろと事情がある

まずほぼ日weeksをやめた理由について。
これは単純に私氏が使いこなせなかったからというのが大きな原因だが、それよりも「やっぱり手帳よりノートのほうが気楽に使えるよね」という理由でバレットジャーナルを再開させたのが原因である。
まず手帳だとやはり仕事が休みの日は書くことがまずない。特に今年はコロナ禍もあってGWはいつになく長ーい休みとなり、十日間使わないということがあった。そうなるとウィークリーページの場合、丸々見開きが真っ白になる。
更に手帳だとやはり書く分量に制約が出てくる。そして書かなかったこと、つまり手帳から書き漏れたものは忘れてしまったり、頭で覚えておく必要があった。付箋やメモ帳に書いてもいいのだが、どこかへ行ってしまうリスクもあった。ということで泣く泣くweeksを使うことはあきらめて、バレットジャーナルを復活させることになった。以前は使っていた週間レフトの手帳だったが、依然と今では私の生活スタイルも変わっている。あの当時は転職前だったし、バレットジャーナルにもさほど興味もなかったので使えていた、という側面もあったのである。
で、そのweeksを仕事とプライベートの予定管理兼用に使うこともできたが、なんとなく仕事専用で使っていた手帳にプライベートのことを書くのは抵抗があった。

というわけで改めて文具屋で40%OFFで売られていた一月はじまりのマンスリー手帳を使うことになった。なるべくサイズは小さめで、メモページも少なめの、薄いものを選んだ。というのもほとんと予定らしい予定がないからである(キッパリ)。ただ提出物の締め切りなどは書いて、バレットジャーナルのマンスリーログと同期させている(こうでもしないと本気で忘れてしまうからだ)。

マンスリーの手帳に関しては大して書かなくても気にならないというメリットもある。持ち歩きのカレンダーとしての役割も果たしているので、たいして書かなくても問題ない。つまり手帳を使いこなさないとという妙なプレシャーから解放されるのだ。それに薄いマンスリー手帳ならば、厚いノートいっしょに持ち歩いてもかさ張らない。あと家に忘れてもあんまり気にならない(え)。これが一日一ページの手帳やウィークリーの手帳だったら「ああ、またページが真っ白だ」と落胆することになる……うん、最初からこうすればよかったな。問題は手帳シーズンになったとき、様々な手帳に目移りしてしまってあれもこれもと買わないようにしなければならないだろう。物欲との闘いは既に始まっている。

そしてなんでもノート兼バレットジャーナルとロルバーンダイアリーの日記は継続中である(何日かさぼる時もあるが)。やはりノートという気軽さがいいのかもしれない。

ということで2020年7月現在の手帳事情について語ってみた。今のところ2か月ぐらいはこれでうまくいっているので、とりあえずは固定……かもしれない。

ドストエフスキー『未成年』①

「ついにやり遂げたよ!」(by神秘的な客)というわけで、一度は挫折して放置していた『未成年』をようやく通読したので、それに関する記事を書いていきたい。これで一応ドストエフスキーの五大長編はすべて読んだことになる。『カラマーゾフの兄弟」→『罪と罰』→『白痴』→『悪霊』→『未成年』と、何気に私が読んだ順番は『カラマーゾフの兄弟』以外は作品発表順である。いや、だから何だというわけではないけれども。

とはいえストーリーとか作品全体のレビューとかは他の人に任せて、この『未成年』を読んで私が感じたことや気になった登場人物らをネタバレ上等で書いていきたい。

まず主人公のアルカージイである。物語は全編を通して彼の手記によって進められる。アルカージイの出自は地主の男ヴェルシーロフが農奴出身の召使マカールの妻との間にもうけた子供である。つまり私生児だ。このあたり『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフと出自が似ている。彼もカラマーゾフ家の主フョードルの私生児とされているからだ(スメルジャコフはフョードルの子供と断言されているわけではないが)。ちなみにアルカージイの理想はロスチャイルドになることである。
物語の主軸はアルカージイと実父ヴェルシーロフの父子関係だと言われている(実際物語の中で起こる様々な事件や問題にヴェルシーロフはやたらと絡んでいる)アルカージイはこの私生児という生れ故に周囲から差別されてきた。しかし彼本人は、ヴェルシーロフを恨んでいるわけではない。むしろ逆だった。

わたしはヴェルシーロフの貴族の称号もいらないし、自分の生れについて彼を許すことができないでもない、わたしが生れてからこれまで片時も忘れずに望んだのはヴェルシーロフそのものなのだ、彼の人間そのものなのだ、父親なのだ、そしてこの考えがわたしの血の中にしみこんでいるのだ。(第一部第七章)

アルカージイの『血縁上の父親』であるヴェルシーロフは、前回の記事でも少し触れたが、人物像的にはフョードルに近い。彼はアルカージイの母親であるソフィヤを愛していたし、彼女を『天使』とも形容した(これもフョードルとソフィヤの関係に似ている)。しかし彼の考え方そのものはイワンに近いと言えるだろう。ヴェルシーロフはフョードルとイワンを足して二で割ったというのが私の印象である。
例えば前回の記事と被るが、『人間の顔』に関するヴェルシーロフとイワンの言葉を交互に並べてみたい。

人々をそのあるがままの姿で愛するということは、できないことだよ。しかし、しなければならないことだ。だから、自分の気持ちを殺して、鼻をつまみ、目をつぶって(これが特に必要なのだが)人々に善行してやることだ。人々から悪いことをされても、できるだけ腹をたてずに『彼も人間なのだ』ということを思い出してこらえることだよ」『未成年』第二部第一章)

「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなかったんだよ。俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠いものだけだ」(『カラマーゾフの兄弟』第5編4)

「隣人を愛して、しかも軽蔑しない――これはできないことだよ。わしに言わせれば、人間というものは隣人を愛するということが生理的にできないように創られているんだよ。ここにはそもそものはじめから言葉になにかのまちがいがあるのだ、だから『人間に対する愛』という言葉は、きみ自身が自分の心の中につくり上げた人類だけに対する愛(言葉をかえて言えば、自分自身をつくり上げたということになるから、自分自身に対する愛ということになるのだが)、したがって決して実際に存在することのない人類に対する愛と解釈すべきだよ」(『未成年』第二部第一章)

「たとえば相手が俺を見て、こういう思想のために苦悩している人間は当然こういう顔ををしているはすだと想像していたのとは、まるきり違い顔を俺がしていることに、ふいに気づくからなんだよ。そこで相手はすぐさま俺から恩恵を剥奪しちまうわけだが、意地わるな心からじゃ決してないんだからな。乞食、それも特におちぶれ貴族の乞食は決して人前に姿を見せたりせず、新聞を通じて施しを仰ぐべきだろうね。抽象的になら、まだ身近な者を愛することはできるし、ときには遠くからでさえも愛せるものだけれど、近くにいられたんじゃほとんど絶対にだめだと言っていい」(『カラマーゾフの兄弟』第5編4)

ちなみにヴェルシーロフは無神論者というわけではない。これもイワンと同様である。

で、アルカージイなのだが、そもそもアルカージイがヴェルシーロフを求めるのはスメルジャコフがイワンを『尊敬』していたのと似ているのではないかとも思う。相手に対して軽蔑や幻滅を抱くようになるのも同じだ。これは多分『遠いもの』だったヴェルシーロフやイワンが『近いもの』になって『顔』が見えるようになったからともいえる。

そのヴェルシーロフなのだが、私が印象に残ったシーンは、アルカージイの戸籍上の父であるマカール老人の葬儀が行われた日、彼から譲られた聖像を真っ二つに叩き折ってしまうしまうシーンである。その日は彼の内縁の妻(アルカージイの母親であり、ヴェルシーロフがマカール老人から寝とった)ソフィヤ(ソーニャ)の誕生日でもあった。彼はソフィアのために花束を持ってきたのだが、その花束に対して彼かこう語る。

「……まあ、そんなことより花束の話でもしよう。どうしてここまで持ってこれたのか―—自分でもふしぎでならんのだよ。わしは途中で三度ほどこれを雪の上に投げすてて、踏みにじってしまおうと思った

「どうにもがまんがならぬほどだった。わしを哀れんでくれ、ソーニャ、わしのかわいそうな頭を。なぜそうしてやりたかったか、これがあんまり美しすぎるからだ。この世のどんなものでも、花より美しいものがあろうか? わしが花束を持って歩いている、どころがまわりは雪と厳寒(マローズ)だ。わがロシアの厳寒と花――なんという極端な矛盾だ! わしは、しかし、それを考えたのではない。ただ美しいから、踏みにじってやりたかったのだ」(第三部第9章)

彼は言う。「わしは二つに分裂してゆくような気がしてならんのだよ」と。

「わしはある医師を知っていたが、彼は父親の葬式に、だしぬけに口笛を吹きだした。たしかに、わしが今日葬式に行くことを恐れたのは、きっとだしぬけに口笛を吹きだすか、あるいは大声で笑いだすにちがいないという考えが、どういうわけか急に頭に来たからだよ。あの不幸な医師みたいな、しかも彼はあまりいい死にざまはしなかった……それにしても、まったく、どうしてかわからんが、今日はどうもこの医師のことを思い出されてならんのだよ。頭にこびりついて、はなれんのだよ。そら、ソーニャ、わしはまたこの聖像をとり上げただろう(彼は聖像を手に取って、くるくるまわした)、そしてどういうものか、今、すぐに、これを暖炉に、そらそこの角に叩きつけたくてならんのだよ。そしたらきっと真っ二つに割れると思うな―—ちょうど真っ二つに」(同)

もっとも彼がやってきたのは聖像をたたき割るためではなく、自身が『守護天使』と呼ぶソフィヤに別れを告げるためであった。

「信じてくれ、ソーニャ、わしは今天使としておまえのところへ来たのだよ、決して敵だと思ってきたのではない。おまえがわしにとってどんな敵だというのだ、敵であるわけがないじゃないか! この聖像を割るために来たなどと思わないでくれ、だが、わかるかい、ソーニャ、それでもわしは割りたいのだよ……」

そうして彼はその通りのことをしてしまうのだ。タイル張りの暖炉の角に力まかせに聖像を叩きつけたのである。聖像は真っ二つに割れた。

「これをそういう意味にとらんでくれ、ソーニャ、わしはマカールの遺志を破ったのじゃない、ただ割ってみたかっただけなのだ……やはりおまえのもとに戻ってくるよ、おまえは最後の天使だ! だがしかし、比喩ととってくれてもかまわない、どうせこれはこうならなければならなかったのだ……」

引用しながら思ったのだが、このヴェルシーロフの言葉、『みやこ』で別れ際に弟のアリョーシャに対するイワンの台詞に似ている。

「すべて終ったし、何もかも話しつくした、そうだろう? その代り俺の方からも一つ約束しておくよ。三十近くなって俺が《杯を床に叩きつけ》たくなったら、お前がどこにいようと、もう一度お前と話すために帰ってくる……たとえアメリカからでもね、これだけは承知しておいてくれ。そのためにわざわざ帰ってくるさ。その頃のお前を眺めるのも、実に興味深いだろうからな。そのころお前はどんなふうになっているだろう? どうだ、かなり厳粛な約束だろうが」(『カラマーゾフの兄弟』第5編5)

それはともかくとして、この『聖像真っ二つ事件』について考えてみたい。比喩として考えれば二つに割れた聖像がヴェルシーロフの心の分裂を現しているともいえる。その二つに分裂した心とは『肯定と否定』『聖と俗』『光と闇』『正と負』……とまあいろいろな言葉え言い表せられるだろう。これはイワンも同じと言える。やはり彼はフョードルと言うよりイワンに近いのだ。(言うなればソフィヤはヴェルシーロフにとってのアリョーシャ的存在と言える)フョードルも二人目の妻ソフィヤ(イワンとアリョーシャの母親)が所有していた聖母マリアの聖像に唾を吐きかけたことがあった(同第3編8)。

では彼が聖像を叩き割った理由とは何だろうか。彼自身は決して無神論者というわけではないし、マカール老人のことを憎んでいたわけでもない。彼を頭から否定したわけでもない。(マカール老人については次回の記事で取り上げたい)
それはヴェルシーロフが『美しい花』を『踏みにじりたい』と思った理由と同じではないかとおもう。

「そうだな、何か立派なものを踏みにじりたい、でなければあなたの言ったような、火をつけてみたいという欲求でしょうね。これも往々にしてあるもんですよ」(同第11編3)

カラマーゾフの兄弟』にて『家に火をつけてみたい』と言った少女、リーザに対するアリョーシャの返答だが、ヴェルシーロフもそうだったのではないかと思われる。それは『立派なもの』『美しいもの』を『踏みにじりたい』という人間が誰しも持つ悪魔的な欲求に取り付かれたと考えられるのだ。だから彼は繰り返し『ただ割ってみたかった』と言ったのだろう。しかしその欲求を満たしたヴェルシーロフに満足感はなく、むしろ逆の反応が現れたのだった。

彼は不意にわたしたちを振向いた、とその青白い顔がさっと真っ赤になった、というよりはほとんどどす黒くなった、そして顔中の筋肉が細かくふるえだした。(『未成年』第三部第9章)

と、思いがけずにヴェルシーロフ語り(?)みたいになってしまったが、次回はアルカージイの戸籍上の父、マカール老人についてのことや、私の最推し(!)となったタチヤナ・パーヴロヴナについても語りたいと思う。

 

『実行的な愛』と『人間の顔』②

 

先月『未成年』をようやく読み終えたのだが、その中で主人公アルカージイの実父ヴェルシーロフがこんなことを言っている。

人々をそのあるがままの姿で愛するということは、できないことだよ。しかし、しなければならないことだ。だから、自分の気持ちを殺して、鼻をつまみ、目をつぶって(これが特に必要なのだが)人々に善行してやることだ。人々から悪いことをされても、できるだけ腹をたてずに『彼も人間なのだ』ということを思い出してこらえることだよ」

コーランのどこかでアラーが予言者に『従順ならざる者たち』をねずみぐらいに考えて、善をほどこしてやり、さりげなく通りすぎるがよい、と教えている。これは少し傲慢だがしかし正しいことだ。彼らがよいことをしたときでも軽蔑できるようになることだ、というのはそのような時こそ彼らはもっとも醜さも出すからだ」

「隣人を愛して、しかも軽蔑しない――これはできないことだよ。わしに言わせれば、人間というものは隣人を愛するということが生理的にできないように創られているんだよ。ここにはそもそものはじめから言葉になにかのまちがいがあるのだ、だから『人間に対する愛』という言葉は、きみ自身が自分の心の中につくり上げた人類だけに対する愛(言葉をかえて言えば、自分自身をつくり上げたということになるから、自分自身に対する愛ということになるのだが)、したがって決して実際に存在することのない人類に対する愛と解釈すべきだよ」(『未成年』第二部第一章)

前回の記事で引用した『カラマーゾフの兄弟』のイワンの台詞をもう一度抜き出してみる。

「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなかったんだよ。俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠いものだけだ。いつか、どこかで《情け深いヨアン》という、さる聖人の話を読んだことがあるんだが、飢えて凍えきった一人の旅人やってきて暖めてくれと頼んだとき、聖者はその旅人と一つ寝床に寝て抱きしめ、何やら恐ろしい病気のために膿みただれて悪臭を放つその口へ息を吹きかけはじめたというんだ。しかし、その聖者は発作的な偽善の感情にかられてそんなことをやったのだ、義務に命じられた愛情から、みずから自己に課した宗教的懲罰から、そんなことをやったんだと、俺は確信しているよ。人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」(『カラマーゾフの兄弟』第5編4)

 ヴェルシーロフは『カラマーゾフの兄弟』におけるフョードルのような存在だが(主人公のアルカージイはヴェルシーロフの私生児)考え方はイワンに近いと言えるだろう

「たとえば相手が俺を見て、こういう思想のために苦悩している人間は当然こういう顔ををしているはすだと想像していたのとは、まるきり違い顔を俺がしていることに、ふいに気づくからなんだよ。そこで相手はすぐさま俺から恩恵を剥奪しちまうわけだが、意地わるな心からじゃ決してないんだからな。乞食、それも特におちぶれ貴族の乞食は決して人前に姿を見せたりせず、新聞を通じて施しを仰ぐべきだろうね。抽象的になら、まだ身近な者を愛することはできるし、ときには遠くからでさえも愛せるものだけれど、近くにいられたんじゃほとんど絶対にだめだと言っていい」(同)

 イワンやヴェルシーロフに言わせれば『隣人愛』言うなれば『人間を愛する』には『相手が姿を隠す』或いは『自分が目をつぶる』、つまり何らかの方法で自分の近くにいる『相手の顔を見ないようにする』ことだというのである。そして一人という個人よりも何百、何千、何万、何億という『人類全体』のほうが、個々の、一人一人の『人間の顔』は見えにくくなり、人間は隣人でなく『遠いもの』となるのだ。さらに彼らの言う『人間愛』ないし『人類愛』というのは『自分の心の中につくり上げた人類だけに対する愛(=こういう思想のために苦悩している人間は当然こういう顔ををしているはすだ)』ということらしい。よく人間を守るために悪と戦うヒーローが人間の醜さを目の当たりにして「俺はこんな奴らのために戦っていたのか!」と人間に対して憤慨し絶望するパターンがあるのだが、彼らが守っていたのも結局『自分の心の中につくり上げた人類』なのかもしれないのだ。(そう考えると腐臭事件でアリョーシャか人々に絶望したのは、彼らが『自分の心の中につくり上げた人間』ではなかったからかもしれない)

ただ『遠いもの』や『顔を隠したもの』を愛し、或いは『相手の顔を見ないようにしながら』愛するのは『空想な愛』であり『実行的な愛』とは程遠いといえるだろう。以前の記事でも引用したが『実行的な愛』とは『自分の身近な人たちを、あくことなく、行動によって愛する』(第2編4)ことである。ここでいう『身近な人たち』とは『隣人』であり、顔を隠していない、顔が見えている『近しいもの』であり、何千何万何億という『人類全体』ではなく一人一人の『個人』である。そして自身も相手の顔を見ないように目をつぶったりするのではなく、寧ろ相手の『顔』と『飽くことなく』向き合い続けること。そうして『一本の葱』を与え続けること。これが『実行的な愛』なのだ。それはイワンが『この地上では不可能な奇蹟』とよんだ『キリストの愛』に近いものである。

そしてこの『空想の愛』と『実行的な愛』の問題は、実はエピローグにも出てくる。イリューシャの石の前で、少年たち相手に行われるアリョーシャの演説である。

「僕たちはわるい人間になるかもしれないし、わるい行いの前で踏みとどまることができないかもしれないし、ことによると、さっきコーリャが叫んだみたいに『僕はすべての人々のために苦しみたい』と言う人たちを、意地悪く嘲笑うようになるかもしれない」(エピローグ3)

このコーリャの叫びと言うのは、これである。

「ああ、僕もせめていつの日か、真実のためにこの身を犠牲にできたらな」コーリャが熱狂的に言い放った。
「でもこんな事件じゃなくたって、こんな恥辱や恐怖なぞなくたって、いいでしょう!」アリョーシャは言った。
「もちろんです……全人類のために死ねればとは思いますけど、恥辱なんてことはどうだっていいんです。僕らの名前なんか、滅びるに決まっているんですから! 僕は、お兄さんを尊敬しますよ!」(同)

注目したいのは、アリョーシャがコーリャの台詞を言い換えている点である。『全人類のために死ねればと思いますけど』が『僕はすべての人々のために苦しみたい』に代わっているのだ。

「空想の愛は、すぐに叶えられる手軽な功績や、みなにそれを見てもらうことを渇望する。また事実、一命さえ捧げるという境地にすら達することもあります、ただ。あまり永つづきせず、舞台でやるようになるべく早く成就して、みなに見てもらい、誉めそやしてもらいさえすればいい、というわけですな。ところが実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです」(第二編4)

コーリャが『全人類のために死ねたら』というのは『空想の愛』からだと言っていいだろう。『全人類』は個々の人間の顔が見えず『遠いもの』だからだ。コーリャが無実の罪で滅びたミーチャに英雄的な『憧憬』を抱く。コーリャはまだ13歳の少年であり『愛の経験が少ない』ゆえの未熟さと危うさも内包している。そんなコーリャに対してアリョーシャは『僕はすべての人々のために苦しみたい』と少年の言葉を言いかえている。『すべての人々のために苦しむ』ことは『実行的な愛』を生きることに他ならない。言うなればアリョーシャはコーリャに人間の顔を見ないようにする『空想の愛』ではなく人間の顔と向き合う『実行的な愛』を生きることをこの『言い換え』で説いているのだ。あくまでもコーリャの言葉を否定せずに言い換えているのがアリョーシャらしいと言えるだろう。
(※私が引用しているのは原卓也訳である。光文社の亀山訳だとアリョーシャの言いかえ部分が『全人類のために死ねたら』になっているので訳によって違っているのかもしれないしロシア語の原文はもしかしたら『全人類のために死ねたら』になっているかもしれない。それだと『実行的な愛』を生きるアリョーシャがコーリャの『空想の愛』をそのまま肯定するのはどうなの?とも思うけれど……或いは『第二の小説』でアリョーシャが『実行的な愛』という『仕事』を捨てて『空想の愛』をとるという伏線?ということなのだろか?いや、知らんけど)

……なんか前回書いた記事とあまり内容が変わらないような気もするが、この『実行的な愛』とそれを阻む『人間の顔』の問題、言うなれば『いかにして個々の人間の顔と向き合いながら実行的な愛を生きるか』がテーマと言えるかもしれない。

『われわれの仕事はどうだ? お前も、もの静かなおとなしいわたしの坊やも、今日、渇望している女に葱を与えることができたではないか。はじめるがよい、倅よ、自分の仕事をはじめるのだ、おとなしい少年よ! われわれの太陽が見えるか、お前にはあの人が見えるか?』(第7編4)

『身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠いものだけだ』と言い、実際自分の身近にいるスメルジャコフが『計り知れない自尊心』『傷ついた自尊心』を見せたとたんに嫌悪感を抱き、最後まで彼と向き合わなかったイワン。
《童》の夢を見て自身の罪深さに目覚め、無実の罪を背負うことを決心しつつも結局それから逃げ出そうとし、自身が傷つけたスネギリョフやイリューシャに対して関心を寄せた形跡のないミーチャ。
そんな彼らの代りに『個々の人間の顔』と向き合いながら『実行的な愛』を俗世にて生きようとしているのがアリョーシャなのである。

『実行的な愛』と『人間の顔』①

カラマーゾフの兄弟』においては『実行的な愛』という言葉がしばし出てくる。
この言葉が最初に出てくるのは『場違いな会合』にて、娘のリーズとともに修道院にやってきたホフラコワ夫人と、ゾシマ長老のやり取りである。ホフラコワ夫人は『来世』というものに疑いを抱いており、信仰心が薄れ、そのことで苦しんでるのだった。

「もっとも、あたくしが来世を信じておりましたのは、ごく幼いころだけで、何も考えず、ただ機械的に信じていたのでございます……では、いったいどうすれば、何によって、それを証明できるのでしょう。あたくし、あなたの前にひれ伏して、それをおねがいするために、今こうして参ったのでございます」(第2編4)

このホフラコワ夫人に対する長老の回答は、こうだった。

実行的な愛をつむことによってです。自分の身近な人たちを、あくことなく、行動によって愛するよう努めてごらんなさい。愛をかちうるにつれて、神の存在にも、霊魂の不滅にも確信がもてるようになることでしょう。やがて隣人愛における完璧な自己犠牲境地にまで到達されたら、そのときこそ疑う余地なく信ずるようになり、もはやいかなる懐疑もあなたの心に忍び入ることもできなくなるのです。これは経験をへた確かなことです」(同)

 『自分の身近な人たちを』『あくことなく』『行動によって愛する』――道徳的と言えば道徳的で当たり前のことを言っているようにも思える。しかしこの『自分の身近な人たちを』『あくことなく』『行動によって愛する』というのは非常に困難なことでもあった。

「その人はこう言うんです。自分は人類を愛しているけど、われながら自分に呆れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れていくからだ。空想の中ではよく人類の奉仕という情熱的な計画まで立てるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら、おそらく本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないのだけれど、それにもかかわらず、相手がだれであれ一つの部屋に二日と暮すことができないし、それは経験でよくわかっている。だれかが近くに来ただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ。わたしはわずか一昼夜のうちに立派な人をにくむようにさえなりかねない。ある人は食卓でいつまでも食べているからという理由で、別の人は風邪をひいていて、のべつ洟をかむという理由だけで、その人たちの敵になってしまうだろう。その代わり、個々の人を憎めば憎むほど、人類全体に対するわたしの愛はまずます熱烈になっていくのだ、とその人は言うんですな」(同)

この「『人類全体』は愛せても『個々の人間は愛せない』」問題については、『プロとコントラ』でイワンがアリョーシャに語っている。

「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなかったんだよ。俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠いものだけだ。いつか、どこかで《情け深いヨアン》という、さる聖人の話を読んだことがあるんだが、飢えて凍えきった一人の旅人やってきて暖めてくれと頼んだとき、聖者はその旅人と一つ寝床に寝て抱きしめ、何やら恐ろしい病気のために膿みただれて悪臭を放つその口へ息を吹きかけはじめたというんだ。しかし、その聖者は発作的な偽善の感情にかられてそんなことをやったのだ、義務に命じられた愛情から、みずから自己に課した宗教的懲罰から、そんなことをやったんだと、俺は確信しているよ。人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」(第5編4)

イワンの『神がなければ不死はない、不死がなければ善行もない』という思想は『身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠いものだけ」という考えに基づいていると言えるだろう。そして残念ながらイワンの言うことは実は正しい。
例えば新婚ホヤホヤのころは仲睦まじかった夫婦が、結婚後数年たつと喧嘩が絶えなくなるということがある。これは一緒に暮らしていると相手の嫌な部分、欠点が見えるようになるからだという。これを乗り越えられないと「離婚」という結末を迎えることになる。
或いはネットで人権問題、いじめ差別といった問題に関してもっともらしい意見を言ったりいいねを押したり、或いは自分の推し(俳優だったり二次元のキャラだったり)を賛美しているくせに、自分の身近にいる人間(家族だったり親戚だったり会社の人間だったり)の悪口や愚痴を吐き出したりすしているのもそうかもしれない。……え? 私ですか? ノーコメントです(汗)
さて、イワンの持論に対するアリョーシャの反応はというと、

「そのことはゾシマ長老も一度ならず話しておられました」アリョーシャが口をはさんだ。「長老もやはり、人間の顔はまだ愛の経験の少ない多くの人にとって、しばしば愛の妨げになる、と言っておられたものです。でも、やはり人類には多くの愛が、それもキリストの愛にほとんど近いような愛がありますよ。そのことは僕自身よく知っています、兄さん……」(同)

ここで『キリストの愛』というのが出てきた。(私はキリスト教徒ではないではないのでキリスト教徒ではないなりの解釈しかできないのを断っておきたい)この『キリストの愛』というのは、ゾシマ長老が言っていた『実行的な愛』と同義といってもいいだろう。つまり『自分の身近な人たちを、あくことなく、行動によって愛する』ことだ。しかしイワンは言う。

「ところが今のところ俺はそんなことは知らないし、理解もできないね。それに数知れぬ多くの人たちだって俺と同じことさ。ところで問題は、人間の悪い性質からそういうことが起るのか、それとも人間の本性がそういうものだから起こるのか、という点なんだ。俺に言わせると、人間に対するキリストの愛は、見方を変えれば、この地上では不可能な奇蹟だよ。なるほど、キリストは神だった。ところが、我々は神じゃないんだからな」(同)

イワンのキリスト観、人間観がよくわかる台詞である。イワンのキリスト観は別の機会に考察してみたいが、ここでわかるのは彼の中でイエス・キリストの存在がいかに大きいかという点であろう。(なので某氏が言う『大審問官』のイエスのキスが『敗北宣言』という考察はまず『無い』と個人的には思う)とにかくイワンは『個々の人間』を軽蔑しているが、アリョーシャは『個々の人間』を逆に信じている。(だからこそこの後怒る『腐臭事件』での人々の反応が余計にショックだったのかもしれない。最初から人間を軽蔑していれば「人間なんて所詮この程度のものだ」で済んだはずだからだ)。

とにかく『実行的な愛』を行うにあたり『人間の顔』というのは大きな妨げとなっているのだ。しかしこれだけだと『実行的な愛』なんて絶対無理じゃねえかという話になってしまう。そうなると『実行的な愛』と反対の『空想の愛』を行うしかなくなってくるのではないか。

「空想の愛は、すぐに叶えられる手軽な功績や、みなにそれを見てもらうことを渇望する。また事実、一命さえ捧げるという境地にすら達することもあります、ただ。あまり永つづきせず、舞台でやるようになるべく早く成就して、みなに見てもらい、誉めそやしてもらいさえすればいい、というわけですな。ところが実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです。しかし、あらかじめ申し上げておきますがの、あなたのあらゆる努力にもかかわらず、目的にいっこうに近づかぬばかりか、かえって遠ざかっていくような気がするのを、恐怖の目で見つめるような、そんな瞬間でさえ、ほかならぬそういう瞬間にさえも、あなたはふいに目的を達成し、たえずあなたを愛して終始ひそかに導きつづけてこられた神の奇蹟的な力を、わが身にはっきりと見いだせるようになれるのです」(第2編4)

『空想の愛』は手軽に行うことができて、自身の自尊心を満足させられる。しかも『愛の妨げになる』『人間の顔』を見続ける必要がないし、では『実行的な愛』ではなく『空想の愛』でいいではないか、とも思える。だがゾシマ長老は、あくまで『実行的な愛』の重要性を説く。

兄弟たちよ、愛は教師である。だが、それを獲得するすべを知らなければならない。なぜなら、愛を獲得するのはむずかしく、永年の努力を重ね、永い期間をへたのち、高い値を払って手に入れるものだからだ。必要なのは、偶然のものだけを瞬間的に愛することではなく、永続的に愛することなのである。偶発的に愛するのならば、だれにでもできる。悪人でも愛するだろう。(第6編3G)

とはいえその『実行的な愛』をどう行えばいいんだという話になってくる。イワンの言う通り「身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠いものだけ」だし「人間の顔はまだ愛の経験の少ない多くの人にとって、しばしば愛の妨げになる」のだ。相手に顔を隠してもらうか、こちらが目を瞑って顔を見ないようにするしかなくなってしまうだろう。しかしそれでは『空想な愛』と同じである。
もう一度、ホフラコワ夫人とゾシマ長老のやり取りに戻りたい。

「でも、どうしたらよろしいのでしょう? そんな場合、どうすればよろしいのでしょうか? そんなときは絶望するほかないのですか?」
「いいや、あなたがそれを嘆いていることだけで十分なのです。ご自分にできることをなさい、そうすれば報われるのです」(第2編4)

何も『情け深いヨアン』みたいに『恐ろしい病気のために膿みただれて悪臭を放つその口へ息を吹きかけ』てやる必要はない。自分にできることを『自分の身近な人』に『飽くことなく』行えばいいのだ。この『自分にできること』は作中で登場するとある言葉で表すことができるだろう。それは『一本の葱』だ。

『なぜ、わたしを見て驚いている? わたしは葱を与えたのだ、それでここのいるのだよ。ここにいる大部分の者は、たった一本の葱を与えたにすぎない、たった一本ずつ、小さな葱をな……われわれの仕事はどうだ? お前も、もの静かなおとなしいわたしの坊やも、今日、渇望している女に葱を与えることができたではないか。はじめるがよい、倅よ、自分の仕事をはじめるのだ、おとなしい少年よ! われわれの太陽が見えるか、お前にはあの人が見えるか?』(第7編4)

ガリラヤのカナ』の夢に出てきたゾシマ長老の言葉だ。グルーシェニカがゾシマ長老の死に十字を切ったように、或いはアリョーシャがグルーシェニカを『誠実な姉』と呼んだように――何も大仰なことをやらなくてもいい。重要なのは自分に対して『顔』を見せている『身近な』『個々の』人間に対して自分自身ができることをやる、つまり小さな『一本の葱』を『あくことなく』与え続けることなのだ。そしてこれこそがゾシマ長老によって俗世へと送り出されるアリョーシャの『仕事』であった。

しかしもう一つ問題がある。それは自分自身が『一本の葱』を、言うなれば『実行的な愛』を相手から与えられたことに気が付けるかどうかだ。いかに『一本の葱』を与えられようとも、そのことに気が付く必要がある。『実行的な愛』というのは与える側だけでなく、与えられる側にとっても困難なものと言えるのだ。アリョーシャはグルーシェニカから『一本の葱』を与えられたことに気が付いたからこそ、小さな『一本の』葱を彼女に返すことができた。しかし『一本の葱』を与えられていることに気がづかなければ、アリョーシャが『復活』することはなかっただろう。この『与えられる』側の問題に関してはまた次回記事を書いていきたい。